2010-08-08

現代俳句協会青年部勉強会 シンポシオンⅡ『俳句における自動機械』 レポート 太田ユリ

現代俳句協会青年部勉強会 シンポシオンⅡ『俳句における自動機械』 レポート
人と呼ばれる自動機械

太田ユリ



2010年8月1日(日)13時30分 
於・せたがや文化財団ワークショップ室



8月1日、現代俳句協会青年部主催のシンポシオン『俳句における自動機械』に参加した。

私は俳人ではなく、ふだんは短歌を作っているけれど、「歌人です」と言えるほどの経歴もなければ度胸もない、という素人に毛が生えたような、生えてないような、なんともふわっふわした立場である。

そんな私が俳句のシンポシオンに参加したわけは、単に、友人の歌人・佐々木あららがゲストに呼ばれているのでなんとなく冷やかしに行ってやろう、というか、まぁ、半分はいやがらせだ。

会場は、三軒茶屋キャロットタワー内のひろびろとした一室で、20脚ほどの椅子が円形に並べてある。

予定時刻をすこし過ぎて、シンポシオン開始。


第一部。

最初に、俳人の中村安伸さんが、俳句界で古くから伝わる「天狗俳諧」と、佐々木あらら氏が制作した「星野しずるの犬猿短歌」(http://www17.atpages.jp/sasakiarara/)の仕組みについての説明をする。

このふたつはランダムに言葉が選ばれる、というところが共通していて、言葉の並びに人間の意図が介入しないという意味で、どちらも「自動機械」という風に定義された。ほかに、現在インターネット上に存在している自動機械、三島ゆかり氏制作の「ねここ」(http://yukari3434.web.fc2.com/nekoko.html)等の紹介。

続いて、俳人の宇井十間さんによる発表。タイトルは「俳句の自動機械」。

三枚の紙に、ちいさな字でびっしり書かれた資料には「アクションポエム」「コンテクスト」「オートマティズム」など、難しそうな言葉が並んでいて、それを見た瞬間、すこし不安になる。

宇井さんの音読を頼りに、文章を読み進めていく。


よ、よくわからない……!


これはやばい、と資料をもう一度読み直していると、参加者のひとりから、「そもそも、この文章の中の俳句の定義ってどういうものですか?」という質問があがる。

それに対して「それは、私じゃなくて俳人に聞いてくださいよ」と、宇井さん。会場すこし沸く。

このとき、資料を必死になって理解しようとしている私としては、まったく笑えず、むしろ寒い。

それからやりとりは「たとえば有季定型とか……?」「そんなことはない」という風に続いていったが、宇井さんは「こういう風に定義しました」という答え方をしないのでなかなかグダグダな空気に。

結局、私の理解力では,宇井さんの言う俳句の定義は最後までよくわからなかったのだが、やりとりを見ているうちに、この発表の重要なポイントとして、宇井さんは「主体の貼り付いていない『純粋なテキスト』との対話」を理想としていることがなんとなくわかってくる。

だから、そういう意味では機械の作った俳句は理想的なのかもしれない……という話の流れで、まえまえから持っていた疑問をぶつけてみる。

「短歌は『私性』の詩型と言われていて、歌の作者の性別や年齢によって読みが変わったりすると思うんですが、俳句にはそういったことはあるんですか?」

この質問に宇井さん「それは私じゃなくて俳人に聞いてください」と、まさかの天丼……。

笑う余裕もなく「えーと、私は宇井さんに質問しているので、宇井さんが答えてください」と言うと、

「私は作者の情報は気にしませんし、作者の情報があっても、純粋にテキストを読むことは可能だと思う」と、今度はちゃんとお答えをいただく。

ここで参加者数名から反論があり、その中のひとりである、俳人の藤田哲史さんから
「神野紗希さんの「起立礼着席青葉風過ぎた」は、俳句甲子園という開かれた舞台で優勝した句で、あれを女子高生ではない人が詠んだとすると、印象が変わると思う」という意見が出て、おー、たしかに、という空気。

やっぱり俳句でもそういうことはあるのか。

このあたりでぼちぼち、資料を読んだときに自分が感じた違和感の正体がわかってくる。それは、「機械」と「人間」が、ごく単純に対比されていることだ。

星野しずるにしても他のシステムにしても、自分でクリックして出てきた短歌を目にした場合、前提として、「機械が作っている」ということを私たちはわかっている。それは、「女子高生が作っている」ということと、実はまったく同じなんじゃないか。

