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2010-11-14

中学生が読む新撰21 第8回 関悦史・田中亜美

高校生が読む新撰21 
第8回 関悦史・田中亜美……青木ともじ・山口萌人

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

・関悦史論……青木ともじ

   皿皿皿皿皿血皿皿皿皿
 
関氏の句を見てまず言えることは俳句のきまりにとらわれることのない、自由な俳句であるということである。この句が初っ端に置かれていることもまたそれを宣言しているかのようにも思えよう。

さて、この句を見たときには驚いた。「皿」と「血」との字の相違はよく言われるものの、このようなかたちで俳句にした人は、おそらくいないであろうからである。これはある種のことば遊びと捉えて良いと私は思ったが、季語も無く、俳句とは認めないという人もいるだろう。だが、古に

   目をとめよ梅かながめむ夜め遠目
       (これは回文になっている)
とか、
   高野山谷の蛍もひじり哉
       (聖と火尻をかけた洒落)

などという遊びの歌もまた、芸術と認められたのだから、この句もまた、これはこれで良いのではないだろうか。話をもとに戻して、ほかにも目を引いたものをいくつか挙げる。

   ΩからまたIを出す尺蠖よ   

Ωを「をはり」と読ませ、Iを「われ」と読ませるのも斬新である。どこか哲学的なところも感じさせられるが、この句の場合、尺蠖の動きにそれを見立てたのは、そもそもは観察の目が行き届いている。斬新さとも、写生ともとれる、気になる句である。いずれにしても、表面的にはことば遊びでありながら、そこには洒落たところがある。遊びでもただの遊びに終わっていないところに魅力は感じるのである。

   白濁の目が松平健ながむ
   口閉ぢてアントニオ猪木盆梅へ
   ウルトラセブンの闇の高島平かな


など、人名を使った句も多く見られる。固有名詞のはなしは紙面の都合上割愛するが、固有名詞のおもしろさは十分に伝わってくる。関氏は新しいこと、というと語弊があるが、言うなれば人々が多く手を付けなかった領域を開拓しているのであろう。そこに独自の観点と表現を使って、情緒とはちがうものの、何故か人の心に触れるような、不思議な魅力を出しているのである。

いままでは特異な無季の句などを重点的に見てきたが、有季定型の句も見てみよう。

   地下道を布団引きずる男かな
   
核の傘ふれあふ下の裸かな

いずれにしても人間の暗い部分を描いている。季語の用い方も意外でありながら、的を得ているようにも思わされる。前者は路上で生活しているような人を描いたのか、彼は景をありのままに描いていながら、どこか現実から突き放したよう冷ややかな視点も感じるのである。この句も、地下道、布団、男という三物は相異なるものでありながら、すべてが同じ「物体」であるかのような感覚を受ける。後者にも裸というものに特に無機的な印象を受ける。現世から離れたようなことを詠んでいるようでして、生活感に基づいているような、ことばに表しがたい良さはある。個人的にも前者は特に好きな句である。
 
全体的に見ても、そこには現代を達観しているような視点が存在するように思う。「介護七句」に関しても、実体験の写生でありながら、どこか客観視しているような、現代人のあさましさをどこかで伺わせたいような、そんな感慨を受けた。あくまで私個人の鑑賞ではあるから作者自身の意思とは異なるかも知れないが、お許しいただきたい。


・田中亜美論……山口萌人

   抽象となるまでパセリ刻みけり

パセリをどんどん刻んでゆく。それは至って単純な行為にも関わらず、それが「抽象となる」ところまで刻むという比喩からは、その行為にもっと深遠な意味を見いだせるような気がしてくる。もっと深遠な意思が働いているような、もっと哲学的な何かがある気がしてくる。
しかし、この句はそういった内面的なものだけを描こうとしているのではなかろう。実景としてもそのパセリが刻まれた様子がありありと浮かぶし、季感も句に色彩を加えていることは明白だ。
田中氏の句には、比喩が多い。それも、独創的な比喩だ。だからと言ってそれが難解であったり、リアルを捻じ曲げる比喩であったりはしない。その表現法について、ここでは見ていこうと思う。

一  はつなつの櫂と思ひし腕かな(「腕」に「かひな」とルビ)
   地下水のようなかなしみリラ満ちぬ
   アルコール・ランプ白鳥貫けり

一句目、川か湖か、腕を水中に差し込んだ時の景。その腕を櫂と思わせるのは、腕のモノとしての形状はもちろんのこと、夏の水が体に触れた時の心地よさを櫂の木の質感に添わせているためだろう。二句目。『古今六帖』、

   心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる

を思った。右の歌の「下行く水」とは、当然恋慕の情。それを背景に掲句を読むと、「かなしみ」がどのようなものか分かるだろう。それに地下水の流れる地下空間の暗澹とした有様や、リラの香りも「春愁」の心持ちをかもし出している。三句目、あの液体に浸かった「紐」のようなものを「白鳥」にたとえたか。とすると白鳥が水(アルコール)中に首を突っ込んでいるということになろうが、それも本当の白鳥を思えば優雅。アルコール・ランプの重いガラスの質感も、白鳥の落ち着いた物腰に合っている。

以上を見ていると、一見分かりにくいように思える比喩が必ずしも説明のつかないただのドグマではないとわかる。一句目なら形状、二句目なら空気感、三句目も形状からの比喩だが、比喩によって共通する特徴を発見するという面白さ以上に、これらの句では身体部分・感情・物のイデアのようなものを描こうとしているのではないか、と僕は思う。その手段として、比喩を選んだにすぎないと。

比喩表現を作る時に、それが読み手に理解されるか、というのは重要であろう。とすると、まずはその形(空気感の形、というと不思議だが)を捉えることが必要だ。その際に、僕らは物を抽象化(イメージ化)して再度捉えなおすのではないだろうか。その具体的な捉え直しの時にどんなイメージを切り取ってきたか、そしてそれを支援している季語の本意は何か。そしてそこから何を吐露したいのか。そこが比喩俳句の独自性を判断する基準であり、掲句はそれが成功しているように思う。

二  原子心母ユニットバスで血を流す
   Norwegian Wood 白夜の監視カメラ

比喩とは関係ないが、固有名詞の特徴的だった句を二つ。一句目。「Atom Heart Mother, Pink Floyd(1970)」との前書がある。当然「原子心母」はPink Floydの造語、原子力電池で動く心臓ペースメーカーからの着想と聞く。掲句ではそれが血を流しているという。掲句は楽曲との取り合わせというよりは、サイケデリックなPink Floydのイメージとの取り合わせともいえる、映画『サイコ』のような世界が面白い。二句目、言わずもがな、Beatlesの楽曲『ノルウェイの森(直訳なら『ノルウェイの家具』)』である。ノルウェイと白夜の近さは感じるものの、無機物との取り合わせに白夜独特の静謐さを感じた。

これらの句群は固有名詞の字数が多い分、内容も曲や背景を下敷きにしている句であった。しかしそれが曲のイメージの流用にとどまることなく、全く違った世界を見せることで詩として成り立っているのは、取り合わせ式の句の作りだからなのだろう。(音楽的趣味もあるけれど)魅かれる句であった。

一、二を通して有季・無季の句を両方読んできたのだが、氏の作品には(小論で指摘されているような)「フレーズ+季語」という形や「名詞+フレーズ」のように明確な切れのある作品が散見される。それは読者に違和感を抱かせるという負の面をもちながらも、ある種の緊迫感を持って迫ってくる句を形作っている。その緊迫感は、比喩によって抽象的な何かを取りだそうとする作者の姿勢にもどこか通じるようにも感じた。
そしてさらに言うならば、その切れこそが、読者を踏み留まらせて比喩の深いところまで追求させる所以のように僕は思うのである。


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2010-11-07

中学生が読む新撰21 第7回 豊里友行・五十嵐義知

高校生が読む新撰21 
第7回 豊里友行・五十嵐義知……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

豊里友行論……青木ともじ

   基地背負う牛の背朝日煙り行く

本年、私たちが松山の俳句甲子園へ行き、印象にのこったことのひとつに首里高校のことが挙げられる。彼ら(彼女ら)は句が違う、というより感性が違う。豊里氏もまたそうである。沖縄という東京の人間から見れば特別な場所に住んでいるからこそ、私たちでは詠めないような、その土地の実感のこもった句を詠めるのである。   

この句もまたそうであり、米軍基地が身近に存在しているが故の実感をこの句からは感じる。彼の句では、その句の技巧であるとか、そういったこと以前に、その沖縄ならではの実感を評価し、鑑賞したい。

