高校生が読む新撰21
第8回 関悦史・田中亜美……青木ともじ・山口萌人
開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
・関悦史論……青木ともじ
皿皿皿皿皿血皿皿皿皿
関氏の句を見てまず言えることは俳句のきまりにとらわれることのない、自由な俳句であるということである。この句が初っ端に置かれていることもまたそれを宣言しているかのようにも思えよう。
さて、この句を見たときには驚いた。「皿」と「血」との字の相違はよく言われるものの、このようなかたちで俳句にした人は、おそらくいないであろうからである。これはある種のことば遊びと捉えて良いと私は思ったが、季語も無く、俳句とは認めないという人もいるだろう。だが、古に
目をとめよ梅かながめむ夜め遠目
(これは回文になっている)
とか、
高野山谷の蛍もひじり哉
(聖と火尻をかけた洒落)
などという遊びの歌もまた、芸術と認められたのだから、この句もまた、これはこれで良いのではないだろうか。話をもとに戻して、ほかにも目を引いたものをいくつか挙げる。
ΩからまたIを出す尺蠖よ
Ωを「をはり」と読ませ、Iを「われ」と読ませるのも斬新である。どこか哲学的なところも感じさせられるが、この句の場合、尺蠖の動きにそれを見立てたのは、そもそもは観察の目が行き届いている。斬新さとも、写生ともとれる、気になる句である。いずれにしても、表面的にはことば遊びでありながら、そこには洒落たところがある。遊びでもただの遊びに終わっていないところに魅力は感じるのである。
白濁の目が松平健ながむ
口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
ウルトラセブンの闇の高島平かな
など、人名を使った句も多く見られる。固有名詞のはなしは紙面の都合上割愛するが、固有名詞のおもしろさは十分に伝わってくる。関氏は新しいこと、というと語弊があるが、言うなれば人々が多く手を付けなかった領域を開拓しているのであろう。そこに独自の観点と表現を使って、情緒とはちがうものの、何故か人の心に触れるような、不思議な魅力を出しているのである。
いままでは特異な無季の句などを重点的に見てきたが、有季定型の句も見てみよう。
地下道を布団引きずる男かな
核の傘ふれあふ下の裸かな
いずれにしても人間の暗い部分を描いている。季語の用い方も意外でありながら、的を得ているようにも思わされる。前者は路上で生活しているような人を描いたのか、彼は景をありのままに描いていながら、どこか現実から突き放したよう冷ややかな視点も感じるのである。この句も、地下道、布団、男という三物は相異なるものでありながら、すべてが同じ「物体」であるかのような感覚を受ける。後者にも裸というものに特に無機的な印象を受ける。現世から離れたようなことを詠んでいるようでして、生活感に基づいているような、ことばに表しがたい良さはある。個人的にも前者は特に好きな句である。
全体的に見ても、そこには現代を達観しているような視点が存在するように思う。「介護七句」に関しても、実体験の写生でありながら、どこか客観視しているような、現代人のあさましさをどこかで伺わせたいような、そんな感慨を受けた。あくまで私個人の鑑賞ではあるから作者自身の意思とは異なるかも知れないが、お許しいただきたい。
・田中亜美論……山口萌人
抽象となるまでパセリ刻みけり
パセリをどんどん刻んでゆく。それは至って単純な行為にも関わらず、それが「抽象となる」ところまで刻むという比喩からは、その行為にもっと深遠な意味を見いだせるような気がしてくる。もっと深遠な意思が働いているような、もっと哲学的な何かがある気がしてくる。
しかし、この句はそういった内面的なものだけを描こうとしているのではなかろう。実景としてもそのパセリが刻まれた様子がありありと浮かぶし、季感も句に色彩を加えていることは明白だ。
田中氏の句には、比喩が多い。それも、独創的な比喩だ。だからと言ってそれが難解であったり、リアルを捻じ曲げる比喩であったりはしない。その表現法について、ここでは見ていこうと思う。
一 はつなつの櫂と思ひし腕かな(「腕」に「かひな」とルビ)
地下水のようなかなしみリラ満ちぬ
アルコール・ランプ白鳥貫けり
一句目、川か湖か、腕を水中に差し込んだ時の景。その腕を櫂と思わせるのは、腕のモノとしての形状はもちろんのこと、夏の水が体に触れた時の心地よさを櫂の木の質感に添わせているためだろう。二句目。『古今六帖』、
心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる
を思った。右の歌の「下行く水」とは、当然恋慕の情。それを背景に掲句を読むと、「かなしみ」がどのようなものか分かるだろう。それに地下水の流れる地下空間の暗澹とした有様や、リラの香りも「春愁」の心持ちをかもし出している。三句目、あの液体に浸かった「紐」のようなものを「白鳥」にたとえたか。とすると白鳥が水(アルコール)中に首を突っ込んでいるということになろうが、それも本当の白鳥を思えば優雅。アルコール・ランプの重いガラスの質感も、白鳥の落ち着いた物腰に合っている。