星野しずるの作った短歌をなんの前情報もなく目にすることがあった場合、そこには「純粋なテキストとの対話」が成立する。でもそれは、機械が作った短歌だろうが人間が作った俳句だろうが、変わらんわけで。

誰かがぽつりと「『機械』っていう言葉が持っているイメージに踊らされているところはありますよね……」と言った。


休憩をはさんで、第二部

歌人の佐々木あららと、詩人の藤原安紀子さんを中心とした、フリーディスカッション。

佐々木あららが、休憩中に質問されたという「星野しずるを作った動機」について話す。

「短歌初心者は、意外な言葉の組み合わせを使ってそれらしい短歌を作ると、もう作品ができた気になってしまう。でも、そんなことなら辞書を適当に開いて言葉を選べばいいわけで、それはもはや創作とは言えないんじゃないか。そんなことは機械にやらせればいい」
とのこと。エロ歌人、意外にまじめ……。

そうして作られた星野しずるは、今ではインターネット上の絵書きさんによって、緑の髪に黒縁メガネの萌えキャラと化している。(参考)佐々木あららは、それを「意外な方向に進んでいってうれしい。おもしろければなんでもいい」と言う。

話はまた、いつしか「私性」のことに。

そこで、思い出したかのように「現代詩ではどうですか?」と、詩人の藤原さんに話がふられる。

藤原さんは、この日まだ一度も発言していなかったのだ。

それにしても「どうですか?」って……。なんて漠然とした質問なんだ。

藤原さん、関西なまりのあるゆっくりとした喋り方で、

「なんか、定型があるのとないのとだけで、こんなに違うもんなんやーって、びっくりしました。詩を書くとき、私はそんな難しいことは考えてない。強いて言えば、言葉が言葉を引き連れてくる感覚。みなさん、すごいですね。こうやって定期的にお勉強会をして、それを作品に生かして……」と、言う。

誤解のないように言うと、この藤原さんの発言は皮肉っぽいところが一切なく、ただただ驚いているという感じだ。

私は手を挙げて「いや、みんな、ここでこうやって話したからといって、『じゃあこういう風に作品を作ろう』という風にはたぶんならないんですよ」と言った。この日にした話を生かすとしても、それは作品ではなく、評論を書くときではないか。

藤原さんは、ますます驚いた顔をする。

会場が微妙な空気に包まれたとき、佐々木あららがすかさず「今、突然自作の詩を朗読してくださいと言ったら、してもらえますか」と藤原さんに提案。「いいですよ」とほほえむ藤原さん。……佐々木、ナイス!


藤原さんの朗読がはじまる。第二詩集『フォ ト ン』より。

意味をつかまえられそうでつかまえられない言葉が、ゆっくりとした声で発音されていく。

朗読が終わると、会場はますます変な空気になっていた。みんなの頭に「?」が浮かんでいる。

それがたまらなくおかしくて、余韻に浸っていると、すぐに、
「今のはどうしてそういう読み方をしたのか」
「詩人たちのなかではそれは共有できる感覚なのか」
「現代詩は外の世界に伝わるのか」
など、質問が飛び交う。

私はそれを、すごく不愉快だと思って、そう言った。その場にいた藤原さんの詩集の担当編集者の方が「いま藤原さんが朗読したことが表現で、これで全部なんです」と言った。その通りだと思う。



私の実感では、どれだけ理屈をつけて作品を読み解いてみても、実作をするとき、それはほとんど意味をなさない。

だとしたら、なぜディスカッションをするのか? なぜ評論を読むのか?

それはたぶん、趣味のようなものだと思う。もちろん自分も含めて。分析することが楽しいのだ。思考が整理されるとほっとする。

私にとってディスカッションは、「どのように分析するか」というセンスを表現し合う場所だ。

「自動機械」がどうとかこうとか、正直なところ、そんなに重要だとは思わない。

ただ、この意見は決して一般的なものではないだろうし、いろいろ台無しになるので、今回のシンポシオンのテーマについて、今一度しっかり考えてみよう。

週刊俳句のホームページで概要を読み直す。
現代俳句協会青年部 第二回シンポシオン。テーマは「自動機械」。

「俳句にとって、私たちは必要なのか」







……って、あたりまえだろ。


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