 
   青蛙ニライカナイの地図をとぶ

ニライカナイの地図が存在するのか私は知らないが、こういう発想は面白い。現実世界と想像上の楽土がどこかで繋がっているかのように思わせられる。ニライカナイとはどんなところなんだろう、そんな想像まで膨らませてくれる句である。ニライカナイという単語を詠み込むのはやはり沖縄ならではであるが、沖縄ならではの「ことば」というものが多くみられる。例えば、

   月と太陽(ティダ)のエイサー太鼓島うねる
   乱世の火蛾呼び寄せるウジルカンダ
   蛙鳴くついに阿摩和(あまわ)利(り)の岩を吐く

ティダは太陽の沖縄の方言、「照るもの」が語源という説が有力。また、ウジルカンダは沖縄のほうでしか生えていないマメ科の植物(調べたところ何やら不気味である)、阿摩和利とは沖縄の偉人らしい。我々にとっては調べねば知らぬ単語も多いが、その響きを楽しむのも魅力であろう。寧ろ読み手としては、その「ことば」を調べた上で鑑賞することで尚句の感じを理解できる。例えばウジルカンダの句。写真を載せることはできないが、紫がかった不気味な実(?)をつけるのだが、そのイメージとフレーズが良くあっていることは調べてみるとわかる。これはやはり、実感なくしては詠めないことであろう。

彼の句は沖縄的な魅力を感じるものが多いが、その句から感じる思いまでを私としては感じたい。これら百句の中でもやはり「戦争」を基調としたものが多く見られ、「基地」や「テロ」などといった言葉がたくさん散りばめられている。だが、彼が戦争を詠むのと、我々が戦争を詠むのとではそもそも視点がちがうのであろう。近年、アメリカ軍基地の問題も公になってきているが、それを身近にしているが故の思いはあるのではないか。
   
   どれも十字架十・十忌の蜻蛉
   死者も僕らも甘蔗穂波のマラソン

これらからはその思いがひしひしと伝わってくるような気がする。どのような思いかと問われても私には慮るに重過ぎることであろうから追究しないが、察せられるだけでもその魅力に触れたような心地はする。もっとも、中には率直すぎると思えるようなものもあるのは事実である。だが、それがある意味彼の本音なのだろう。一言で言い換えるならば、敢えて独特の言い回しによって描かれることによって、より現実的な世界観を彼の句からは感じることができるのであろう。

今回は句を重く捉えすぎているかもしれない。実際もっと素直に鑑賞するべきだったかもしれない。だが、鑑賞する側の一つの深読みとして今回は許していただきたい。

五十嵐義知論……山口萌人

   雪解けにゆがむ盥を洗いけり

実を言うと、盥を日常生活で使ったことがない。何かの拍子に見た記憶があるだけである。しかし、そんな自分にもこの句の実景はまざまざと想像できる。使い古された金盥だろうか。どこかにぶつけた跡や凹みもあるだろう。それを雪解け水で洗うという行為には、只の生活用品を洗うということ以上の意味があると思う。雪国の春を確証する儀礼的な行為として、さらに何世代も前から続いてきた一つの営みとして。

やや拡大解釈気味かもしれないが、この平易な読みぶりの句からここまで読みを広げることが可能なのは何故かを考えつつ、この百句を読んでいきたいと思う。



一 棒杙のあたりに凍つる流れあり
  滝壺に届かざるまま凍りけり
  次々と初東雲の水車

水は、流転するものである。川から海へ、海から雲へ、雲から雨へ。絶えず留まることを知らず、たとえ廻り廻って同じ川を下ることがあっても、それは同じものではない。

そう考えると、川や滝が凍って流れを止めているという現象は、何だかとても不思議なことに思えてくる。

ここに挙げた三句のうち前二つは、その「凍る水」を描いたものである。一句目は、雪原に立てられた棒を描き、その下の微かな流れ(「凍つる」とは言うものの、底には依然として水があるのだろう)に思いを馳せる。しかし、そこには景の立ち上がりはあっても、発見が主眼になっている。

それに比べて二句目では、すっかり凍ってしまった滝を見て、それを「届かざる」という否定をもって描く。その読みぶりから、作者がこの凍滝に対して純粋な驚きと同時に微かな違和感を抱いているのではないか、と思わされる。それが「ざる」という言葉遣いに表されているのではないか。

しかし、その違和感を、作者は嫌なものとしては捉えていないのだろう。むしろ、その時が制止したような感覚を言外に匂わせ、一句の世界に上手く取り込んでいるのだ。

その「時」への感覚が最も顕著なのは、三句目である。水車の水も明け方の雲も次々に移り行く。それを作者は一つの映像として観測しているかのようである。


二 大根の乾ききらざる軒端かな
  打水の水とどまりて流れけり

どちらの句も、古典的といえば古典的だ。素材も古くからあるものだし、季語そのものを対象に描いている。そのため言葉も平易で分かりやすい一方、もしかしたら類想もあるかもしれない、とも思ってしまう。

しかし類想云々以前に、これらの句は五十嵐氏の季語との付き合い方を、分かりやすい形で代表していると思うのだ。いずれの句も「大根」「打水」という季語を修飾したり、それを人間の手で捏ね繰り回したりせず、自然の流れに任せてそのまま描いている。そして句そのものは感情や主観に流れるというよりは、その現象をじっと見ているといった様子である。

つまり、彼の句は(もしかしたら彼は)、自然に対して抗ったりエキセントリックなことを考えたりするのではなく、あくまでもあるがままを観察し、受動的なのではないか。無理に大根を乾かしたりせず、また打水にさらに打水を掛けて無理矢理に流してしまったりしないのではないか。

それは伝統的農村における、己を取り巻く自然に対する姿勢にも似ている。そしてこの姿勢こそが、五十嵐氏の句にある種の土着性を見出す要因なのだと思う。


ここで最初の〈雪解け〉の句に戻ってみる。

「雪解け水で盥を洗う行為」が何代にもわたり生活の一部として存在しているようにさえ思う、と先程(些か強引に)読んだが、これは「雪解け」という水に対する思い入れの殊更に強い季語が、一章で触れた「時の流れ」をより強く意識させているということ、そして平易な読みぶりが、作者の季節や時の移ろいに身を任せて暮らしている姿をどことなく感じさせることから、このような解釈ができるということだったのだ。

言葉の平易さは、多くを語らない代わりに読者に大部分の想像をゆだねる。そういったときに、どこまでも深く掘り下げていくことの大切さを考えさせられた百句であった。





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2010-08-29

中学生が読む新撰21 第5回 九堂夜想・中村安伸

高校生が読む新撰21 
第5回 九堂夜想・中村安伸……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

九堂夜想論……山口萌人

   古る街へサフランライスさらさらす

九堂夜想氏の句を一読して、まず表記としてカタカナと難読漢字がとにかく多く、難解であるという印象を受けた。「安井浩司風」、と評されることもあるようだが、僕には安井浩司よりも難解である。同書の合評座談会では誰も句を完全に解剖することができず、気迫のようなものだけが場に残されたのも印象深い。

上句はそういった中では景が見えやすい。少しくたびれた東京の市街を思った。窓辺の席に座って本格カレーかパエリアか何かを食べているのか。ライスのぱさぱさした感じが、無機的な街の悲哀をどことなく感じさせている。オノマトペが下五に置かれていることで、なぜか街までもさらさら崩れそうな気がしてしまう。

言葉同士が意味上の関連をもたずに一七音に詰め込まれたときの、新たなイメージの繋がり。言葉と言葉の衝突の連続する百句を、これから見ていこうと思う。




 土器や魚の裸体を黄昏れて (「土器」に「かわらけ」とルビ)
 日を離ればなれの鳥や石室や (「石室」に「いわむろ」とルビ)

一句目、土器に描かれた魚を思うというよりは、それが使われていた時に盛られたであろう魚を思いたい。二句目、石舞台のような石室。それに向かって「日を離れ」て鳥が飛来する。言葉にしてみると、景色そのものは単純で、素材の形容をしていないのにも関わらず、読み手が読み手なりに実景を想像できる。

しかし、恐らくその景には人の姿は見てとれないだろう(見ている人間の視点さえも)。こう感じるのは主観が句に介在しないからではないか。土器が「茶色い」のか「固い」のか、石室が「大きい」のか「重そう」なのか。掲句にはそういった描写がなされていない。それは必要ないから描写しないのだ。

