【週刊俳句時評 第18回】
遊戯の家から機嫌のいい犬と青い月面が見えている
山口優夢
1
金原まさ子の『遊戯の家』は、確かに独自の世界観を体現している句集だった。
日本タンポポ引金に指がとどかない
麗かやお伽話は舌を切る
青蜥蜴なぶるに幼児語をつかう
現実を写し取ること、写生という方法論、そういったものは少なくとも中心にはない。自己の中にある加虐的な性向を「日本タンポポ」「麗か」「青蜥蜴」といった季語とクロスさせることで現実世界に向けて解放している感じがある。
一句目の「引金」はもちろん銃の引金だろう。普通は指が届かないなんてことはないと思うが、さきほど述べたように、この句を現実のものとして受け取る必要はない。むしろ、何かを撃ち抜こうとしているのにそれが叶わず、もどかしい思いが募る中で、襲撃の意志ばかりが先鋭化してゆく感じこそこの句の持ち味と言える。
二句目は言葉の連ね方がややあいまいで、お伽話というものの中ではいつも誰かが舌を切る、ということなのか、お伽話を話す時には舌を切ってしまう、ということなのか、ちょっと分からない。いずれの意味だとしてもそこに気持ちを寄せられるかどうか、それは読者によって意見が分かれるところだろう。僕としては、舌切雀のイメージをベースにしつつ、うららかな春の日射しの中で「お伽話は舌を切る」と言い切った作者の奇妙な引き攣り笑いが見えてくればこの句は面白く感じられる。
三句目、「青蜥蜴」で切れるのかどうか、これもちょっと曖昧だ。いずれにしても、青蜥蜴のつめたい気味悪さのイメージを借りたかったのだろう。「なぶるに幼児語をつかう」の発見は、なかなかに炯眼。加虐趣味の極みだ。
氾濫だ氾濫だとラフレシアの花の奥
朴散るたび金貨いちまい口うつし
加虐趣味は、幻想を見る視力につながる。被虐趣味は現実に対する反応だが、加虐趣味は現実を改変し、ときに現実を越えてゆこうとする意思だからだ。氾濫だ氾濫だ、というリフレインが花の生きている勢いをとらえている。また、金貨いちまい口うつし、のダウナーな気分の美しさ。
しかし、これらの加虐趣味や幻想が俳句の形の中で本当になまなましく感じられるものばかりではなく、失敗作も散見される。
真空に入り揚雲雀こなごな
焼却炉より鱶のかたちが立ち上る
金魚玉透かすとマチュ・ピチュが見える
「真空」や「こなごな」といった道具立てが陳腐だったり、「鱶のかたち」に五感に訴えてくる新たなイメージが根付いていなかったり、「マチュ・ピチュ」が「金魚玉」の向うにある幻想であることを一句の中で明かしてしまったことのつまらなさが感じられたり、といった弱点が見られる。
俳句の外側にいて、そこで作品をなそうとすると、もちろん刺激的な俳句が登場することもできるが、言い回しがすぐに古びてしまったり、なかなか世界観をうまく言いあてられなかったりして、陳腐になってしまう可能性も大きい。
2
川上弘美句集『機嫌のいい犬』は、一人の女性が俳句の中に入り込んでゆく様子がよく分かる句集だ。
サイダーの泡より淡き疲れかな
泣いてると鼬の王が来るからね
いたみやすきものよ春の目玉とは
これらの句は、明らかに従来の俳句的価値観を越えたところに成立している感じがある。一句目は、そろそろと立ち上るサイダーの泡、その明るさ、しかし、その中にかすかにダウナーな気分や疲れに似たものを感じ取るところに、彼女の感性の特異性を見る。それを自分の疲れとリンクさせており、きちんと自分の体を通ってきたリアリティーがある。「泡より淡き」の「あ」「わ」が重複する音韻の明るい心地よさもなかなか良い。
二句目、作家としての川上弘美の感性にじかにリンクする句だと感じた。「蛇を踏む」、「ニシノユキヒコの恋と冒険」などにおける、人間以外の者との交感、超現実的でありながら奇妙に五感に訴えてくるそういった幻想が、この句にも通っている。そして、その分、従来の俳句的情緒からは遠い。だいたい、「鼬の王」などという言葉が俳句の中に出てくること自体普通の感性ではない。しかし、その「鼬の王」という語感に感じられる、かわいらしいまがまがしさとも言うべきもの。泣いている子供をおどかすのにぴったりなのだ。
