2010-09-26

週刊俳句時評 第11回 安井浩司の新句集「空なる芭蕉」が出た。

週刊俳句時評第11回 
安井浩司の新句集「空なる芭蕉」が出た。

関悦史


俳人協会の教科書発行者に対する「要請」の話題が注目を浴びたせいで、最近あらためて無季を認める/認めないといったの話題が持ち上がってきているが[1]、話題になること自体が意気阻喪を誘うといったことでもあり、前回の本欄に既に神野紗希による批判もあるので今回特に取り上げない。有季無季に関する個人的な見解だけを記しておけば、「有季定型俳句」は「俳句」の下位分類に過ぎない。

今年もノーベル賞発表の時期が近づいてきた。
 
現代俳句協会が近年行なったシンポジウムや対談を集成した一冊『21世紀俳句パースペクティブ 現代俳句の領域』における相原左義長の発言(平成16年)[2]によると愛媛県にも調査が来たらしく、短詩型文学も選考委員会の視野に入っていないわけではないらしい(なお『21世紀俳句パースペクティブ』には青年部の討議や金子兜太講演の他にも鈴木六林男と三橋敏雄の対談、阿部完市本人が語ったLSD体験といったものも収録されており、歴史的な証言として興味深い)。

ガリマール書店からフランス語訳の俳句アンソロジーが刊行されているらしいとはいえ、ノーベル文学賞へのノミネートに必須といわれる英語・フランス語への俳句の翻訳は寥々たるものだろうから、現実の受賞の機会はあるとしても遙か先の話になるだろうが、ここでしたいのはいかにアピールして受賞にこぎつけるかといった話ではなく、賞の権威自体もさしあたりは重要ではない。

そうではなく、近年の受賞詩人たち、すなわちオクタビオ・パス(1990年)、デレック・ウォルコット(1992年)、シェイマス・ヒーニー(1995年)、ヴィスワバ・シンボルスカ(1996年)、あるいはもう少し遡ってオデッセアス・エリティス(1979年)、パブロ・ネルーダ(1971年)、サン=ジョン・ペルス(1960年)、イオルゴス・セフェリス(1963年)といった人たちの詩業に比肩し得る成果を示している作家として、現代の俳人のなかからどういった名を挙げうるか、あるいは読者として、上記の詩人らの作品に匹敵する読書体験が得られるとの期待をもってその新著に接することのできる俳人にいかなる名を挙げうるかといった方向から現在の俳句を捉えなおす視線を導入することの方が、有季無季、教育現場への介入といったこと(それはそれで重要でないと言うつもりはないものの)ばかりを続けて論うよりは風通しがよくなるのではないかといった程度のことである。

その際にまず指を屈さなければならない一人、安井浩司の新しい句集『空なる芭蕉』が不意に届いた。前作『山毛欅林(ぶなばやし)と創造』からわずか3年での大冊上梓となる。

安井浩司の営為の特異さに関して私は以前、単にグノーシス的に反世界を夢み構築しているわけではなく、創造された/されつつある全体から締め出されつつそこに膠着する、あたかもクラインの壺に製図上現れてしまう首から本体への嵌入点のような特異な位置に留まりつづける主体のありようが特異なのだと論じたことがある(例えば前著のタイトル『山毛欅林(ぶなばやし)と創造』において「山毛欅林」はなぜか「創造」の外部に締め出されて並存している)[3]。

全体のなかに平安な融和を保つわけでもなく、全体を安易に相対化も出来ない位置からさまざまな、俳句の世界においては中心的とはなりがたい言葉/事物をたぐりよせ、主体が手探りで己に世界との継ぎ目に形成していった折衝面の痕跡を、奇怪な城壁のように聳えさせたもの、その営為の孤絶に由来する、読み下した瞬間、岩盤のように読み手に沈黙を強いる、ある絶対性の手応えに感応することこそが、安井浩司を読むという経験の核にあると私は思っていた。しかしその孤絶の相も徐々に徐々に寛解へと向かって歩みだしているようだというのが新著『空なる芭蕉』を一読しての思いだった。つまり詰屈な難解さの印象が減じつつある。