以上を見ていると、一見分かりにくいように思える比喩が必ずしも説明のつかないただのドグマではないとわかる。一句目なら形状、二句目なら空気感、三句目も形状からの比喩だが、比喩によって共通する特徴を発見するという面白さ以上に、これらの句では身体部分・感情・物のイデアのようなものを描こうとしているのではないか、と僕は思う。その手段として、比喩を選んだにすぎないと。
比喩表現を作る時に、それが読み手に理解されるか、というのは重要であろう。とすると、まずはその形(空気感の形、というと不思議だが)を捉えることが必要だ。その際に、僕らは物を抽象化(イメージ化)して再度捉えなおすのではないだろうか。その具体的な捉え直しの時にどんなイメージを切り取ってきたか、そしてそれを支援している季語の本意は何か。そしてそこから何を吐露したいのか。そこが比喩俳句の独自性を判断する基準であり、掲句はそれが成功しているように思う。
二 原子心母ユニットバスで血を流す
Norwegian Wood 白夜の監視カメラ
比喩とは関係ないが、固有名詞の特徴的だった句を二つ。一句目。「Atom Heart Mother, Pink Floyd(1970)」との前書がある。当然「原子心母」はPink Floydの造語、原子力電池で動く心臓ペースメーカーからの着想と聞く。掲句ではそれが血を流しているという。掲句は楽曲との取り合わせというよりは、サイケデリックなPink Floydのイメージとの取り合わせともいえる、映画『サイコ』のような世界が面白い。二句目、言わずもがな、Beatlesの楽曲『ノルウェイの森(直訳なら『ノルウェイの家具』)』である。ノルウェイと白夜の近さは感じるものの、無機物との取り合わせに白夜独特の静謐さを感じた。
これらの句群は固有名詞の字数が多い分、内容も曲や背景を下敷きにしている句であった。しかしそれが曲のイメージの流用にとどまることなく、全く違った世界を見せることで詩として成り立っているのは、取り合わせ式の句の作りだからなのだろう。(音楽的趣味もあるけれど)魅かれる句であった。
一、二を通して有季・無季の句を両方読んできたのだが、氏の作品には(小論で指摘されているような)「フレーズ+季語」という形や「名詞+フレーズ」のように明確な切れのある作品が散見される。それは読者に違和感を抱かせるという負の面をもちながらも、ある種の緊迫感を持って迫ってくる句を形作っている。その緊迫感は、比喩によって抽象的な何かを取りだそうとする作者の姿勢にもどこか通じるようにも感じた。
そしてさらに言うならば、その切れこそが、読者を踏み留まらせて比喩の深いところまで追求させる所以のように僕は思うのである。
邑書林ホームページでも購入可能。>
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皿皿皿皿皿血皿皿皿皿
関氏の句を見てまず言えることは俳句のきまりにとらわれることのない、自由な俳句であるということである。この句が初っ端に置かれていることもまたそれを宣言しているかのようにも思えよう。
さて、この句を見たときには驚いた。「皿」と「血」との字の相違はよく言われるものの、このようなかたちで俳句にした人は、おそらくいないであろうからである。これはある種のことば遊びと捉えて良いと私は思ったが、季語も無く、俳句とは認めないという人もいるだろう。だが、古に
目をとめよ梅かながめむ夜め遠目
(これは回文になっている)
とか、
高野山谷の蛍もひじり哉
(聖と火尻をかけた洒落)
などという遊びの歌もまた、芸術と認められたのだから、この句もまた、これはこれで良いのではないだろうか。話をもとに戻して、ほかにも目を引いたものをいくつか挙げる。
ΩからまたIを出す尺蠖よ
Ωを「をはり」と読ませ、Iを「われ」と読ませるのも斬新である。どこか哲学的なところも感じさせられるが、この句の場合、尺蠖の動きにそれを見立てたのは、そもそもは観察の目が行き届いている。斬新さとも、写生ともとれる、気になる句である。いずれにしても、表面的にはことば遊びでありながら、そこには洒落たところがある。遊びでもただの遊びに終わっていないところに魅力は感じるのである。
白濁の目が松平健ながむ
口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
ウルトラセブンの闇の高島平かな
など、人名を使った句も多く見られる。固有名詞のはなしは紙面の都合上割愛するが、固有名詞のおもしろさは十分に伝わってくる。関氏は新しいこと、というと語弊があるが、言うなれば人々が多く手を付けなかった領域を開拓しているのであろう。そこに独自の観点と表現を使って、情緒とはちがうものの、何故か人の心に触れるような、不思議な魅力を出しているのである。
いままでは特異な無季の句などを重点的に見てきたが、有季定型の句も見てみよう。
地下道を布団引きずる男かな
核の傘ふれあふ下の裸かな
いずれにしても人間の暗い部分を描いている。季語の用い方も意外でありながら、的を得ているようにも思わされる。前者は路上で生活しているような人を描いたのか、彼は景をありのままに描いていながら、どこか現実から突き放したよう冷ややかな視点も感じるのである。この句も、地下道、布団、男という三物は相異なるものでありながら、すべてが同じ「物体」であるかのような感覚を受ける。後者にも裸というものに特に無機的な印象を受ける。現世から離れたようなことを詠んでいるようでして、生活感に基づいているような、ことばに表しがたい良さはある。個人的にも前者は特に好きな句である。
