2010-09-12

真説温泉あんま芸者 第5回 ものには言い方というものがある 山田耕司による池田澄子論

真説温泉あんま芸者
第5回  
ものには言い方というものがある山田耕司による池田澄子論

さいばら天気



タイトルのとおり「ものには言い方というものがある」という話なのですが、つまり、語り口、口調、そんなものが俳句の要素として重要ですね、という話です。

例えば、

  明け方の蚊の飛んでゐる牡丹かな  岸本尚毅

この句、

  明け方の蚊の飛んでいる牡丹です

だと、ちょっと違った句になってしまう。「ライトヴァースっぽい」とも言えるでしょうか(ライトヴァースについての誤解かもしれませんが、それはそれとして、話を先に進めましょう)。もう1例。

  今日は晴れトマトおいしいとか言って  越智友亮

この句が

  けふ晴れてトマトは美味しなどと言ひ

だと、また違った句になってしまいます。

(良いとか悪いとかの話をしているんじゃありませんよ。こういう話をすると、例えば、句会などで必ず「いや、それでは元の句の良さが出ない」とかと優劣の話をする人がいて、いつも萎えるのですが、そういう話ではありません)

ここまで挙げた2例で、同じことを言っても、語り口が違えば、全体の印象はまったく違ったものになることがよくわかるような気がします。

俳句をつくる人は、だから、自分の語り口をだいじにする。着想を得て、だいたいのかたちが定まっても、それでもまだ、語り口というだいじな要素が残っています。

俳句は短いので、語り口といっても、そのヴァリエーションは限られているかもしれません。けれども、短いからこそ、語り口の全体に及ぼす影響は大きい。

ここは、作家性というものが、きわめてわかりやすく出てしまう部分かもしれません。



「かな」を「です」に換え、口語を文語的な言い回しに換える。これは語り口というより、もうすこし根幹の部分の話かもしれません。同時に、ちょっと単純すぎる例示でしょう。現実には、もうすこし微妙なことになるようです。

山田耕司「『有季くん、しっかりせよ』と無季が言い」(『円錐』第46号・2010年7月30日)は、

  戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ  池田澄子

を挙げ、次のように言います。

これは、戦争を彼岸に見ている句である。決して「見てきたような嘘」にならないように工夫している。そのための「いくつ飛んだ」。これが「飛びにけり」なんて修辞ではダメ。戦争の残酷さや、非人間性などの深ヨミをかけることができるが、そのヨミは読解の華やぎであって、本質ではない。おそらく作者のねらいとすれば、俳句を作る行為を彼岸の行為と位置づけることで「なんとでもいえちゃう」言説を回避し、かつ読者が「こんなの読みたかった」と思えるような回路を探り当てようとしている。作者の巧さは、そうした読者との回路を、「作者個人の感想」というフレームで偽装できるところだ。(…)

この山田耕司論考の主旨は、いまここに書いている「語り口」ではなく、作者/読者の約束事の共有という側面から「有季」を扱い、それと「無季」とを対照させるというもの。念のために、このことをことわっておきます。そのうえで、あえて「いくつ飛んだ」という語り口への言及にスポットをあてて、引用したわけです。

  戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ  池田澄子

  戦場に近眼鏡の飛びにけり

たしかにまったく違います。

単純に言えば、戦場で近眼鏡が飛んでいるところを見たわけではない作者は「いくつ飛んだ」を選ばざるを得ないということにもなりますが、半面、嘘をつけるのも俳句です。この句で、池田澄子は「嘘ではない」語り口を選んだということになります。

山田耕司は、作者の立ち位置と語り口についてのセンスを、すぐれて持ち併せた人だと思います。

ツイッター上で、同じ池田澄子の句が話題になりました(2010年7月上旬)。

  戦争がいつも何処かに青いか地球  池田澄子

この句の「青いか地球」の「か」について、「青い地球」ではどうしてダメなのかという話題です。
動議の山田露結によるまとめ

山田露結は次のように、疑義を呈します。
「青い地球」=「美しい星」なのでしょう。それを踏まえた上での戦争批判。美しい星の何処かでいつも争いがあることを嘆いている。だから、「か」はないほうがより皮肉になるような気がしたのですが、むー、どうでなんでしょう。
それに対する山田耕司の答えは以下のとおり。
「彼岸」=喩として空想しうる世界 ではなく 書き手としての自我が存在する「此岸」に居とどまろうとする作者の姿勢、それが呼び込んだ「か」だと思いました。

池田澄子氏は従来の俳句から遠くへ飛躍しようとする作家というイメージができているようですが、むしろ、「下手な嘘をつかないように」「喩として読まれてしまわないように」醒めた息を自らの句に吹きかけている作家だと思っています。
池田澄子もまた、みずからの立ち位置と語り口についてのセンスをすぐれて堅持する作家であることが、山田耕司によって明らかになったわけです。



私はこうして短い期間に、山田耕司によって「語り口」というものの重要な側面についての示唆を得たわけですが、この際の例示が「戦争」「地球」という2つの題材であったのは、偶然ではないような気がします。

「戦争」と「地球」は、嘘のまぶされやすいテーマです。単純な意味で、嘘のない句を詠める俳人は、前者では海外の戦地に滞在する傭兵かジャーナリスト、後者では宇宙飛行士だけということになります。といっても、それ以外の人は嘘しか詠めないという粗野な「体験主義」に立つけわけではありません。

表現者、というと大げさです、何かを言う人、語る人(俳句を詠む人も含まれる)に要請される最低限の「誠実さ」を考えれば、語り口について無頓着ではいけないということだと思います。

他方、「戦争」と「地球」は、オートマチックな連想を招きやすい題材でもあります。例えば、戦争→悲惨、戦争→反対、地球→かけがえのないもの、地球→青く美しい。

そうした連想が不適切であるとは言いませんが、俳句などというわざわざ作り出す短い文言が、オートマチックな連想によって成立してしまうとき、それは「確認」でしかありえまん。

俳句は、ちっぽけなものですが、それでも、なにものかが作者の回路を通過して五七五となる。それを思えば、オートマチックな回路、しかも集合的な回路(誰でもそう思う)に支配されるとしたら、作者も俳句もいまさらのようなもので、もっと言えば不要かもしれません。

前掲の「戦争がいつも何処かに青いか地球」は、「か」の1音によって、かろうじて、オートマチックで誰もが思い至る(言い換えれば陳腐な)把握から逃れていると言えるでしょう(この句についての好悪や評価はさておき)。



念のために言っておくと、俳句は嘘を言ってはいけないと言いたいのではありません。俳句が言葉であるかぎり「ほんとうではないこと」、嘘の要素、虚構の要素を宿命的に背負っていると思います。

(あなたの言う「桃」をわたしはさわることも食べることもできない。「桃」は事実でも現実でもない。ただしあなたが「桃」と書くこと、「桃」と語ることは事実であり現実である)

「言葉の嘘」を前提にしながらも、「ここでその嘘はいけない」という慎みは、やはり必要だと思います。

同時に、歴史的に集合的に出来上がった虚構、すでにじゅうぶんに共有された虚構にどっぷり浸ったままなら、わざざわ五七五に書き留める/語ることもない。

というわけで、俳句の語り口について、ちょっと考える機会を与えてもらって、ありがとうです、というわけです。



社会(世界)とみずからの関係において誠実であること、言葉の機微について意識的であること。それらをクリアしてはじめて、俳句は「手すさび」ではなく「作品」となるのかもしれません。


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