2010-10-31

テキスト版 2010落選展 山下つばさ 底  

  底   山下つばさ

ゆらゆらと金魚の糞やヘリ通過
マンゴーを乗せ加速せし東西線
抜糸する先生の顔梅は実に
手渡さるるハンカチにある湿りかな
薔薇の脱力鞄の底の正方形
洋館を出で蟻の巣に戻りけり
蛇口より水のはしやいで良夜かな
テニスコートのラインくつきり神の留守
スフィンクスのやうな林檎を選びとる
発見せり林檎の下に五円玉
火曜日のガードマンだけ赤い羽根
銀杏黄葉トランペットに映る顔
ソウルミュージック踵より冬に入る
風邪心地黒鍵ばかり押してゐる
綿虫や家族全員土の道
焚火してハングル文字となる煙
時雨るるや伊豆半島をなぞる指
水鳥の羽音水面の乱反射
新聞に包まれし葱吠ゆる犬
葱刻む音に合わせてナットキングコール
レシートに刻まれし名や冬の雨
母のうたた寝こたつの上の世界地図
ポインセチア眼下に夜の道路工事
絨毯のめくれやすきを見てをりぬ
ぴかぴかの父の踝冬満月
除夜の鐘ぽきりと鳴るは首の骨
牛乳やこたつで過ごす日曜日
下向きに重ねしグラス春隣
梅一輪アコーディオンの伸び縮み
左手が右手に触れて春一番
笑ふとき手を叩く癖蕗の薹
一斉に蜆の口の開き返事
生返事ばかりの父よ雛祭
この雛父の寝顔に似てゐたり
穴を掘る機械春野に葬らる
千人のマリア現はる春の雨
春燈や本に隠るる父と母
パンクせし自転車いぬふぐりの上に
浮雲やブランコに置くランドセル
気温十五度ATMの自動ドア
薔薇の芽や母はぷんぷんしてをりぬ
椿落つ丸い声出す母の居て
春満月動物園に父と母
片足を東京タワーにして立夏
腫れ上がる頬夏潮に殴られて
制服の下に水着をもう着てゐる
見えてゐるもののひとつに蟻の列
夏の月ソファーに沈む尻ふたつ
夜の底に白いハンカチ置いて来し
緑かき分け見つけたる緑かな

5 comments:

ほうじちゃ さんのコメント...

独特の世界観を感じます。現代的な存在に新鮮感があります。

ただ、季語が動く句が余りにも多かったのが残念です。父母の句も、徹底的に父母を詠むか、数句に抑えるか、どちらかの方がよいと思いました。

グミ さんのコメント...

「薔薇の脱力鞄の底の正方形」「焚火してハングル文字となる煙」が好きです。

さいばら天気 さんのコメント...

ゆらゆらと金魚の糞やヘリ通過

金魚を飼ったことはありますが、そういえば、あの子たちが糞をしている瞬間を見たことがないような気がします。

(「あの子たち」と呼ぶのは、金魚のことがすごく好きだからです。あんなかわいらしい生き物はちょっとない。今は飼っていないので、机の前の壁に友人から届いた金魚の絵葉書を貼っています)

で、金魚の糞です。

水の中をゆやゆらと落ちていく。そこに、ヘコプターです。見えるわけじゃあありません。音が聞こえる。

パタパタパタパタ、かな? もっと的確な擬音がありますね。

ともかかくヘリコプターが空を過ぎる。音が「降ってくる」と言いますが、高いところを行くヘリコプターの音はまさにそんな感じです。

ゆらゆらと落ちていく金魚の糞。無音で落ちていく金魚の糞。そこに、ヘリコプターの「降るような音」がかぶさり、水槽がひとつの空のようです(空は数えられませんけどね)。

空間Aと空間Bが重なる、あるいは入れ替わる、あるいはスケール(縮尺)が変換する、このダイナミクスというんでしょうか、そうした出来事を味わう快感は、短い言葉(例えば俳句)ならではのものだと思っています。例えば映像でも、長い文章でも、説明的になってしまいそうです(その意味では、音楽が俳句と近い。説明ではなく、現実には違う2つの空間の秩序を一瞬で入れ替えたり、繋げたりしてくれます)。

この句のなかで、2つの空間の一瞬の互換、そして無音から音への変換が起こっています。

金魚の糞とヘリコプター。なぜか日曜日の感じがしました。


あ、加えるに、空を飛ぶもので、ヘリコプターほどかわいらしいものもないと思うのですが、どうでしょう? 旅客機やミサイル、気球、どれもヘリコプターほどはかわいらしくありません。

みのる さんのコメント...

「風邪心地黒鍵ばかり押してゐる」
世の中広いから、あるいは「黒鍵」ばかりで作られた曲というのもあるのかもしれません。そして、その曲を聴いてみたら、案外普通に聞こえるかもしれないとも思われます。「黒鍵」に対して、ある特殊な意味やニュアンスやイメージを抱く(そしてそれを句材として活用する)のは、それに対する「白鍵」の存在があるからではないか。「白鍵」は普通、「黒鍵」は特殊的な受け止め方で。
「押す」と表現されているので、特に曲を弾いているわけではないでしょう。ピアノ(とりあえず私はピアノの鍵盤として鑑賞していますが)の蓋を開け、「風邪心地」のけだるさの中で、ぽんぽんと1音2音打音してみる。半音上、あるいは半音下の音が響く。それが耳慣れた全音の音から、微妙にずれて響くのが、今のやや体調不良のこの気分に同調する。軽い違和感が作品全体をふわりと包んでいるような印象を持ちます。
ピアノといえば、両手で弾けるのは「ネコ踏んじゃった」くらいの私の鑑賞なので、ピアノに慣れている人が見れば、とんちんかんな発言のように感じられるかもしれません。
そして、ピアノに慣れている人には、「黒鍵」の持つニュアンスがどの程度伝わるのか、などとも思います。
俳句の理解として、鑑賞者が分かっていないから伝わらないというケースが多いのかもしれませんが、分かっていないから伝わるという場合も、時にはあるのかもしれませんね。

上田信治 さんのコメント...

天気さんのご指摘と重なるのですが、世界Aと世界Bを、重ねたり結びつけたり。その方法が、ひじょうに多彩。

〈ゆらゆらと金魚の糞やヘリ通過〉同じような速さ(見かけが)の運動の、ヨコとタテ。

〈マンゴーを乗せ加速せし東西線〉加速せしと言いながら、異次元に移動。

〈抜糸する先生の顔梅は実に〉現実の時間と、ブッキッシュな時間、両方クローズアップで。

〈新聞に包まれし葱吠ゆる犬〉吠える犬と対比されて、葱が、主体的に、新聞にくるまっているよう。

おもしろいおもしろい。