三句目の「春の目玉」が「いたみやす」いという発見。それが実際にどうしていたみやすいのかを考える前に、目玉がいたみやすいという言い方をすることによって目玉を「モノ」として捉えているところに奇妙な感覚がある。それはあたかも自分の肉体の中の一部ではなく、目玉それ自体としてどこかに浮遊しているかのようだ。春の埃が舞い上がり、目玉を傷つけるのか。それとも、愁いに満ちた春の情景を見つめなければならない哀しみが目玉を傷つけてしまうのか。いずれにしても、変に納得させられてしまう。
しかし、この俳句的情緒からは遠い感性で作られていた句は、次のような句を契機として限りなく俳句の内側へ入り込んでいった。
片耳にピアス八個や神の旅
「片耳にピアス八個」という措辞に見られる素材、発見そのものは、とても俳句からは遠い。しかし、それに対して「神の旅」という季語を取り合わせ、俳句の中に取りこんでしまえる手腕は、それ自体がとても俳句的だ。まるで風に乗って出雲へ向かう神の耳にじゃらじゃらとピアスがついているような。あるいは、ピアスをじゃらじゃらつけた若者のそばを神が通り抜けてゆく感じか。いずれにしても、ピアスの担うリアリティー(身体感覚)を神の旅のリアリティー(寒さ)につなげたことで一回性が確保されている。
花冷や義眼外しし眼のくぼみ
膝たてて膝の匂ひや冬深む
暴走族旗垂れて幾十夏の浜
札束をむきだし持ちぞアロハシャツ
いずれも、「花冷」「冬深む」「夏の浜」「アロハシャツ」という季語が上手にはまっている。取り合わせの距離感がぴったりである。ということは、その分俳句らしいということだ。
無論、これらの句は佳品として挙げるのにやぶさかではない。義眼の目のくぼみや膝の匂いといった身体感覚に訴えてくる句は、それだけで一定以上のリアリティーを保持しているし、暴走族旗や札束といった自分自身とは少し距離のあるような素材でもそれを取り入れることで伝統的な俳句とは異なる世界を描き出している。
しかし、いたみやすい「春の目玉」や、泣いているとやってくる「鼬の王」といった、俳句的な世界の全く外側から飛来してきた景物は、句集を読み進めるに連れて影をひそめてしまう。初期の「暴れん坊な」句はとても俳句らしい句にとって代わられてしまう。
3
落選展に出ていた福田若之の五十句「青い月面」は、大変若々しい作品であった。
人体模型たおせば飛散・悲惨・花
天馬死ねば無数の雹となって降る
号と数える木枯も病室も
乾いたリリシズムとでも言おうか。「飛散・悲惨」や「木枯も病室も」は両方とも言葉から発想したものであるが、単なる言葉遊びに終わっていないのは、そこに愁いに満ちた青年の横顔を読みとるからだ。
そのような憂愁は、人体模型がたおれたのではなく意図的に「たおした」ところにまずもって表れていよう。飛散・悲惨と言葉遊びで出てきた「悲惨」は、実際には悲惨さを感じさせることはなく、悲惨だな、と醒めた目で見ている青年が眼に浮かぶ。
天馬の句は、これも完全に想像で出来た句ではあるが、「無数の」に体重がかかっている。つまり、哀れが生じる余地がある。それはしかし、逆に言えば天馬の死というおそろしい悲劇に対してずいぶん酷薄な描き方をしているということの裏返しでもある。あるいは、その酷薄さは木枯と病室を同質に見ようとするその視線こそ、表れているとも言えようか。
さよならは芝居の台詞雪が降る
芝居の台詞でしか「さよなら」という哀愁に満ちた言葉は出てこないということ。そういうリアリティーの保ち方が、俳句の外側からやってきた新しい感性を予感させる。
彼は未だ19歳である。俳句の外側からやってきた彼が、俳句に何をもたらすか。「外側」は刺激に満ちているが、その分陳腐になりやすいという面もある。しかし「内側」に入り込み過ぎては、新しい俳句を書くことは難しい。
いずれにしても、道は険しい。もちろん、それは誰にとってもそうに決まってはいるのだが。
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2010-11-21
【週刊俳句時評 第18回】山口優夢
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