つまり、これらの句群においては人間固有の言語や思想や感覚などというものはあまり重要でないし、特定の景を確定する必要もないということだろう。

しかし、確定されなくても、掲句からはどこか静謐な、それでいて強い力を感じる。それは素材の選び方に起因するのだと思う。土器や石室、それらは遥か昔の人間の生産物である。そこから感じられる時間の流れや悠久さというものは、誰がどう読もうとも(そしてどんな景を思おうとも)揺らぐことはないのだ。

結局、技法や描き方・景色の形容以前に、作者は言葉が持っているイメージを満遍なく取り入れ、それを押し出しているということではなかろうか。


 九九を唱え止まず常夜の六六魚
 起上り小法師ふしぶし朧朧し

言葉遊びと言ってしまえばそこまでなのかもしれないが、果たして本当に字面の面白さだけを追求した句だと言えるだろうか。

九九と鯉、起上り小法師と朧。それらを一つの空間に置くことで、ただ鯉を描いたときの「泳ぎ方の様子や色を描く」ことや、ただ起上り小法師を描いたときの「形や動きからの連想」を描くこと、そういった類型を脱し、素材の新たな一面を感じ取ることができるのだと思う。これは冒頭の〈古る町へ〉にも言えることではなかろうか。「さらさら」がなければ「古る街」に対して冒頭に述べたような鑑賞はできまい。

ここでも前章で述べた「言葉の持つ本来のイメージ」が重要なのだ。一つ一つの語感やイメージが呼応していることによって、今度はその「イメージ」を曲げようとしているのだと感じた。

九堂氏の句の主となる描き方は、一七文字に(文脈上の)関連性のないものを押しこみ、さらにはそれらの形容を限りなく削ぎ落として並べる方法である。そのモノとモノとの単純なぶつかり合いから、それぞれの素材がどういった側面を見せるのかというところに主眼を置いて読んでみた。

本来、伝統系の俳句において、句の言葉やイメージに色を加えるものは季語であった。しかし、九堂氏は季語を離れて作句していることが少なくない。そのときに季語の代わりに句に色彩を与えるのが、このような「言葉本来のイメージの重視」という形となったのだろう。「季語のイメージに甘んじて決まった類想に陥ってしまうこと」を「有季定型の限界」とするならば、九堂氏はそれを脱却しようとしているのではないだろうか。

それぞれの素材の持つ言葉と言葉が関係性を失って、そしてその結果生まれた新たな側面、それを楽しむという読み方が適切なのだろうか。まだまだ考える余地はありそうである。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ルビも同書に従った。


中村安伸論……青木ともじ

   とつくにのひとのあくびとなるなだれ

彼の句を見ていて思うことのひとつにはその比喩の多さがある。この句は百句のはじめの句であるが、すべてひらがなというインパクトがまず良い。二物の間の感覚的なつながりだけで作っているように思えて私としては思わず頷いてしまう魅力がある。しかし偏に感覚的とも言い切れないようである。例えば、

   殺さないでください夜どおし桜散る

青山茂根氏の「中村安伸小論」には

…満開の桜の木に雪姫という美女が素足で縛られ、降りしきる花びらを足で集める、これは『祇園祭礼信仰記』四段目「金閣寺」の一場面。古典芸能に造詣が深い作者を思えば、まずこの舞台への連想がはたらく…

とあるから、彼の句にはなにかしらの背景があるのかもしれない。私は知識が浅い故になんともいえないのだが、その背景があるゆえの魅力はあるのだろう。しかし、私は背景がわからずともその句からある種の世界観を感じるのである。それは中村氏の表現力であり、彼の考えのなかにある景色に対する実に忠実な写生の賜物なのであろう。それ故、その世界は背景にある世界をもとにしていながらそれはもとの世界ではなく、彼のもつ世界観を全面に表しているのである。

   馬は夏野を十五ページも走ったか
   炎しずかに葡萄畑を風にする
   雪の日の浅草はお菓子のつもり

などは前半において好きだったものである。一句目、夏野の草が風に靡いている様子をページを繰る様子にたとえたのであろう。風の音まで聞こえてきそうな句である。二句目、全体的にやわらかな感じがあってなんともお洒落な句ではないか。この句は特に好きである。三句目、私は人形焼の五重塔などを思った。読者それぞれに色色な想像をさせてくれる句である。

具体的な句の話になってしまったので話をもどす。彼の句はとても感覚的な印象を受けるものの、それは共感できないものではない。感覚と実感を結ぶものは比喩の面白さであったり音韻上の面白さであったりするが、それを彼は上手く使っている。読者が実感できなくなる一線とつまらないと感じる一線の間の微妙な加減を使い分けているのでおもわず笑ってしまうような愉快さもあるし、どこかで感じたことのあるような実感を思うこともあるのである。

 
   少女みな写真のなかへ夕桜

彼の百句の後半には比較的実景の見える句が多い。この句も比喩のようでして景は見えてくる。夕桜を持ってきたことで人影の薄くなる感じを受ける。それを写真の中へ、と表現したのはとても上手い。

   夏草を科学忍者は軽く踏み
   冬ぬくしバターは紙に包まれて

なかにはこれらのような写生句もある。一句目、科学忍者というものが斬新であるし、それが夏草を踏むのが軽いというのは実感がある。もっとも私は科学忍者が何かは知らないのだが…。二句目、喫茶店などでトーストを頼んだときなどに出されるバターを思った。冬の日に喫茶店で温まっている気分をバターを通して描いたところが良い。百句のなかでも特に好きな句の一つである。

全体的に彼の句ではその比喩の魅力が引きたっている。繰り返しになるが、そこには面白さがあり、思わず笑ってしまう。また、彼の句にあるのは、言葉だけでの斬新さではなく発想の斬新さなのである。実際、前半に挙げた句も意味深な言葉は一つも無い。それが読者を引き込むことのできる所以であり、中村氏の発想の斬新さを裏づけする理由でもあるのである。





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2010-07-04

中学生が読む新撰21 第4回 矢野玲奈・相子智恵

高校生が読む新撰21 
第4回 矢野玲奈・相子智恵……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載

矢野玲奈論……青木ともじ

   箱庭に天動説を思ひけり
 
最近の俳句を見ていると天動説、地動説というスケールの大きな俳句はしばしば見かけるが、その多くはスケールだけで共感性はほとんど無い。しかしこの句ではそうではないと思う。箱庭というものをひとつの惑星に仕立てて、作者はいわば神の視点から箱庭を見ているのである。そういうところから天動説のつけ方は理解できるであろう。また、多く、このような句は季語もイメージでつけがちであるが、この場合の箱庭は季語の本意を生かせているのように思う。主に箱庭では、現実の世界の庭(あるいはモノ)と虚の世界ともいえる箱庭の対比という感じで読まれることが多いが、この場合、スケールを大きくしたことで句の類想感も防げているようにも思う。ある意味この句は箱庭を使ったことで世界が統一されているのだろう。それでもこういう句に対する好みは分かれるところかもしれないが、私にとってはなかなか好きな句であった。

矢野氏の句の多くには新しい言葉、斬新な言葉をつかったものが多くある。新撰21を読むなかで多い趣向ではあるが、それぞれに特徴があり皆どこか違うところがおもしろい。彼女の句の中からふたつこういった句を見てみる。


  フィボナッチ指数のごとく蝌蚪生まる
  降る雪や繰り返し聴くジムノペティ

先程書いたとおりこういった句はどうがんばっても好き嫌いは出てしまう。大きな問題は共感性と、固有名詞がどこまでその固有さを生かされているかである。前者はフィボナッチ数列1、1、2、3、5、8・・・という不規則のようで規則のある増え方がどことなくおたまじゃくしらしさを出しているように思う。後者もジムノペティの題名である「悩めるごとく」、「悲しげに」、「厳かに」を作者の心の中で繰り返していく感覚、それを降っては消えていくような雪に託したのだろう。彼女の句は固有名詞の魅力を全面には出さず、あくまで句の世界の材料のひとつとして利用しているがゆえにそれが自然に溶け込んでいるのである。それでして、固有名詞のもつ魅力も出ているのが彼女の句の良いところではないか。特に後者は、固有名詞が生かせている。一方、平易な言葉のみを用いた句に関しては、その観察力が長じていると思う。たとえば

  台詞無き村人Bの息白し
  クリスマスツリーばかりの街にゐる

前者は息の白い人が主役ではなくエキストラ、それも村人Bというのがリアリティーがあり、また不思議な魅力がある。古い劇場のようなところを想起させられるだろう。後者もまた、現代の町並みらしい景である。たしかにいまどきは正月になれば門松が、三月になれば雛が、五月になればこいのぼりが街を埋め尽くす。クリスマスもまた然りである。現代人にとって当然なこととなってしまっているが、あらためて言ったことに魅力がある。
 
