秋の味覚まつり
美味そうな句と不味そうな句
上田信治
「俳句界」2008.9月号より改稿転載
食べる物がおいしそうな作品は「ポルノ」である。
それは、田辺聖子や川上弘美の恋愛小説が、性よりも、食の描写において精緻であることから思いついたことで、つまりここで言う「ポルノ」は「欲望をかき立てることを目的とした表現物」くらいの意味だ。欲望を満たすことなく、ただかき立てることが、娯楽として成立するにんげんの不思議は、とりあえず置くとして。
表現によって人の欲望をかき立てるには、まず、対象を生き生きと再現することが、正攻法のやり方というもので、俳句には、季語と写生というものがあるのだから「ポルノ」的な表現は、お手のものとも言える。
梨むくや甘き雫の刃を垂るゝ 正岡子規
爽やかやとろりとすするトマト汁 日野草城
舌あそばす大き葡萄をふくみつつ 山陰石楠
いずれも、描写だけで出来ている、いわゆる写生句である。
「刃」の冷たさ、動く「梨」の汁、甘さの予感。「爽やか」という体感と、口に入って来る「トマト汁」の温度差(この「汁」はスープかジュースか分からないが、たぶんジュース)。大きな「葡萄」の口の中での動きと、温度の変化。少しずつ広がる味覚。
たとえば「梨を剥く」という日常語から、これらの写生句のような生々しい「現実感」が生じることはあまりないし、「梨」という語が「梨という一般概念」を越えることも、あまりない。それどころか実際に梨を剥いている時でさえ、たいして「現実感」なく、ぼんやり「一般概念としての」梨を剥いてしまうのが、われわれの頽落した日常というものだ。
そう考えると、これらの句が、一回限りの現実のように生々しく「美味そう」であることは、なかなかのことであるにちがいない。
これらの句においては、季語が「共通体験」を惹起し、かつ「欲望の対象」として一句の焦点をなしている。ここには、季語と表現が一体化しきった機能美がある。
ところで最近目にした、共通体験を地名が、欲望を食品が受け持つ、おいしそうな一句。
酢めしの香ふつと東横のれん街 菊田一平
この句のように、食感覚の再現とは違う方法で、「美味そう」を実現している句がある。
肉皿に秋の蜂来るロッヂかな 中村汀女
秋鯖と朝日さやかに母のうた 八田木枯
旅にしてこんにやくうまき一遍忌 森澄雄
これらの句が呈示するのは、感覚ではなく「物語」である。そう、ポルノグラフィは、しばしば「物語」を必要とする。そして「物語」は感情移入によって成立する。
汀女の句が描いているのは、初秋に避暑地にいて、風通しのいい場所で、昼から洋食を食べるようなブルジョアジーの生活だ(昭和八年、星野立子と鎌倉山に遊んだときの句だそうで、立子はこの時「娘等のうかうか遊びソーダ水」の句を得ている)(この時両人ともすでに「娘等」という年令ではないのだが、それはおこう)。
この句を楽しむことは、そんなブルジョア生活を「いいな」と思うことと、イコールだ。作者の汀女自身、こんな生活が「いいな」と思って書いているに違いない。読者は、その生活の「物語」に感情移入することで、その肉料理を美味そうだと思う。憧れが、肉に対する欲望をかき立てるのだ。
木枯の句でいえば、鯖に託された郷愁の「物語」への感情移入を通じて、読者は、その「秋鯖」は美味いと信じる。
澄雄の句は、「旅」「一遍忌」という語の漂泊の物語が、こんにゃくの美味さを喩として成立している。それは、漂泊を喩としてこんにゃくの「美味そう」が成立していると言っても同じことで、このナルシズムに、感情移入できる人にしか、この「こんにゃく」の味は分からない。
一平の「東横のれん街」は、コマーシャルな固有名詞の不意打ちが、物語よりも早く、読者をその場に投げ込んでしまう。
ソーセージころがし焼きや花木槿 小澤實
とろろじるのための昼酒許したまへ
生げその透きとほるなり酢飯の上
いずれも句集未収録の近作。
小澤實は、自身の指導する句会で、ある人の「麦酒注ぐ」という表現に、「その麦酒は飲ませて欲しい!『注ぐ』で終らせないで飲ませて欲しい!」と言ったという。自分は、俳句の中の「現実」に対して、そんなに切実な人がいるのか、と驚いた。
氏は一句の「現実感」の水準を上げるためなら、進んで形式に負荷をかける。結果生じる従来の俳句らしさからの「はみ出し」は、作者の「現実」あるいは「現実感」に対する欲望の過剰そのものだろう。別の言い方をすれば、俳句にあんな格好やこんな格好をさせコッケイさを強いることは、その過剰さの、パフォーマンス的提示である。
その過剰な欲望への感情移入を通じて、読者は「ソーセージ」や「とろろじる」や「生げそ」に対する作者の肉迫を追体験することになる。
ある人が、ソーセージは「はしゃぎ系」の食べ物だ、と書いていた。公園やイベントで割箸にさしたフランクフルトがよく売れる、そのいじましい非日常感を指しての言葉だ。鉄板で「ころがし焼き」のソーセージは、初秋の空に、いい匂いと、うすむらさきの煙を昇らせるだろう。焼けたら皿にもらって割箸で食べるのだ。それはつまり、今日は昼からビールを飲んでいいということでもある。なんというめでたさ。作者は「ころがし焼き」の「ソーセージ」を誉め称えている。
實の句に典型的であるように、俳句は季語をほめる「頌歌」になろうとするので、「不味そうな句」は珍しい。しかし、それでも不味そうで、かつ忘れがたい句はある。
噛みくだく眠りぐすりやかねたたき 日野草城
虎がこすつたぬくい鉄棒味噌汁の中 永田耕衣
草城四十五歳の作である「眠りぐすり」の句。音韻的にもがりがりとして、いかにも不味そうだが、「かねたたき」が救いになっていて、錠剤の苦さのむこうに、透き通るような眠りが予感されている。
耕衣の句は、小林恭二がかって「あまりうまそうな味噌汁ではない」(「『悪霊の諸句』」)とだけ評していて、笑った。耕衣は同じころ「墓を発ちづめの亡父ら大豆白し」「海にうねられ激しく歩く昆布屋の前」など、具体的な感情に落とし込みにくい、美味そうとも不味そうともいえない句ばかりを書いているのだが、「ぬくい鉄棒」の入った味噌汁は、はっきり不味そうな分、分かりやすく、虎もかわいいと思う。
不味そうだけではバランスが悪い。耕衣一流の大風呂敷が、ひどく「美味そう」な句も挙げておこう。この「うどん」「コーヒ」「茗荷汁」こそは「人生」「永遠」「地球」に釣り合うほどの快美なのだ。
万杯のきつねうどんを喫しけり 永田耕衣
コーヒ店永遠に在り秋の雨
金色に茗荷汁澄む地球かな
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1 comments:
面白く拝読しました。
>「その麦酒は飲ませて欲しい!『注ぐ』で終らせないで飲ませて欲しい!」と言ったという
本当です(目撃者談)……というか、小澤氏は同種の発言を昔からよくしています。食べもの俳句が本当に多く、しかもどれもマンネリ化せずに立派。食べ物への挨拶になっています。食べもの俳句の名手!?
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