句集表題の「芭蕉」は俳人ではなく、植物の方を指す。


芭蕉は、東洋において空なる植物と謂われる。かの形而上学的相(すがた)はともかく、いわゆる大草本として茎なす葉鞘を捲るほどに、その中核の実体は遠く、遂に無体となることに由来する。  俳句の裾野を踏んで、はや五十余年が過ぎた。振り返って思えば、その営為は茎皮を剥くごとく、時空の内奥を訪うほどに、我が願われた実体は彼方へと退るのであった。勿論ここで我空という言葉を識らないわけではない。そういえば、海の向うで「詩篇」のエズラ・パウンドが、ジョイス宛の書簡の中で「既存のジャンルのどれにも属さない、終りのない詩にとりかかっている」と書き送っている。パウンドほど意図的ではないにしても、『汝と我』(昭和六十三年刊)より始められたすべてが、その〈終りのない詩〉の神話的展開に、わが運命として深く通底するものを感じられてならない。》(後記)


いま全句集をつぶさに再確認するいとまはないが『汝と我』を一つのエポックとして捉えるというのは、それ以前の句集『青年経』『赤内楽』『中止観』『密母集』『牛尾心抄』『霊果』『乾坤』『氾人』までで行なわれていた世界解釈・再創造の営みに照らされつつ、『汝と我』以降、「我」が本格的にその再創造のなかに組み込まれはじめたといった事態というふうに安井浩司は認識しているのかもしれない。

安井浩司が芭蕉に見ているのはさしあたり葉鞘の中核が空無であることだが、覆い重なる葉鞘の織りなす迷宮的に入り組んだ曲線・曲面性、空無を核としながら大きな葉を茂らせる矛盾的ありようも己の句業に重ね合わせられていよう。

『空なる芭蕉』において顕著なのは、「観音」「ねんぶつ」などこれまでもしばしば現れてきた仏教的・東洋的な語彙に加えてキリスト教的な語彙が増えたことである。寛解の印象はひとつはここに由来するのかもしれない。


主はときに蜘蛛のごとく後ろより
蛇結茨かたまり眠るキリストら

嘗て主でありし淋しさ一花(げ)草

初マリアおのれに海を感じたり
まず聖書捲(めく)らる最初の津波来て

あゝマリア唇(くち)に蝉柄燃えいたり


わざわざ断わるまでもあるまいが、寛解の印象が生じたといってもそれは作者当人がキリスト教に帰依したなどといった事態を意味するわけでは全くない。イエスは「神の子」とされる。この謎めいた位格の意味については厖大な神学論争が積み重ねられてきたと思われるが、この際重要なのは、本来世界の内には属さないはずの父なる神の神性が生身の人間に受肉してこの世に介入してしまったという要素である。先ほどの安井浩司論の文脈でいえば、これは「全体」の中に「全体以外」のものが介入してしまった事態に他ならないからだ。つまり安井浩司が「もどき招魂」で論じていた、神ならざるものとして此岸に遣わされてくる「もどき」の一種としてイエスが呼び出されているのである。世界宗教の中に連綿と生きてきた最大級の「もどき」を見出したことになるが、このイエスもそのままに受け取られるわけではなく《蛇結茨かたまり眠るキリストら》と複数化されたり、「蜘蛛のごとく」とイメージをずらされたりしつつ、安井的主体の膠着性と折衝を続け、変容を重ねていくことになる。

「蛇結茨(ジャケツイバラ)」は造語ではなく実在するマメ科の落葉低木で、つる性があり、薬効ととげを持つ。とげ、薬効(または毒性)を持つ耳慣れない動植物が集中頻出するがその大部分は実在のものである。全てに語釈を付けたらおそらく句集の厚さが倍となるはずだ。蛇結茨の場合は「蛇」の字面・イメージとの癒合の要素を含む。「蛇」そのものもこれは従来通り、句集に始終登場し、《白山蛇(かがち)は生まれずにただ分離して》などと生殖法を異化して世界律に揺さぶりをかけている。《草屋根の蛇仰ぎわれ生きんとす》という、珍しく率直な境涯詠と見える句もあるが、ここで生きる意欲を使嗾しているも一見何の変哲もない姿ながら、地面ならぬ高所から「草/屋根」との重合の相のもとに降臨している点を見逃すわけにはいくまい。