彼女の観察力は繊細さ、ではない。そういう意味とは違った、逆にもっと大きな視点をもって、良い意味で抽象的な視点をもっていて、それは前半で述べたような句においても同じようなことが言える。「矢野玲奈小論」において「大らかさ」という表現が使われているが、その大らかさはけっして大雑把とは違う、広い意味で繊細な視点を持っている。大きな視点をもってして繊細である、それが句を読んだときに不思議な気持ちになる、それが彼女の句の魅力につながっているのである。



相子智恵論……山口萌人

   押して抜く浮輪の空気最後は踏み

相子智恵氏の百句の中には、実にさまざまな物が描かれている。ある時は完全に客観的に、またある時は一人称的な体験に訴えかけてくるようにと、その手法もまた、さまざまである。掲句は、実体験に題材をとったものであろう。海水浴やプールで誰しもがしたことのある景の筈だ。「最後は踏み」という下六がいかにもゆっくりと浮輪の空気が抜けていく感じに合っているように思われる。鋭い観察の光る句である。

今回は、掲句のような等身大の生活に対する観察眼の光る百句を、昨年、氏が受賞された角川俳句大賞の五十句を混ぜつつ、見てゆこうと思う。


  ひも三度引けば灯消ゆる梅雨入りかな
  冷やかや携帯電話耳照らす
  冬晴や鳩サブレー鳩左向き 
(萵苣)

一句目、バチンバチンと紐を引く度に蛍光灯の明るさが変わっていくという、日常的な就寝の風景。二句目、本当は年中、携帯電話のライトは耳を照らしている筈なのだが、秋になっていよいよ日が短くなると、一層その仄暗い光が冷えを感じさせるという感覚。確かに言われてみて、季語が動かないように思える。三句目、確かにその通りである。冬の季感もクッキーと合っている。

三句とも、実感という意味では誰もが納得して読むことができると思う。日ごろ必ず見掛けている筈の風景なのだが、それを改めて言語化したことによる再認識(一種の意外性)と、季語との絶妙な距離感こそが、これらを佳句たらしめている。冒頭句も然りである。思わず、声を上げたくなるような実感がある。



  大粒の葡萄剝きをり王妃死す
  一撫でに毛皮冷たし夜に入る 
(萵苣)
  
どちらの句も、上五中七で纏まったフレーズを形成し、一旦切れてから下五に全く別の(且つ季語以外の)フレーズがぶつけられている。俳句ではよくある「構文」のようなものだが、多くは下五に季語を置いて、いわゆる「二物衝撃」の形をとるものが多い。しかし相子氏の句には季語でないものが下五に来ることがあるのだ。それによって一句目は葡萄の高級感が、二句目は夜に向かう沈静した作者の心情を醸し出しているのではないだろうか。一方で、十二文字と五文字がそれぞれで完結してしまっている分、この言葉上のデペイズマン的手法が(前項に挙げたものに比べると)実感を弱めてしまうことにもなっているかもしれない。

三 
  熱狂は対岸にあり揚花火
  茫茫と海月重なる桶の中
  遠火事や玻璃にひとすぢ鳥の糞
 
自分と離れたところで盛り上がっている人の群れ。自分が見ていようがいまいが、浮き沈みを繰り返す海月。鳥の糞が視界に入って初めて、ガラスに隔てられて遠くの物になってしまった火事。この三句には対象と視点の間に不思議な距離をとっている。近くに感じているのだけれど、絶対に触れない距離。それは事物をより客観的に描こうとする姿勢の果てにあるものか、それとも外界に対する心的距離感か。その真偽はともあれ、これらの句が氏の百句の叙景の側面を強めていることは確かである。

以上、数パターンに分類して相子氏の句を鑑賞してきたが、どの句においても叙情より叙景、主観より客観を主体としているように感じた。内容については、はじめはテーマも多岐にわたり、一見統一されていないようにも思えた。しかし、描く世界はさまざまでも、その描き方にぶれが無いのである。その地に足のついた句柄が、百句に安定感を持たせているように思う。

(注)句において、無記載は邑書林『新撰21』、(萵苣)は第五十五回角川俳句賞受賞作品『萵苣』より引用した。





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2010-04-18

中学生が読む新撰21 第3回 髙柳克弘・村上鞆彦

高校生が読む新撰21 
第3回 髙柳克弘・村上鞆彦……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
髙柳克弘論……山口萌人

ことごとく未踏なりけり冬の星

句全体に流れる独特の空気感、大胆な表現。高柳克弘氏の句には不思議な魅力がある。

掲句は第一句集「未踏」収録。実景としては冬の星空に星が瞬いているということなのだが、それを見て「未踏」である、と言ったことには驚いた。

そんな独自の感性を持つ氏の句を、今回は見ていこうかと思う。


  うみどりのみなましろなる帰省かな
  枯るる中ことりと積木完成す

一句目、夏らしい開放感のある句。「うみどり」の白さ、それは少年の時の自分には当然であったこと。その再認識は、帰省の夏ならではの気分であろう。二句目、積木を積む音には、どこか冬に向かう空気の乾いた音がある。それは葉の落ちるような音も思われるし、木の質感も想起される。

高柳氏の作品の特徴として、たとえば積み木を描く時、遊ぶ人や行為を主体に描くのではなく、その「物体」としての質感を主体に描いているということである。それによって、句の世界に統一された印象が生まれるように思う。

このように、彼の句にはそれぞれの要素におけるベクトルが合致した、丁寧なつくりの句が少なからずある。例えば、

  秋の暮歯車無数にてしづか
  数へ日や水槽の灯の届く床

といった実景の見える句では、嘘のない言葉が光っている。そして、そこには作者や中の人物の息遣いが感じられない独特の空間がある。


  六月の造花の雄しべ雌しべかな
  呼ぶこゑの届かぬ子ゐる春野かな

一句目、プラスチックで出来た雄しべ雌しべに、ザラザラした布で出来た花弁が付けられている造花が容易に想像できる。六月あたりから咲く花のどぎつい色は、造花にも通じるところがあるだろう。二句目、夢中になって遊ぶ小さな子どもは、親の言うことも聞かずにどんどん先に行ってしまう。そんな野遊びのような景が立ち上がる。

ここで考えたいのがそこから読みとれる内容である。どちらも、「人造物における屈折感」「元気な子供」といった分かりやすいテーマを描いている。これは読み手にとっては大変読みやすい。裏を返せば、やや安易に解りすぎてしまう、ともいえる。


  つまみたる夏蝶トランプの厚さ
  籠抜けて花喰ふ鳥となりにけり

第一部で取り上げたものとは異なる、景が確定されないものを取り上げた。

一句目、捉え方からして、この蝶は死んでいるのだろう。トランプは絵札、蝶はアゲハのような模様の派手なものを思いたい。どこか妖艶な「物質」として描いている(これは先程も言ったように、彼がモノを捉えるときの一つの視点である)。二句目、「花喰ふ鳥」は今本当に食らっているのではないだろうが、籠を抜けた鳥が自由ゆえの美しさを持った、ということだろう。季節こそ違うが、「野ざらし紀行(芭蕉)」の
馬上の吟

 道のべの木槿は馬に食はれけり   芭蕉

も思われる。

どちらも(芭蕉の句と違って)、「いつ、どこで」といった設定がなされていないのにもかかわらず、自分が体験するようなリアリティがある。感覚的な表現をしながらも、しっかりとした映像を持って読者の心に訴えるのだ。このような句において、景は読み手に任される。
 
高柳氏の句に目を通していて思ったことがある。そこに描かれるものは、概してどこか哀しみを孕んでいるように感じられるということだ。そして、それを彼は拒むでもなく救うでもなく、淡々と描いている。この描き方によって、句の世界が読み手が足をつけている世界とは全く別世界で進行しているような錯覚に陥るのである。その隔たりこそが彼の句のもつ魅力ではなかろうか。冒頭に挙げた「未踏」の句を見れば納得できる。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ただし、「野ざらし紀行」引用は角川書店「野ざらし紀行講釈」を参考にした。


村上鞆彦論……青木ともじ

投げ出して足遠くある暮春かな

これは実に実感のある句である。きっと作者は暮春の野にいるのだろう。あるいは縁側なのかもしれないが、そのときに自分の爪先であるのに手の届かないところにあるというのが暮春に適している。それをいとも平易な言葉のみを用いて詠っていることがより実感を持つ所以であろう。

