2010-09-05

〔傘・創刊前夜祭〕生駒大祐

〔傘・創刊前夜祭〕
僕とフジタが『MOTHER MUSIC RECORDS』を聴いていたころ

生駒大祐


なぜか、最初は「陰陽師くん」だった。

理由は簡単で、はじめて僕が彼を認識したとき、彼が夢枕獏の「陰陽師」を読んでいたから。浄土真宗高田派本山である専修寺が隣接する三重の仏教校、高田高等学校の校舎内。春の日ざしがよく当たるその教室で。お互いがお互いを認識するようになると僕の彼への呼び名も「フジタ」に変わったが、僕が彼を「陰陽師くん」と呼んだときの彼のいかにも厭そうな顔は今でもよく覚えている。そんな始まりであったにもかかわらず、僕とフジタは友達になった。

僕とフジタ(当時の同学年のクラスメート達は「哲史(サトシ)」を読み替えて「テツシ」と呼んでいたが、僕はなぜか「フジタ」と呼んでいた)が俳句に出会ったのは高校一年。僕とヤマグチが俳句甲子園の募集を教室の掲示板で見たときだった。ヤマグチとは山口淳也のことで、僕の小学校からの友人だ。それまで俳句未経験だった僕とヤマグチは、「詩の一形態である俳句で他の高校生とディベートで戦う」というそのシステムに好闘心をかきたてられ(松山へタダで行けるという下心もあったかもしれない)、当時の友人に声をかけて出場することにした。その中にいたのがフジタだった。僕とヤマグチ、フジタ達の友人チーム五人ともう一チーム集まった五人の計十人は、それから高校生活を俳句に捧げる中で良い友人となっていった。

一年目の結果は公式には準優勝だったが、それはほとんどヤマグチの力によるものだったと言っていい。

その時のヤマグチの句は、俳句を始めて三ヶ月とはとても思えないほどに叙情と技巧を湛えていた。

 風死して海水深を秘めいたる
 蝉時雨樹齢の海の底にいて

一方、一年目の俳句甲子園でのフジタの句だ。同じく全くの俳句初心者のフジタは、物の力に寄る、少しごつごつした句を作っていたことがわかる。

 小鳥来る護岸工事の作業帽
 水門に汽船小さし夏帽子

僕ら十人が俳句甲子園への二年目の再挑戦を決意して鍛錬会を行って行く中で、僕らの句は徐々にぎこちなさを無くしていった。

 山吹やクロネコヤマト坂をゆく
 竹馬は九号棟を曲がりけり

切れ字を使いこなしながらもヌケヌケとした詠みぶり。彼は次第に俳句を通して自分らしさを出すことを覚えてゆく。それにはおそらく、叙情を強く俳句に打ち出すヤマグチの影響があった。

 鶏頭花ポテトサラダを作りけり
 天道虫眠る脱水槽回る

二年目の俳句甲子園は予選敗退。そのくやしさもあったのか、フジタは更に少し不思議な世界へと入り込んでいった。

 階段は螺旋空豆芽を出だす
 菜食主義となり泳げば夜光虫

選択された硬質な語彙。彼にとって俳句は自己表現であると共に、無防備な自我を守る言葉の防壁でもあった。

二年生の冬、大学受験が次第に迫る中。甲子園メンバーのマヤさん(小林麻耶)が神奈川大学俳句大賞を受賞したことで、僕らの中で俳句は一段落した感があった。僕もその一人であり、遠い沖に見える受験という暗雲に怯えながらも受験勉強に集中しつつあり、フジタを含めた友人との交友も途絶えがちになっていた。

しかし、フジタはそうではなかった。彼は僕が作ったホームページの掲示板上に「scrub-zoo」というハンドルネームで俳句をぽつぽつと書き連ねていた。

 白墨で描く白鳥自嘲癖
 金魚玉ベンとゴローは愛し合ひ
 団栗8£ F君今日死んダ?

この生身とも呼べる句群。僕にとってそれらの句はまさに脅威であった。受験を言い訳に俳句から逃げている自分をまざまざと見せ付けられるようで。それが分かっていながら、僕はフジタの繰り出す俳句から目をそらすことで弱い自我を守ろうとした。

フジタはおそらく逆だった。純粋に心から出た言葉を用いた俳句によって自己を守る繭を作り、その中で自分自身を再構成していたのだろう。高校時代のフジタと今のフジタの間に感じるギャップ。おとなしく自信なさげな彼と迷わず己の道を邁進する彼。その変化はゆっくりと、しかしおそらく確実なものだった。

そして僕とフジタの交友は、この頃から二年間ほどほぼ途切れる。

それは受験を機に僕が俳句から遠ざかっていたこともあるし、同じ大学進学後も僕が俳句に手をつける余裕がなかったこともある。

その間彼が何処で何をして、何を考え、どんな俳句を作っていたのか。それを僕は知らない。


大学二年の半ば。僕が再び俳句をはじめたのをきっかけにフジタと僕との親交が再開する。いつの間にか彼、は友人の間で「ふじT」と呼ばれるようになっていた。

それでも僕は久しぶりに会った彼をフジタと呼び続けた。それは今に至る。

その秋には二人で、一日百句を行った。そのときの句には

 挨拶のあと一刻の水遊び

などがあった。

力任せで切実感が強かった高校時代の俳句とは異なり、このときの句には軽やかな明るさと技巧の妙味が感じられて、僕はとても驚いた。フジタは二年の空白の間に俳句の繭から脱皮し、俳句を身に刻みつけることで僕の少し高みに登っていた。
そんなフジタを僕は眩しく思った。

それから二年。あの空白の二年とはまた違ったところにフジタはいる。

 夏痩の汝と我やめがねして
 月垂れて空青くある懐炉かな

あれからフジタは俳句形式をさらに自らの中に浸透させていった。そして、「俳句らしい」俳句から、じぶんの生身の言葉を最も純粋なかたちで届かせるための手段として俳句を用いるようになった。その届けたい相手とは、大学時代に出会った同世代の俳人、結社の俳句仲間たち、だ。そして、その相手は共に俳句を始めた高校時代のあの九人のことであるようにも、思うのだ。

1 コメント:

匿名 さんのコメント...

お久しぶりです。葛葉です。久しぶりに俳句で検索したら見つけて驚きました。4年の末から、御朱印集めをしつつ俳句を詠んでます。が、近くに俳句をしている友人がいなかったので、ココを見つけてテンションが上がってます。また連絡します。