十字渚ふとマルキオン歩み来る
マルキオン愛蛇は肩をすべり落つ



キリスト教的語彙の増加が信仰としてのキリスト教受容と異質のものであることは既に述べたが、ここでは蛇とマルキオンがともに現れている。マルキオンは旧約の神(創造神)を不完全な神であるとし、旧約聖書は不要と唱えたグノーシス性の強い異端者である。失楽園における蛇の役割を思い出すまでもなく、ここでも蛇は正統な神学と別種の智恵とともにありつつ「すべり落」ちることの出来る高所にいるわけで、生きることを使嗾する「草屋根の蛇」の示す方向も、まだまだ見かけほど平穏無害なものではないのだろう。

またそれらと別に《さざえ堂上るや若き蛇を連れ》なる句もある。螺旋形をなす奇怪な木造建築「さざえ堂」はその内部の空洞性と外部に突き出た角(棘、葉のバリエーションに当たる)、及び迷宮性において明らかに「空なる芭蕉」と同型のものだが、ここでも「上」と「蛇」の要素が語り手を賦活する。この没入と上昇の目指す先は日常の色の世界ではあるまい。


主は顎を上げて溺れる秋の海
先神の遺書よむ「猿類栄えよ」と

次代の神に仕えんとはや小雀(こがら)ども
逆しまの一基もあらん十字墓地
砂あらしエジプト十字となる人よ



これらも一神教的語彙を含みつつも反世界性が顕著である。滅してしまったらしい「先神」の遺書にある「猿類」に果たしてヒトは入っているのか。溺れる主、一基だけ倒立する十字墓地、これらの句から従来の安井句と同じ、あり得べき全体の融和からの締め出しを見て取ることは容易だ。「エジプト十字」は語釈が要るが、これは普通の十字架の上部に楕円がつき、より人に近くなった形状で別名「アンク」とも呼ばれる。「アンク」は「生命」の意味である。つまりこの句の「人」はエジプト十字の形状への変貌とともに生命自体への参入を果たしているとも読めるわけで、ここにも個と全体の融合とズレのモチーフは現れている。

「蛇結茨」や「エジプト十字」に限らず、動物と植物、生物と無生物の差を超えてしまった異種混交のモチーフは各所に見られる。


山吹と活けるや鱒身を逆しまに
飛騨彦はかの鱒茸にと網投ず

菩提樹や捥ぎ取れるいざ色鳥を
寒鯉を煮るや人の血少し入れ
蛇に孵さん何の卵をひろい来て
青葉闇扉を出入りの真子(まこ)鰈
鷺草に鳥の起源を託さんや
くらがりに蛍の粒を吸う鯉か
秋風(しゅうふう)と呼ばれる白馬に跨らん
春筑波尾ある国人這えるまま
飼いびとが鵞鳥に求婚される春



あるいは魚類でありながら山吹と一緒に活けられることにより、あるいは茸でありながら投網を投げられることにより(この「鱒茸」も実在する。色が鱒の身に似る)、境界を混乱させるものたち。これらも「エジプト十字」と同じく、変異を持って全体への参入を志向しているのかもしれない。

全体への参入とは言い方を変えれば、生と死、空と色の両方の域を俯瞰ではなく、個の身命を通して内在的に次元の横断を生成させ続ける営みとも言えるだろう。


老い母やすすきに踊る小町ぐせ
  五月三十一日
実忌や夕空うつくし止血帯
  平成十八年・小川双々子逝去
双々子逝くや枯野を自転車で


これら身近な他者に寄せた句においてはそうした次元の変容・生成は比較的穏やかに果たされているようだ。枯野を自転車で逝く双々子とは、その作風まで詠み込んで愛惜した、それでいて死後の持続を単なる願望の投影としてではなく具象化してみせた優れたポルトレと言える。