村上氏の句を読んでいて気づくことは前述の通り、平易な言葉のみを使っている点である。これといって着飾った言葉やいやらしい言葉を使わずに俳句の世界を表現している。それによって極端に良い句悪い句の少ない安定した作品になっているのではないだろうか。それをこれから見ていくこととしよう。



 うしろより手が出て恋の歌かるた
 剥製にガラスの眼しぐれけり

これらを含め、彼の句はひとつの実景としてよくわかるものが多いが、その先に何が読めるかが重要となってくる。「歌かるた」の句は言わずもがな、恋を奪われた、といった感じであろうが、それを直接的に言わずに実景を描くことによって表現しているところがいやらしいかんじを受けずにすんなりと受け入れられる要因だろう。「剥製」の句もガラスの眼という表現から剥製の持つ触感や冷たさが想起される。実景としても時雨が眼に映っているのかもしれない、綺麗な景である。

元来俳句というのは実景を描写するものであると思うが、彼の句もそれに従っている。そしてその先に読ませたいことがらが上手く表現できているのではないだろうか。それは、彼がつける季語が近すぎず、また無理をしすぎない距離感を保っているからだろう。



  落葉飛ぶ中を遅れて新聞紙
  振り消してマッチの匂ふ秋の雨

村上氏の使う言葉の平易さに付随してくるものだろうか、もうひとつ感じることは目の付け所の良さである。前者は「新聞紙」であるところに実感がある。たとえば公園のようなところが想像させられるだろう。新聞紙と落葉の質感の違いを出せているのが「遅れて」である。質量の違いといったところで理がつくかもしれないが、感覚的な違いといったところで納得できるだろう。

後者は私が最も好きな句である。マッチを「振り消」すという動作はマッチを消すには非効率的な動作であるのだが、正しくはまっすぐにもってすっと落とすようにするのが消えやすい。だが、むしろこの「振り消」す動作のほうがよく見受けられる。そのときの煙と匂いの広がる感じは実感があるだろうし、その匂いのこもる感じを支援しているのが「秋の雨」であろう。

意外性のある言葉を使わないにもかかわらず彼の句に魅力があるのは句の中における動きの魅力である。たとえば前者ならば「飛ぶ」のは新聞紙であって落葉が飛ぶとはあまり言わないだろう。そこであえて「落葉飛ぶ」とだけ言ったところで新聞紙が飛んでいる様子のほうを引き立たせているのだろう。後者ではマッチを「振り消」すという身近にある違和感に目をつけたことでひとつの確立された世界をつくっているのだろう。

また、ひとつの句のなかに時間の流れを感じさせられることがしばしばある。「マッチ」の句は特に時間の流れを意識することで魅力がうまれるのである。句の中に時間的な幅をあたえることで、人の、あるいは物の動きをより繊細に見せる働きをしているだろう。


 
  団栗の青きが握り拳の芯
  短日や梢を略す幹の影

彼の句の中には、少ないものの比喩を使ったものがいくつかあった。そのなかで目に付いたものがこれらである。前者はひとつの事柄を一気によんだところに心地よさがある。後者は「梢を略す」という表現の実感に魅力を感じるのだろう。

彼の比喩はあくまで視覚的な観察に裏づけされたところから表現されている。だからこそ、人の共感を得ないような表現になることは無い。また、比喩のようで実景であり、実景のようで比喩であるという微妙なところを詠んでいるので、それが、強いインパクトを受けない原因ともなり、はじめに述べたように句を安定させる要因ともなるのかもしれない。

幾度か述べたが村上氏の作品はとても安定したものである。どの句をとっても一定の水準の上手さがあり、これといって悪い句が目立たない。同じような詠みぶりのようでいて、それぞれに違う世界観をもっている。じっくり読むことでその深みは増してくるであろう。反面、強く印象に残る句は多くはないのだが、百句を通して読んでみることで質素な魅力を作品のところどころに多々感じるのである。そして、深く読んでいくことでその魅力も次第に大きくなっていくのではないだろうか。

※編集部注 この原稿を執筆している山口萌人氏と青木ともじ氏はこの四月をもって高校に進学したため、今回からタイトルを「中学生が読む新撰21」から「高校生が読む新撰21」に改めさせてもらいました。




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2010-03-14

中学生が読む新撰21 第2回 佐藤文香・神野紗希

中学生が読む新撰21 
第2回 佐藤文香・神野紗希……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
佐藤文香論……山口萌人

少女みな紺の水着を絞りけり

佐藤文香氏は、先月特集した山口優夢氏・谷雄介氏と同じ年の生まれである。僕自身は「海藻標本」出版の際にすでにその存在は知っていたので、彼女のそれ以後の句を読むのを楽しみにしていた。

まず彼女の百句は、季節に些か偏りがあることを断わっておこう。すべて数え上げてみると、

春   二三句
夏   四一句
秋   一四句
冬   一七句
新年   一句
無季   四句

となり、圧倒的に夏の句が多い。それが俳句甲子園出身者であるという彼女の経歴によるものなのか、それとも別の理由から来るのかは分からない。しかし、その多数を占める夏の句に、彼女の感性が光るものが多いように感じる。

掲句もそうである。百句に入っている上、「海藻標本」の最初の句でもある。どこか西洋絵画的な景の切り取り方(一つの人に注目するだけでなく、人間の集合を全体で捉える)を水着という季語で行ったのは面白い。

ここからは、新撰21に入っていなかった「海藻標本」の句も見ながら、その句に関して少し考えてみようと思う。


  霧吹の口淋しさや春の宵   
  夏の蝶自画像の目は開いてゐる

  晩夏のキネマ氏名をありつたけ流し

右三句は、彼女の句の中で、物体を描いたものである。一句目、台所などに霧吹が置かれていて、その口がどこか心許ない様子をしているのをよく表している。二句目、自画像というのは鏡に対面するなどして描くことを思うと、確かに「目は開いてゐる」はずである。夏蝶がそのようなアトリエにいるのだろうか。三句目、いかにも映画のエンドロールである。「晩夏」を感じているのだから、自宅のテレビ画面で映画を視ているのだろう、映画館ではあるまい。「ありつたけ流し」というところからもどこか夏の川を想起させてくれる。このように、ある景色を見た時に、それを(誰も言ったことのない)独自の的確な表現で構築しなおす、という描き方が彼女の句の特色である。そしてその題材は、身の回りの物(生活用品や食べ物)を中心としている。今までに挙げた句でも、水着、霧吹、キネマなど、生活に密着したものが多いようだ。一方、純粋な自然詠というものはなかなか無い。

ここで彼女の句の題材を考察すると同時に、先程あまり挙げなかった人間の描き方について考えてみよう。そもそも彼女の句の中では、人間という対象はあまり注目して描かれない。もし登場したとしてもそれは人格を持って描かれているというよりはむしろ背景の一部として非常に無機的に捉えられている。この例が

 海開その海にゐる人々よ

などである。当然その表現に主観は殆ど混じらないし、さらにその人々には動きは感じられない(そういった意味では、「少女みな」は特異な句であろう)つまり、彼女は何を描くときにも感情を込めずに、あくまで静物として表現している、ということである。この詠みぶりは「海藻標本」にも現れており、

  春の波人の近くに終はるなり     (海藻標本)

人間が背景として描かれている、と言ったことが分かって頂けると思う。
 
二 
  蜩や神戸の地図を折りたたむ
  夕刊に凍蜂の死を包みけり

一句目、残暑の中を地図を片手に歩く際のうだるような暑さは、「蜩」がよく支援している。神戸は南北に狭い土地の中にたくさんの人と坂が犇めいている街であり、季感にも合う。余談だが、この地図を持って歩いている人にとって神戸は初めて訪れる街であって欲しい。二句目、「けり」が句をしっかりと整えており、死を悼むというテーマに即している詠みぶりだと思われる。「夕」と「死」のイメージが合う。

文香氏の句は定型を崩さない。破調や耳につくような字余りは稀にしかないし、そのようなことをするのは破調にしなければ面白味が無い句に対してだけである。そのため、彼女の句にはしっかりとした安定感があり、いかにも俳句らしい後味の良さと余韻を感じる。
 

  水加減見に行つたきり敗戦日
  忘るるにつかふ一日蔦茂る

一句目は中七「見に行つたきり」と季語「敗戦日」の表現の上での繋がりを狙ったもの、二句目は考えが錯綜している様子と蔦のイメージ上の繋がりを狙ったものと思われる。しかし、これらは多少実感に欠けるところがあり、所謂「頭の中で作った句」のようだと容易に分かる。彼女自身も「サライ」二〇〇九年十月号誌上の金子兜太・小沢昭一の両氏との対談において兜太氏に「水加減」の句が理屈だと言われて、