全体的に見ても、そこには現代を達観しているような視点が存在するように思う。「介護七句」に関しても、実体験の写生でありながら、どこか客観視しているような、現代人のあさましさをどこかで伺わせたいような、そんな感慨を受けた。あくまで私個人の鑑賞ではあるから作者自身の意思とは異なるかも知れないが、お許しいただきたい。
・田中亜美論……山口萌人
抽象となるまでパセリ刻みけり
パセリをどんどん刻んでゆく。それは至って単純な行為にも関わらず、それが「抽象となる」ところまで刻むという比喩からは、その行為にもっと深遠な意味を見いだせるような気がしてくる。もっと深遠な意思が働いているような、もっと哲学的な何かがある気がしてくる。
しかし、この句はそういった内面的なものだけを描こうとしているのではなかろう。実景としてもそのパセリが刻まれた様子がありありと浮かぶし、季感も句に色彩を加えていることは明白だ。
田中氏の句には、比喩が多い。それも、独創的な比喩だ。だからと言ってそれが難解であったり、リアルを捻じ曲げる比喩であったりはしない。その表現法について、ここでは見ていこうと思う。
一 はつなつの櫂と思ひし腕かな(「腕」に「かひな」とルビ)
地下水のようなかなしみリラ満ちぬ
アルコール・ランプ白鳥貫けり
一句目、川か湖か、腕を水中に差し込んだ時の景。その腕を櫂と思わせるのは、腕のモノとしての形状はもちろんのこと、夏の水が体に触れた時の心地よさを櫂の木の質感に添わせているためだろう。二句目。『古今六帖』、
心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる
を思った。右の歌の「下行く水」とは、当然恋慕の情。それを背景に掲句を読むと、「かなしみ」がどのようなものか分かるだろう。それに地下水の流れる地下空間の暗澹とした有様や、リラの香りも「春愁」の心持ちをかもし出している。三句目、あの液体に浸かった「紐」のようなものを「白鳥」にたとえたか。とすると白鳥が水(アルコール)中に首を突っ込んでいるということになろうが、それも本当の白鳥を思えば優雅。アルコール・ランプの重いガラスの質感も、白鳥の落ち着いた物腰に合っている。
以上を見ていると、一見分かりにくいように思える比喩が必ずしも説明のつかないただのドグマではないとわかる。一句目なら形状、二句目なら空気感、三句目も形状からの比喩だが、比喩によって共通する特徴を発見するという面白さ以上に、これらの句では身体部分・感情・物のイデアのようなものを描こうとしているのではないか、と僕は思う。その手段として、比喩を選んだにすぎないと。
比喩表現を作る時に、それが読み手に理解されるか、というのは重要であろう。とすると、まずはその形(空気感の形、というと不思議だが)を捉えることが必要だ。その際に、僕らは物を抽象化(イメージ化)して再度捉えなおすのではないだろうか。その具体的な捉え直しの時にどんなイメージを切り取ってきたか、そしてそれを支援している季語の本意は何か。そしてそこから何を吐露したいのか。そこが比喩俳句の独自性を判断する基準であり、掲句はそれが成功しているように思う。
二 原子心母ユニットバスで血を流す
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比喩とは関係ないが、固有名詞の特徴的だった句を二つ。一句目。「Atom Heart Mother, Pink Floyd(1970)」との前書がある。当然「原子心母」はPink Floydの造語、原子力電池で動く心臓ペースメーカーからの着想と聞く。掲句ではそれが血を流しているという。掲句は楽曲との取り合わせというよりは、サイケデリックなPink Floydのイメージとの取り合わせともいえる、映画『サイコ』のような世界が面白い。二句目、言わずもがな、Beatlesの楽曲『ノルウェイの森(直訳なら『ノルウェイの家具』)』である。ノルウェイと白夜の近さは感じるものの、無機物との取り合わせに白夜独特の静謐さを感じた。
これらの句群は固有名詞の字数が多い分、内容も曲や背景を下敷きにしている句であった。しかしそれが曲のイメージの流用にとどまることなく、全く違った世界を見せることで詩として成り立っているのは、取り合わせ式の句の作りだからなのだろう。(音楽的趣味もあるけれど)魅かれる句であった。
一、二を通して有季・無季の句を両方読んできたのだが、氏の作品には(小論で指摘されているような)「フレーズ+季語」という形や「名詞+フレーズ」のように明確な切れのある作品が散見される。それは読者に違和感を抱かせるという負の面をもちながらも、ある種の緊迫感を持って迫ってくる句を形作っている。その緊迫感は、比喩によって抽象的な何かを取りだそうとする作者の姿勢にもどこか通じるようにも感じた。
そしてさらに言うならば、その切れこそが、読者を踏み留まらせて比喩の深いところまで追求させる所以のように僕は思うのである。
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