今回、句集を通読して目についた動きが幾つかある。そしてそれら今まであまり目にした記憶のない動作の浮上ぶりこそが、この句集の寛解という印象をもたらした一因ともなっているのだが、その一つは「抱き合う・出会う」であり、もう一つは「眠る」である。


   「抱き合う・出会う」

羽黒祭火王と水妃抱き合うや
抱き合うてふところの蛇移さんや

雀蜂滅ぶや朋との接触に
雪の家ねむる日月抱き合うて
冬二羽の鷺は眼差し入れ合える
空木闇二匹の鬼の抱き合うや
抱き合うや双子が峰に雪来れば
鋸鮫に出会う浮き板春の沖
鯉二体すり合うて火を秋の池
熊打衆とぜんまい採り衆向き合うや
綿の花泣き合う老子と少年と
狐どうしも立ちて抱擁花野涯
青大地一棺二体のよろこびよ


   「眠る」

夏よもぎ眠れば脳も片寄れる
浮きながら布袋葵(ほていあおい)に眠る人

眠る妹(いも)手足をのばせ貽貝中
四眼(よつめ)鹿猟夫の睡りの中にねて
東方の尊よかみつれぐさにねて
あゝ孟春待乳(まっち)の丘にごろりねて
芋葉隠れに太陰暦の女ねて
蛇結茨かたまり眠るキリストら

白茸噛んでおやすみ冬眠鼠(やまね)達


 「眠る」動きとともに「夢」も現れる。


万劫や枯野をめぐる夢の騎手
枯野宿師弟の夢の縺れおり

侏儒(ひき)舞の夢野に誘わる道一つ
夢野ゆく負い荷の中の叫ぶ鷹
氷(ひょう)握る拳で夢野を照らすのか
鸚鵡擂り潰し火薬を作る夢
他人の夢に居るかもしれず虎落笛
夢野なら十字狐を枕とす


「抱き合う・出会う」句はその結果として「雀蜂」が滅んだり、「鯉」が火を起こしたりする他は概ね、他との抱擁自体が句におけるイベントとなっている。抱き合い、重なり合った二体の間に芭蕉のごとく空なるものが発生する機微自体が重要なのかもしれない。

「眠る」「夢」においては意識喪失のなかで別な持続の中に混入する動きが顕著と言えようか。「妹(いも)」が「貽貝」の中に入り、「四眼(よつめ)鹿」は「猟夫の睡り」の中に入り、夢はそれ自体が日常とは別の持続だがそのなかでもさらに「他人の夢に居るかもしれず」との疑念が兆す(ちなみに「四眼鹿」はキョンのこと)。

異なる持続のはざまから全体とそこから締め出されたものの双方を伺う主体の位置自体は従来おなじみのものだが、それが「抱き合う」「眠る」という安らかさを感じさせる現れ方をするようになったのはこの何年かで顕著になった変化ではないか。《遠近や野蛇らしずもる己が円》と自身が円相となった野蛇たちの句もそのバリエーションに数えられうる。

他に目立つ動きとしては「下降・落下」のモチーフも挙げられる。


雁の空落ちくるものを身籠らん
紅雲の孫と呼ばれるからすうり

日に吊るす御正体の鱶の胸
天類の一つ零れて烏ぼし
春巻(けん)雲かたまり雫を落とす形
斑鳩落つ椀の中なる水溜り
白衣(ぎぬ)を拡げ墜ちゆく穂高神
天は紺垂らす『珍事』の装幀に
天海のえび零れきて乞(こつ)の椀
朝雲雀おとこが古塔の墜落死

葡萄黒粒散る天上の蔓切れて


雁の空落ちくるものを身籠らん》の身籠る、「からすうり」になってしまう「紅雲」の子孫、《朝雲雀おとこが古塔の墜落死》の「墜落死」などを考え合わせると落下のモチーフは概ね、受肉して生死の世界に投げ込まれる事態に対応しているようで、コスモロジーとしてはごくわかりやすいものかもしれないが、それを踏まえると次の一句の幻怪さのよって来るところが明確となる。