「戦争を詠む責任はあると思うのですが、やっぱり頭の中で消化しきれていない。だから、金子先生のおっしゃる、頭で考えた句というのは100%正解です。」
「俳句鼎談」―「サライ」二〇〇九年十月号

と明言している。百句にはこういった「嘘」や「理屈」のようなものがいくつかあるが、逆に同じような描き方にもかかわらず面白く描写されている句として挙げられるのが、

  知らない町の吹雪のなかは知ってゐる

である。これは言葉も明快であり、その成功した理由は措辞に対する季語の的確さであろう(ここで少しばかり脱線すると、句が理屈にならないためには先程述べた「措辞に対する季語の選択」とその理解が重要であるといえる。特に「実感としての季語」に出会う機会が減っている現代ではなおさらである。「俳句想望俳句(「新撰21」越智友亮小論より)」とはよく言ったものである)

ここに至って思うのが、彼女の詠みぶりが(遥か上の世代からの評価で言われるところ)の「若者らしさ」を兼ね備えたものではないということである。俳句甲子園で高い評価を得た、

  夕立の一粒源氏物語    (第五回大会最優秀賞)

に始まり、すでにその句は他の俳人とは全く違う目で身の回りを観察しているようである。彼女の句はこれからも無人の空間の中を描き続けるのだろうか。そのドライな再現力が生かされ続けることを祈っている。

(注)句は邑書林「新撰21」による。ただし(海藻標本)とあるものはふらんす堂「海藻標本」、(第五回大会最優秀賞)とあるものは俳句甲子園公式ホームページによる。


神野紗希論……青木ともじ


私も今回でこの記事も二回目となり、週刊俳句にも記事を載せて頂けることとなった。うれしくもあるのだが、私は駄文であるがゆえに、逆にプレッシャーを大きく感じるものである。

さて、神野紗希氏には数度お会いしたことがあるのだが、そのうちの一度は句会にご一緒させて頂き、彼女の俳句を直接見ることができた。実に光栄なことである。そうして今このような場で彼女の句を改めてじっくりと鑑賞することができるのも良い機会であるので、力を入れることとしよう。


   三月来るナウマンゾウのように来る

私が彼女の句に出会ったのは俳句を初めて間もない中学一年生の頃である。そのときに見たのがこの句であるが、当時は俳句のはの字も知らない身の上であったので、なにやらすごい句だ、としか感じなかった。しかし、今にして思えばそこが彼女の句の魅力なのではないかと思う。何処が良いか、と問われても的確な答えは見つからないかも知れないが、それでも良い句だ、と思える。新撰21では江渡華子氏が「違和感という魅力」という表現を使っているが、これは神野氏の句の特長をよく言い表せているのではないだろうか。江渡氏の文の中には「屈折して捉えられた世界は第三者に違和感を与え、振り返らせることができる。」とあるが、私もまたその違和感に振り返らされた。この句の場合「ナウマンゾウのように」というのが眼目である。三月の来ることを「ナウマンゾウ」に例えるのは常人には考え付かない発想であり、いざ我々が作ろうと思うと抽象的すぎて共感をまったくといっていいほど得られないような句になってしまうこともある。だが彼女の句はそうではない。これといった理由は思いつかないが、彼女の比喩は独創的であっても独善的でないからなのだろう。それは私の目指すところでもあり、また、ある種の才能なのかもしれない。


   起立礼着席青葉風過ぎた

百あるうちの最初の句であるが、なんとも気分の良い句である。「起立!礼!着席!」という授業の始まりの号令の状況が目に見えるように浮かんでくる。ましてや現在学生である私となってはなおさらである。江渡氏の文にあるようにこれは神野氏が学生時代に作ったものであるが、このような題材は学生でなければ詠めないことだろう。この句の素晴らしきところは、まずは目の付け所である。授業開始(終了かもしれないが)の号令を題材としたことがこの句の大きな魅力のひとつであり、共感を呼ぶ所以であろう。もうひとつは「青葉風」をつけたことである。学生の持つ若々しさとともに号令の際の勢いのよさを一言で表している。この句は深く掘り下げればよりいっそう魅力が出てくる。しかし私としては深く鑑賞しないでおきたくもある。この句の何よりの魅力は何も考えずに一読した時に感じる新鮮さだと思うからである。「起立礼着席」という漢語の羅列がスパッとした切れを感じ、音韻上の潔さもあって良い。


  団栗にまだ傷のなき光かな
  団栗の芯まで冷えていたりけり

  団栗のみな割れている日永かな

百句の中には団栗の句が三つあったが、私はここにちょっとしたストーリー性を感じた。団栗について三句も詠むこと自体凄いが、それぞれに違った景を描きつつ、どこかで同じ世界観を築いている。この三句には団栗の一生のようなものを考えさせられる。あくまで私の鑑賞だが、初々しい温かみのある団栗からだんだん朽ちてゆき終には滅びるという流れがあるように思えた。この三句は感覚的な句であったり、繊細な写生句であったりするが、それぞれに独立的な面白さがあるのがまた良い。そして、この三句はばらばらな位置にありながら私の目に留まった。それだけ良い意味での「違和感」を持っているのだろう。こういうところでも彼女のもつ読者を「振り返らせる」力を感じるのである。



ここまで神野紗希氏らしさというものを考えてきたのだが、各句を単体として見てもやはりそこに魅力はある。それを少し見てみることとしよう。

  影よりも薄く雛を仕舞う紙
  凍星や永久に前進する玩具

雛の句は「影よりも薄く」という比喩が実に上手い。雛人形の包み紙の感じはまさにこのような感じであろう。「影よりも薄く」という比喩を具体的に述べるのはむつかしい。しかしそれが比喩として的確に表現されていることは誰が見ても明らかであろう。身近の事柄を簡潔な表現による比喩で表していて、共感性を生むと同時に新鮮さを感じるのである。

凍星の句はまずフレーズの面白さがある。私は機械仕掛けの熊の人形みたいなものを想像した。それを「永久に前進する玩具」と言い表したのは実感があるのだが、どこかで現実から離れた別の世界観を持っている。それを支援しているのは凍星であろうか、その冷たさと永久という言葉がよくあっていて、ひとつの世界に統一させている。現実的要素を非現実的要素と取り合わせることで読者の中で景の飛躍が生まれて、自然に深みを感じるのである。

五 
   カンバスの余白八月十五日

私はこれが百句の中で最も好きであるのだが、これにも根拠なき魅力を感じる。この句を生かしているのは八月十五日という季語である。理由を考えるとすると、終戦の空虚さの中にある喜びとカンバスの白い「無」の環境にある光とがどこかでつながっているところであろう。私は海へ向けてカンバスを立てているのかと思った。カンバスだからきっと油絵を描いているのだろう。そこにある余白は未完成によるものなのか、完成した絵の空白なのかはわからないが、いずれにしても油絵の持つ鈍い光と余白の持つ透き通った光、それらの間に終戦の思いというものが見て取れるのではないか。八月十五日という季語は歴史的な季語なだけに景が偏りがちなところがあるような気がする。しかし、彼女の句はカンバスというごく身近な明るい題材を使っているという新しさもあり、八月十五日という季語の持つ違った一面を見せられたように思う。


私は俳句を次の二つのタイプに分けて考えている。
〇一読したときの新鮮さを楽しむ句
〇深く鑑賞することでより深みを増す句
私個人の感覚からいっては前者のほうが断然むつかしいと思っている。俳句というのは理屈だけでは作れない所があるが、こちらはさらにセンスが必要になってくるのだと思っているのである。神野氏の句においては前者が特に目立つようである。彼女の句の中にあるフレーズの斬新さは読者の目に必ず留まるだろう。それは彼女の持つ才能と言って良い。少なくとも新撰21における百句では「違和感という魅力」を使いこなせている。また、彼女の作る句はそれだけではない。「深く鑑賞することでより深みを増す句」においても良い句が少なくはないのである。四で述べた句もそうであるが、他にも、

  天道虫死んではみ出たままの翅
  右左左右右秋の鳩  

などは写生の目が良く効いていると思う。天道虫の句は我々が一度は見たことのある情景だが、あえて句にした者も居ないだろうといったところを詠んでいるし、鳩の句も「右左左右右」というところが臨場感のある表現で面白いし、実感はあるだろう。

