【俳句総合誌を読む】
この虚子の真骨頂はちょっと泣ける
『俳句界』2010年11月号を読む ……さいばら天気
●五島高資・「脱結社化」の時代における登竜門 (p30-)
見開き2pの時評的記事。『新撰21』に入集された若手俳人の所属を腑分けし、結社(主宰誌)所属が約62%と過半数を占めるものの、残り4割近くが非・結社(同人誌+無所属)であることに着目、その現在的動向をインターネットと関連させた短文ですが、「あれれ?」ってな箇所がいくつかありました。
まず、俳句甲子園、鬼貫青春俳句大賞、龍谷大学青春俳句大賞、全国学生俳句大賞などの「若年層向けの俳句コンテスト」を、「主にネットを介した」と言っていいのでしょうか。よければ、これでいいのですが、私には、これらの俳句コンテストとネットとがそれほど密接であるという認識はありませんでした。
そして次の箇所。
例えば、インターネット俳句協会などが結社とネット俳句との交流の場として機能することが期待される。私自身は「ネット俳句」というカテゴリーが存在するとは考えていないのですが、それを話すと長くなりますし、過去に書いたことですから、それはそれとして、立ち止まってしまったのは、「インターネット俳句協会」という部分です。
え? 「インターネット俳句協会」って、まだ、あるのですか?
この協会、2006年に、五島高資氏を理事長として発足したところまでは存じ上げていますが、てっきり消滅したものと思っていました。
そこで、と、「インターネット俳句協会」をgoogle検索してみると、「インターネット俳句センター」(高橋信之氏によるサイト)がトップにヒットします。
インターネット俳句協会=インターネット俳句センター?
なんだかミステリーです。
●特集 怪物高濱虚子~俳壇を征服した男 (p44-)
「虚子の曾孫座談会」(p46-)は稲畑廣太郎、星野高士、坊城俊樹3氏による座談会。
俊樹 (…)(俳句の世界に)入ってみて思ったんだけど、虚子の作ってきた現代俳壇をわれわれが小さくしているのではないか。年尾が広め、立子がとんがらしたものをわれわれがサラリーマンみたいにしていると感じた。今、それをなんとかしないといけない。だからこの三人はのろのろとしてるわけにはいかないんだ。自派のサラリーマン化を認める発言が、ホトトギス系の内部から出たことに、ちょっと驚きました。
(サラリーマンという譬えは、解釈がむずかしいところがありますが、なんとなくわかります)
「仁平勝・虚子5番勝負その5 vs桑原武夫」には、おもしろいエピソードが紹介されています。
これは本井英氏から聞いた話だが、あるとき高木晴子(だったと思うが、いずれにしても虚子の娘)が、出す句がないので句会を休むというと、虚子は自分の句を貸してやるから行こうという。そして彼女が虚子から借りた句を出句すると、虚子は選句でその句をすまして採ったというのである。こういうところに虚子の真骨頂がある。
●坂口昌弘 平成の好敵手 森澄雄vs金子兜太 (p98-)
全体論旨とはとりあえず無関係なのですが、間違いがあります。
具体的には、古来からアニミズムという思想があったわけではなくて、文化人類学の元祖、E・B・タイラーが明治四年頃に多くの民族宗教の共通点を定義した学術用語であり(…)タイラーの造語であり(…)まず、「古来から~」と部分は論理的間違い、というか、書き方の問題でしょうか。アニミズムという思想(考え方・観念)は、ご存じのとおり、古来からあります。それこそキリスト教よりもはるかに以前。「アニミズム」という「用語」が当てられたのが近代になってから、ということです(元になった「アニマ」はラテン語で「魂」の意)。
それから、アニミズムはタイラー(1832-1917)の造語ではありません。わかっている範囲の初出は、1720年、ゲオルク・エルンスト・シュタールによる使用。タイラーの定義が文化人類学において定着し、一般にも定着したというだけ(アニミズムを研究対象として扱うのは、文化人類学がもっぱらでしたから)。
ひょっとしたら坂口氏は、ウィペディアの「アニミズム」の項を参考にされたのかもしれません。そこでは、用語としての「アニミズム」の説明がタイラーから始まっています。
※ネットではなく確かな文献を参照しなくてはいけないと言うのではありません。日本語のウィキペディアは危ないので、せめて、英文ウィキで確認してみるのがよいです。
ついでに細かいことを言えば、イギリス人人類学者の著作に「明治四年」という表記。ご愛敬ですが、標準的ではないですね。
●泣ける俳句 (p119-)
「泣ける俳句」についてのエッセイ数篇。人それぞれに、それはあるのでしょう。ただ、「泣ける俳句」と実際に俳句を読んで泣くこととは違うのだろうと思います。
余談的に私事。私は俳句を読んで泣くなんてことはあり得ないと思っていましたが、句集を読んで泣いたことが二度(2冊)あります。「泣ける」のではなく、実際に涙してしまい、それが自分でも意外で、たいへん驚きました。
そのうえで、この特集のエッセイを読むと、ほんとうに泣いているわけではなく、泣けるというだけなのか、と、ちょっと拍子抜けする部分もありました。
(ほんとに泣くのが「いい」というわけではなく、ね)
ま、エッセイはいいとしても、「あなたの泣ける一句」(p148-)は、「みなさん、ちょっとどーかしてませんか?」と言いたくなります。「あなたの泣ける一句を」との募集に、読者が投句するというのは、どう考えても醜悪です。「これ、泣けるでしょう?」と自分の句を差し出しますか、ふつー。このページには、ちょっとびっくりしました。
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