睡蓮図見あげる産院天井に


「天井」の睡蓮が上方の極楽を示す。ここではそこからの次元を超えた落下として生誕が捉えられているわけだが、見あげているのが産婦とは限らないので誕生という事件自体にはスポットが当たらず、どちらかと言えば、奇怪な装飾の施された産院の古建築ぶり、その内部から上方へ視線が突き抜ける謎めいた空間の「空なる芭蕉」ぶりを賞味すべきだろう。

モチーフとしては「女神・女傑・歴史上の女性」を詠んだ句も少なくない。しかしこれらは誕生とじかに関わることはあまりなく、どちらかと言えば「蛇」とほとんど同格の、神格を帯びた異界からの「もどき」といった要素が強いようだ。


深草風遂に女賊へ乗るゆめや
白鷺が大雲経を叫び出づ

沖に向く崖のくさびら順風耳
雨うつぎ雌鳥皇女(めとりひめみこ)につこりと
吹雪野の白観音に行き会えず
国民小学龍女も入校してきたり

みずからを招く盲女よ罌粟の中
ひばり野や己が頭(ず)に脚組む女
あゝ半裸緑酒密造女神達
湯殿山上女が空(くう)へ泳ぎ出す
女神の尿と呼んで施す畝葱に
春や舳に女を立てて戦わん
蒜の花立ち上がれるは生(なま)女神


語釈が必要な句がまた幾つかあるが《白鷺が大雲経を叫び出づ》の「大雲経」は武則天が帝位を簒奪するために預言書として利用した偽作の経典、《沖に向く崖のくさびら順風耳》の「順風耳」は「千里眼」と対を成し、道教における航海・漁業の守護女神・媽祖(まそ)に使える鬼(神将)である。つまりこれらの句にも背後に武則天や媽祖といった女傑・女神が潜んでいる。

あゝ半裸緑酒密造女神達》は西脇順三郎の詩のような雑神性が愉快で、《国民小学龍女も入校してきたり》では作者自身の郷愁も混じるのであろう「国民小学」(安井浩司は1936年生まれ。尋常小学校・高等小学校等が国民学校に改組されたのが1941年なのでちょうど作者が通っていた時期となる)に突如「龍女」が入ってきて、先掲の《春筑波尾ある国人這えるまま》ともどもラブクラフトの怪奇小説じみた世界が描かれているが、叙法は極めて平易なものとなっている。象徴性に似た強烈な磁場をもちながらその指す方向が未聞の領域であるがために安井句が持ちえていた強度は薄れてきている。これは生死・空と色の大構造のなかに我お位置づけを探り出す作業が強いる一つの必然的帰結であるのかもしれない。

「女神・女傑」関係の句で意外だったのは《くちなしや呪的母(マジカルママ)の小店あり》なる句である。「呪的母(マジカルママ)」というのがいかにも安井浩司作品に似つかわしげな語彙でありながら、その出どころが判然とせず、ユングかエリアーデか、はたまた老子の「玄牝」の言い換えか、あるいは人類学的な典拠のあるものかと迷いつつ検索を重ねたのだが、この「マジカルママ」、実は作者の地元、秋田一円で展開している惣菜屋とコンビニエンスストアと軽食屋を兼ねたという作りのローカルチェーン店であったらしい。「小店あり」なる結句からしても、その辺にある店の名の面白さから出来た句と思われる。

安井浩司はまず句を作る前に語彙の蒐集から取り掛かるらしいのだが、その選び方の雑多性に絡んで後記を再掲する。


そういえば、海の向うで「詩篇」のエズラ・パウンドが、ジョイス宛の書簡の中で「既存のジャンルのどれにも属さない、終りのない詩にとりかかっている」と書き送っている。パウンドほど意図的ではないにしても、『汝と我』(昭和六十三年刊)より始められたすべてが、その〈終りのない詩〉の神話的展開に、わが運命として深く通底するものを感じられてならない。》(後記)


エズラ・パウンドは周知のとおり一冊の長篇詩集『キャントーズ(詩篇)』を生涯書き継いだが、その内容は世界史の再構築、利子制度をはじめとする近代社会批判であったらしい(日本語の全訳は未だに存在しない)。ちなみに『空なる芭蕉』のなかにはパウンドを踏まえたと思しい《大山蛇に銭を放れば貯えき》《贋金をくわえ輝やく春がらす》《麦踏みの野父が詩篇を嘯くも》といった句も収録されている。