   黒板にDo your bestぼたん雪 

に代表するが、英語をつかう、という新しいことをやっているのは魅力的である。繰り返しになるが、彼女の俳句は全体的に新鮮さを持っている。それは読者が句をじっくり鑑賞する前の段階ですでにその魅力を感じさせるという力がある。そしてそれが見せかけの新鮮さではなく、深みのある新鮮さを持っているのは彼女の俳句の上手さなのであろう。


神野紗希氏の句は比較的古典的な句を多く見ている私にとってはとても新鮮であった。彼女の句の斬新なフレーズは私の目指す所でもあり、読者としても好むタイプの句である。私としては新しい俳句にめぐり合えたような気分になり、よい刺激となる百句であった。





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2010-02-07

中学生が読む新撰21 第一回 山口優夢・谷雄介

中学生が読む新撰21 
第一回 山口優夢・谷雄介……山口萌人・青木ともじ

開成学園俳句部月報「紫雁」より転載
山口優夢論……山口萌人

  父と来る母のふるさと暮れかぬる

僕が初めて知った山口優夢氏の句である。削ぎ落とされた無駄のない言葉、単純にもかかわらず懐の深い味わい。以後最近まで彼の纏まった作品を読む機会に恵まれなかったが、このたび『新撰21』の百句に巡り合った。これを機会に少し彼の作品と作家像について、未熟ながら考察してみる。

 

  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇

まず挙げられるべきは彼の句における措辞の適確さである。その創り出すフレーズには、一読して景が直ぐに立ち上がるような臨場感を持ったものが少なくない。ここでいう「景の立ち上がり」というのは忠実な写生句や自然詠という意味ではなく、広い意味での景、その時の心情や物に対する執着などというものまで含んだもの、と考えてほしい。それが作者一人の自己満足ではなく、読者も共感しうるものとして明確に描かれている、ということである。措辞に心理を投影している、と言ってもいい。

  金魚死になにか言はねばならぬかな
  ビルは更地に更地はビルに白日傘

右二句について例にとって考えるならば、どちらも「死と再生、そして無常観」を描いているという読み方ができる。言葉にすると非常に陳腐に感じてしまわれるかもしれないが、それをある時は金魚という哀れな生物を、ある時はいとも簡単に倒壊させられていくビルという無機物を用いて詩に昇華させているのは、彼の感性の良さはもちろんのこと、その措辞の組み立て方の巧さによるものであろう。

その巧さとは何か。それはまずその客観的な事実を見せ、それを見ている自分(金魚を死なせてなにも言えない自分、ビルを見ている白日傘の自分)を描く。そしてその自分をまたどこかで見ている自分の立場に立って述べてやる、という構造である。フェルメールが自分の絵の中に常に画家姿の自分を描いたようなものである。この自分もその一シーンの中に入り込める描き方が、読者を山口優夢の世界にいざなってくれているのであり、これが同書の佐藤郁良先生が小論でおっしゃるところの、「上質な叙情」というものの正体だと僕は考える。

ここで、彼の句にしばしば見られるもうひとつの技法、とでもいうくらいの特徴を考える。それは、景を具体的な言葉で写生するのではなく、抽象化して描くという方法である。既出の「暮れかぬる」をはじめとして、

  父と来る母のふるさと暮れかぬる
  火に触れしものは火になる敗戦日
 
てのひらもあうらもキャンプ帰りかな

どれも、具体的の描写はなされていないが面白い。一句目、父と来る、というところにどこかネジレ、良い意味での裏切りがある。季語の空気感もうまくついている。二句目、夏の夜のキャンプファイアーでも見ているのだろう。火というものを即物的に読んだが故に、「火=戦火」という連想が救われているか。三句目、「も」の面白さ。泥だらけで元気に日焼けした少年が容易に想像される。このように、述べずに述べる手法とでも言うのか、単純な言葉を使っているのに奥は深い句というものが彼には少なからずあるのだ。これについては、彼自身もそのブログ「そらはなないろ」で似たようなことを考察している。

無意識に口を洩れていく呟きに似せて、鋭いカッターでくりぬいた小窓の、その向こう側には、直接には語られなかったものの、小窓によって示唆されている広大無辺の世界が広がっている。
(俳句解体Ⅲ―季語という思想)

つまり、この作者、確信犯なのである。最低限度の言葉で述べられた秀句は、このような理念で作られているのであった。

 
  サングラスあたまひと振りして外す
 
硝子器は蛍のごとく棚を出づ
  目のふちが世界のふちや花粉症

次に、一物の物を考えてみる。一句目はよく描けているし、二、三句目はフレーズが面白い。さて、ここで仮に二物の句全般の魅力を「出会いの妙」であるとしたならば、一物の面白さは「いかに読者が納得でき、且つ目新しく描けているか」を主眼に置くのが重要ということになるのではないだろうか。すると作家の中に、とりあえず丁寧に描くという方向と、とにかく目新しくキャッチーに描くという方向と、大別して二種類の思考回路が生まれると思われる。このような観点でもう一度前記の三句を考えると、彼の中では最初の句が前者、残り二つが後者の発想で生まれたのだろう。しかし、逆にいえばその忠実さ故に一句目は季語に内包されるイメージの中にある捉え方の範疇に収まっていると思うし、他二句では季語が正直すぎるために少し順当であったり感覚的であったりして、フレーズの魅力や発見がそがれてしまっている。

一方で、

  冬眠の骨一度鳴りそれっきり  (つづきのやうに)
  たなごころよりもおほきな鏡餅 (つづきのやうに)

のようなレトリックの意外性が巧く効いている句もあるため、一概に彼の一物の句を否定することはできないとは思う。百句作品ともなると、このような句があるのは仕方のないことだと思うが、鑑賞の流れの中で、このようなものが良句の余韻の跡に持って来られていることによって違和感が生じてしまっているのもまた事実である。

 
  婚約とは二人で虹を見る約束   
 野遊びの続きのやうに結婚す
   (つづきのやうに)
  淡雪や結んで捨てるコンドーム

先程までとは全く違った句。一句目、ロマンチックである。プロポーズの言葉だろうか。二句目、五十句作品の題名にもなっている句である。後味も非常に良いし、「この間まではこんな小さな子供だったのに…」という驚きや「野遊び」から醸し出される無邪気さ。こういう結婚もあるのだろう、ここでも直接語らない技法が使われている。三句目、「性」を描くこと自体に抵抗がある場合には受け入れ難いのかもしれないが、僕などは場面設定としての淡雪(この「場面設定としての季語」という議論も彼のブログにおいて行われている)が効いているだろうと思うし、さほど抵抗はない。それは事後を描いているからなのか、自分の性格のせいかは判らないが。

このような句は、「俳句はなまの生活である。(中略)生きるといふことと同じなのである」と言った、石田波郷の論を思い起こさせるような、一人の二十代の人間としての生活がそこにはある。すべてが実体験ではないのだろうけれども、ここまで見てきたような青春性を抑えた句に比べ、等身大の彼の思いがよく出ている句である。

他にも、

  卒業や二人で運ぶ洗濯機

といった句もある。卒業というものが二人の新しいスタートという意味で近いのかもしれないが、すっきりとした嘘のなさは爽やかである。

以上、様々なタイプの山口優夢氏の句を見てきたのであるが、そのなかでも、計算してつくられたような叙情句もあればやや薄味の感覚的な句、そして青春を謳歌している若々しい句もあった。これらは並べようによってはどんな句も作ることのできる作者の魅力を引き出すことができるが、あまりにも盛りだくさんで読者によっては彼がどのような方向で詠んでいるのか(俗に言う作風というものである)分からなくなるのではないだろうか。作者像がぶれてしまうのではないか、という印象を受けた。逆にいえばどのような方向にも句を作ることができるということだから、うらやましい限りである。

これからも氏がどんな句で僕らを驚かせてくれるのか、一読者として期待するとともに、紫雁会の一後輩として句の随所から学ばせて戴く所存である。

(注1)句において、無記載は邑書林『新撰21』、(つづきのやうに)は第五十五回角川俳句賞候補作品『つづきのやうに』より引用。
(注2)山口優夢氏ブログ「そらはなないろ


谷雄介論……青木ともじ

今回から山口氏などと協力して『新撰21』の俳人を二人ずつ評することとなった。私の担当は今月は谷雄介氏ということだが、櫂未知子氏の下でも学んだことのあるという彼の句はとても気になるところである。偉そうに書いてゆくこととなるが、未熟な私であることだから誤ったことを書かないかどうか、無礼なことを書かないかどうか、書く前から不安にかられることである。

