2010-09-05

【週俳8月の俳句を読む】外山一機

【週俳8月の俳句を読む】
外山一機
俳句形式の寸法


高山れおな「昨日の明日のレッスン」

高山れおなの「昨日の明日のレッスン」は岩片仁次の句集の語を借りて制作された多行形式による作品だ。岩片の語彙の力もあるのだろうが、作品はノイズをはらみつつも(むしろそれゆえに)様式美の世界を展開している。

     三ツ橋
    四ツ橋
   八ツ橋いづこ
真神いづこ
  *
赤紙
青紙
黄紙
遺書
 の
  黄金律

一句目では「三橋敏雄」を暗示させつつ、「三ツ橋」「四ツ橋」「八ツ橋いづこ」と展開していくことで「三橋敏雄」の追憶を期待する読者を奇妙な幻景へと誘い込む。四行目において幻の「八ツ橋」は「真神」へと変換され、遠ざかっていく死者への思いが深まる。二句目は林田紀音夫の「黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ」「鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ」を想起させる。同時に一句目と同様に畳みかけるような言葉の斡旋の方法はどこか既視感がある。無論これは意図的なパフォーマンスにちがいないが、こうしたパフォーマンスが成立するのは多行形式においてすでに完成された独自の美が存在するためではないだろうか。

ほかには次の句に注目した。

 よく飛べり

 紙蝙蝠の
 兄弟は
    *
  鬱の木の
  金剛鸚哥は
  鳴かず
  飛ばず



藤幹子「あれを好く コミケ想望句群」・松本てふこ「コミケに行ってきました」

日常のことがらを俳句にする、ということがある。見過ごされている諸々の事象を舞台に引っ張り上げることでそれが俳句にするということは、多くの俳人、俳句愛好家にとってはむしろお手のものといったところではないか。だからコミケを詠んだこれらの作品において求めるべきは、題材を作品化する方法論を書き手がどれだけ意識できているかということ、そしてその意識の鋭さにこそあろう。

  長き夜の輪転機みな肌色に    藤幹子

  コピー本薄し八月十五日     松本てふこ

こうした作品からは制度としてのコミケに対して簡単に同調することを拒絶する意志が感じられる。歪んで見えるリアリティーを手放そうとはせず、周囲に違和感を表明することに躊躇しない。また、コミケといういかにも風狂でいかにも俳人好きのする題材を取りあげつつ、きちんと距離を置いている。

反対に次のような作品は、いかにも俳句らしく出来上がっているが、それは作品化の手続きにおいて俳句らしい筋道を立てることに終始した結果ではなかったろうか。

  B4判20頁に銀河の値     藤幹子

  コスプレイヤー誰もが汗臭く   松本てふこ

この二句にみられる諧謔は、いかにも俳句めいた俳句を展開することに一役買っているけれど、それが何だというのだろう。こんなふうに出来合いの手続きにのっとった作品をむやみに羅列することは俳句表現をだぶつかせるにすぎない。



小川楓子「その窓に」

全体に不穏な雰囲気のただよう作品である。しかしその不穏な空気を怯えのかたちをとって捉えるのではなく、あるいは逃げるのでもなく、平然と切り取ったところにおもしろさがある。

  夏風邪や影の滴る弟と

  陸上にかなしみのなき昼寝かな

  その窓に揚羽ばかりが来て困る

  青山椒渡して今朝はおめでたう

「その窓」「今朝はおめでたう」などの表現に曖昧さがみられるが、むしろそれがこれらの句に魅力をもたらしていよう。この、自らの手で何かしらを探り当てようとするような言い方が、かえって表現者としての真摯な態度を思わせる。いかにも言い足りない感じがあるがこれを短歌に引き延ばせば冗漫であろう。実はこれで俳句形式の寸法にあっているのだ。

また、「たとえば十分に説明の行き届いた句「ひまはりや雨にぬれたいから行くね」と比べてみれば一目瞭然であるが、手探りの言い回しと限りなくニュートラルなレベルに押し下げられた季語とが、これらの句を奇妙な軽さをもたらしてもいるのである。ニヒリスティックにもみえる作品が、それでも嫌みではないのもこの妙な軽さのためであろう。



岡田一実 銀の粉 10句 ≫読む
松本てふこ フジロックみやげ 12句 ≫読む
小豆澤裕子 踏ん張る 10句 ≫読む
小川楓子 その窓に 10句 ≫読む
しなだしん なんとなく 10句 ≫読む
岡本飛び地 病室 10句 ≫読む
たかぎちようこ めし 10句 ≫読む
高山れおな 昨日の明日のレッスン 46句 ≫読む
〔ウラハイ〕
松本てふこ コミケに行ってきました 10句 ≫読む
藤幹子 あれを好く コミケ想望句群 10句 ≫読む
〔投句作品〕
湊 圭史 ギンセンカ 8句  ≫読む
すずきみのる げげげ 10句  ≫読む
俳句飯 秋より遠 5句 ≫読む

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