ここで安井浩司が感じたというパウンドの通底とは、おそらく空としての我の再発見に他ならない。つまり象徴性、宗教性を帯びたものから個人の生活史のなかにあるものまで限りなく雑多な語彙を残らず引き込み、巻き込み、作品化していく際限のない営為の場としての我である。このとき芭蕉のごとく空なる内部であったはずの我は反転してそのまま外部となる。いま起こっているのはおそらく、全体から締め出されて孤絶感を漂わせていた安井的主体が、その空洞を反転させればそのままで全体に直結しうるものとして再定義しつつあるという事態であり、語彙の蒐集に始まる句作の営為が、「私は他者だ」と言うランボー、無意識は他者の語らいであるとするラカンらとは別の細道を通りつつその近傍へ脱け出ようとしている過程なのだろう。パウンドの詩作のみならず、思えば内部‐外部が一元化したような独自の活力を持つ「写生句」を作り続けた正岡子規によるあの終わりなき俳句分類作業も、未完成覚悟の悲壮感といったものとは無縁の地平で続けられた無限性との触れ合いであった。安井浩司の軌跡は、詩と無限性、あるいは詩と生死の関わりを考える上で目を離すわけにはいかないある驚異的な何かである。
 
以下、触れられなかった句を引く。


秘密造蛇酒(へびざけ)を辞すこと莫れ
大春神はいばらとみよを掬い放(す)つ

遠き牧牛もう傑作のありえずに
大花野老師は腿を恥じにけり
晩夏己れに火炎ペースト塗る男
蟹轢いて行く乳母車春なぎさ
古春や姉の衣(い)を着て我ならん
大いなる氷塊を焚き終る冬
一円相盗まるもよい春の家
冬かもめ劫の波頭の乾きおり
百人に一つを与えん冬牡丹
陵上で蜘蛛のごとくに行為(おこな)うや
ははきぐさ隠れの者こそ存在し
蜘蛛の囲に十字とんぼと成れるはや
霊廟前の夏茸みなてんぷらに
葡萄山かの宇宙小屋浮遊せり
夏の旅なんで蛇(かがち)の絵馬ばかり




[1]……俳句樹・創刊の辞/「俳句樹」の発足に当たって考えたこと 筑紫磐井
http://haiku-tree.blogspot.com/2010/09/blog-post_2312.html
週刊俳句時評第10回/「俳句に似たもの」のゆくえ 神野紗希
http://weekly-haiku.blogspot.com/2010/09/10_5953.html

[2]……現代俳句協会編『21世紀俳句パースペクティブ 現代俳句の領域』現代俳句協会 2010年、173頁

[3]……全体と全体以外――安井浩司的膠着について 関 悦史
http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/02/blog-post_14.html


※安井浩司句集『空なる芭蕉』(沖積舎・2010年9月11日発行)、現代俳句協会編『21世紀俳句パースペクティブ 現代俳句の領域』(現代俳句協会・2010年3月25日発行)はそれぞれ著者・編者から寄贈を受けました。記して感謝します。


2 コメント:

匿名 さんのコメント...

関様の素敵な俳論、拝読しました。おかげさまで安井作品に親近感を覚える事ができました。

安井浩司氏の作品群、神がかっています。俳人協会によれば、有季定型でない一部の安井作品は俳句でないらしいですが(笑)。彼の作品を難解として無視したり、彼の有季定型句だけを論じたりする傾向が目立ちますが(特に有名俳人や商業誌)、かなしい限りです。

関悦史 さんのコメント...

コメントありがとうございます。
以前より平易な句も目立つようになったとはいえ、「我」と「世界」の謎に俳句形式の難行を通じて迫る営みは俳句の側にとっても貴重で魅惑的と思います。

それから書き忘れましたが、引用句「五月三十一日/実忌や夕空うつくし止血帯」にある「実忌」は「僧侶」等類のない作品で知られる詩人吉岡実のことです。