 寝た順に起きてくるなり猫柳

谷雄介氏の百句を読んだところ個人的な趣味によく合い目を引くものが多かった。この一句目は最も気に入ったもののひとつである。

私は京都や川越など、所謂軒の低い、長屋のような家の並んでいる小路を想像した。路の両側には溝があって路に沿って柳が植えられているのだろう。その長屋の住民たちの互いの親しさのようなものが「寝た順に起きてくる」ところから見えてくるような気がする。しかし、この句を鑑賞する際に別の読み方もできるのではないか。猫柳を擬人化してそれが順に起きてくる、そうも考えられる。文法的に見れば私は前者だろうかと思うが、ひとえに断定するのは難しいだろう。百句のうちの一句目に置く句として、この句はすっきりとした詠みぶりであるし、なかなかしっかりとした句であるのでよかったのではないだろうか。

彼の句を読んでいてしばしば思うこととしてまず次のようなことが挙げられる。言わんとしていることはわかりそうな気はするのだが、句の中の表現からだけではそのすべてを読み取れないということである。いくつか挙げてみよう。

 
  少年のやうな少女と冷蔵庫
  素直にはなれずバナナ越しの再会
  君に逢ふため晩夏のドアのいくつひらく

見るからに青春、といったような句が百句の中にも多く見受けられたが、いくつかは具体的な景が見えてこない。もちろん全くわからないわけではない、すっきりと定まらないというのが正しかろうか。その要因としてはやはり季語の問題があるであろう。冷蔵庫、バナナ、晩夏、そのそれぞれをつけたことを真っ向から否定する気はないが、場所設定、時間設定に終わっており、フレーズの魅力を生かしきれていないように思える。青春性を詠むにせよ何にせよ少しイメージの違う季語にすればその景がわかりやすくなるのかも知れない。もっとも、彼の詠みたい世界とは違ってしまうかも知れないために詳しい言及は避けよう。


一方でそのフレーズと季語との取り合わせ方が成功しているといえるであろう魅力的なものが数多く存在するところが彼の凄い所である。例えば、

  大プールに母の幾人入ることか
  さらさらと帰る枯野の人だかり
  夏芝居先づ暗闇を面白がる


どれも皆面白いところに目をつけている。プールの句も「母の幾人」という捉え方が新鮮かつ実感を伴っており、成功しているだろう。枯野の句も「さらさら」が上手く、夏芝居の句も「面白がる」が上手い。それがなければ当たり前のことなのであるが、どの句もその一言で句の世界を広げていて魅力的なものとしているであろう。この場合プール、枯野、夏芝居、という季語がつかず離れずの距離感を保っていて、フレーズの魅力を生かしきれているといえるのではないだろうか。集約するところ、彼はフレーズが上手いのである。写生の目がきいているとも言えるが、その実感を伴ったフレーズで読者を彼の世界観に引き込むことができている。そこに的確な季語を入れることができれば、上手い句になっている。裏を返せば、季語の選択を間違えたものは①の句のように景が定まらなくなってしまう、ある意味で彼の弱点でもあるかもしれない。よく言われる話ではあるが、難しい言葉を使わずに多くを言い得る、ということが彼の句の中ではできているだろう。また、季語のつけ方が特に上手いと思ったものもある。

 
  石仏の簡単な顔桃の花
  ががんぼの咲くやうにして死ににけり
  大いなる椿となりし椿かな

石仏の句は中国などを思った。「桃の花」が石仏の質感やしっとりとした空気感と合っているだろう。しかし「簡単な顔」という表現は個人的には推すところではない。ががんぼの句も「咲くやうにして」が、ががんぼらしさを出せている。この比喩をわからないという人もいるかもしれないが、この感覚的美しさは私の好むところである。三句目は河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」を想起させられる。この場合、碧梧桐の句ほどは景が見えないという難点はあるが、椿がなんとなくあっているように思える。彼の一物の句は全てではないが、一部のものは季語の特性を活かせている。ここでも彼の写生の目がきいているというのだろう。

 
  上空やミサイルは雌犬となりぬ
  先生の背後にきのこぐも綺麗
  ヤクルトレディーに蜜柑をぶつける未来の遊び

百句あったうちでも最後の十数句は他とは雰囲気を異にしていて私の感覚からしては衝撃を受けた。彼は「下手な人の句を選ぶと自分の句も下手になる」とまで言ったらしいが、寧ろこれらの句こそが彼らしさを表しているのではないだろうか。「上空やミサイルは雌犬となりぬ」。無季であろうか、しかし「雌犬」という斬新な比喩が不思議な魅力を持っている。「先生の背後にきのこぐも綺麗」。「綺麗」といったところが現代人の平和さが感じれられるところでもあり、またこの句の一番の魅力でもあろう。逆に「先生」を題材にしたあたりが現実的な実感を持たせるも「きのこぐも」は虚の世界にあるのだろう。そのあたりが彼の句の魅力であり、反面、句の景をわかりにくくしているところでもあるのかも知れない。しかし、そういった句の素晴らしいところは認めなければならない。それは古来の俳句の固定観念を抜け出した一例といえるだろう。「ヤクルトレディーに蜜柑をぶつける未来の遊び」。百句読んできてまさか最後にここまで衝撃的な句を見せられるとは思ってもいなかった。「未来の遊び」というこの世の人間が誰一人として知ることのできないものを詠んだところに彼らしさがある。ヤクルトレディー、きっとテレビの中なのだろうか、そこに物をぶつけることができる、まさに未来といったところであろうが、ぶつけるものが蜜柑というのがどこか滑稽さが合って面白い。この句でも景がわかりにくいという難点があるが、それはさておき、「蜜柑」という果物が日本の日本たる普遍的な生活観というか、心のようなものが見えてくるのではないだろうか。突拍子もないことを書いているように見えてその判断は確実に我々の生活の中にあるように思える。例えば「先生」「蜜柑」といった単語を使っているあたりである。だからこそ一見変な句に見えても読めば読むほど共感性があり、句の奥深さを感じるだろう。

彼の百句はある意味でのまとまりがある。違った雰囲気を持った句でも、どこか新鮮さがあるのである。それは、フレーズの新鮮さであったり、取り合わせの新鮮さであったりするが、それが良くも悪くも魅力があるということである。ここまで多くある句のうちの一部を見てきたが、端的に言って彼は俳句は上手いが、しかし、思ったこととして、フレーズの長けたものは季語で不釣合いであったり、季語のぴったり合ったものはフレーズにいまいち魅力を感じなかったりするようなところがある。だが、それは裏を返せば素晴らしいフレーズ、素晴らしい取り合わせの感覚を持っているということに他ならないのではないか。そしてそれが彼の実感に基づいているだけに読者にも感銘を与えるのである。また、彼が確実に新しいことをなそうとしていることは句の中に見えるであろう。その句の良さは深く追究するべきものではなく、句を一読みした時に感じる不思議な新鮮さを楽しめればよいだろう。あくまで私自身の主観であるが故に間違った鑑賞をしていることもあるだろうから多少の無礼はお許しいただきたい。




寸評……山口萌人

二氏の句を、それぞれ考察してみた。
 
措辞の上では山口優夢氏は簡潔さ、谷雄介氏はややごたつきがあるようであった。一方の取り合わせの意外性や目の付けどころでは、優夢氏は叙情句が優れているのに対し、雄介氏では素材の面白さ、ドキッとするようなフレーズが光っていると感じた。

例えば、同じ「台風」という季題について比較してみる。どちらがどちらの句かは一旦忘れてみる。

  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇
  台風の夜の猿山のにほひけり

先ほど言った、読みぶりの違いがよくわかると思う。

前者では措辞の面白さが光っているが、結局は薬缶である。
後者では猿山を持ってきた面白さがあるが、「にほひ」の具体性が無い。

ちなみに前者が優夢氏、後者が雄介氏の句。

どちらがより感覚に正直か、と言ったら雄介氏の句である。どちらがレトリックが面白いか、と言ったら優夢氏の方である。もちろん、このように比べることは(全くシチュエーションの違う句であるから)意味が無い、という方も居られるかと思う。しかし、これはこの句だけに言えることではない。

百句全体に目を向けてみると、先程の句に限らず次のようなことが言える。

優夢氏…客観描写が多い。「うれしい」「さびしい」などの心情を表す言葉が少ない。
雄介氏…心情語が多い。「うつくし」「大いなる」など、抽象的な(主観的な)描写がある。

こういった意味では、同じ年齢でもある両者は好対照を成していると思われる。




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