2010-10-10

若者≠無謀で野蛮な挑戦 『俳句』2010年10月号を読む 五十嵐秀彦

【俳誌を読む】
若者≠無謀で野蛮な挑戦
『俳句』2010年10月号を読む

五十嵐秀彦


高柳克弘「現代俳句の挑戦第22回 思いと言葉」 p150-

若者の無謀で野蛮な挑戦は、社会にとって必要な活力でもある。唯々諾々と伝統を受け継いでいくだけの優等生など、伝統を改革する力はおろか、伝統を守っていく力すら持ってはいない。

俳句の世界の「若者不足」が生み出した「若者に阿る態度」や、逆に「老人の文芸」としてそれを認める若者だけ来ればよいという意見などに対し、高柳はこう述べている。
これは考えてみれば俳句の世界ばかりでなく、どこの社会でも言えることだ。
職場でベテラン職員が集まると始まる会話の多くも似たようなものである。
「若者」=「無謀で野蛮な挑戦」という公式がすでに無効になっているのかもしれない。
でもそう言ってあきらめるわけにもいかぬだろう。若手のひとりである高柳の言葉ゆえに、切実な焦燥感をそこに見た。

今回とりあげられたのは角川の『一冊まるごと俳句甲子園』。
文中にある《「俳句甲子園」をめぐる大人たちが、こんなにもたくさんいるのだ》という驚きは、このムックを読んだ私の驚きでもあった。
編集が俳句甲子園の参加者よりもその周辺の大人たち中心に組まれていたことにもよると言ってしまえばそれまでだが、これほどの俳人たちを巻き込んでしまった「俳句甲子園」は、もはや高校生の俳句大会と無邪気に言ってすまされないのかもしれない。

6月に黒田杏子先生にお会いしたとき、8月の俳句甲子園は? と私が尋ねると黒田先生が胸を張るような調子で「今年は私が審査委員長よ」とおっしゃったのは印象的だった。「俳句甲子園」がここまで成長するとは開始当初には想像もしなかったのだが。

高柳もまた本戦の審査員をしているだけあって、幼くもなく大人でもない(年齢のことではない)俳句甲子園の俳句の実情をよくとらえていて、面白い論考となっている。
最後に引用されている正木ゆう子の《俳句甲子園には俳句のすべてがあるような気がする。でも、やっぱり、俳句はもっと大きい》という発言には、私にも大きく共感できるものがあった。


「俳壇ニュース」 p203-

訃報記事に、皆さんご存知のように、松澤昭、森澄雄両氏の逝去が報じられており、どちらも年齢的に不足ない大往生ながら、次々と時代のフィルムが巻き取られてゆくという感慨がある。

個人的なことで失礼ながら、私が現代俳句評論賞を頂戴したときの現代俳句協会会長が松澤昭氏で、賞状を手渡してくださったときの笑顔を昨日のことのように憶えている。
森澄雄氏は、山本健吉の「吉野の花見」の一員で、山本健吉、中上健次、森澄夫が世を去った今、残っているのは角川春樹ひとりか。
山本健吉に中上健次を引き合わせたのが森澄雄であった。
その出会いが中上健次を大きく変化させたのであり、まるで文芸のノーベル化学賞(文学賞ではない)のような功績である。

無限のフィルムというものはないのだから、これからも巻き取られたフィルムがカラカラと鳴り続けるのだろう。


御中虫 「日傘たゝむ日」12句(第3回芝不器男俳句新人賞受賞記念)p200-

昭和54年生れの若い作家。
12句全句面白く読めた。
「作風はかなりアクが強い」とは作者自身の弁であり、なるほど平凡とは思えぬが本人が思うほど「アクが強い」わけでもない。
型破りなようでいて、比較的定型感を保持し、飛躍も読者の想像力の及ぶ範囲内という昨今の若い作家に共通する傾向をこの人も持っている。

 日傘たゝんで父と絶縁

この句にはひかれるものがあった。父というのは娘にこう言われる存在でありたい。

 おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ

 季語は秋。ねえ、俳句って何ですか?

この二句はどうも理屈臭が強く、言ってやった的なものを感じてしまう。
どの方向に進むのか作者にもわからないだろうが、「俳句って何ですか?」はこれが最後なんだろうな。


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