2010-12-05

【俳句総合誌を読む】『俳句界』2010年12月号を読む 五十嵐秀彦

【俳句総合誌を読む】
そろそろ色をはっきりとさせてみてはいかがかと…
『俳句界』2010年12月号を読む ……五十嵐秀彦


第一回北斗賞発表 (p44-)

俳句甲子園やそのOB・OGの活躍、芝不器男新人賞が盛り上がってきて、沈滞が当たり前になっていた俳句の世界にも新しい流れが出てきたように感じている。
そこには『新撰21』の出版のように、若い世代に注目が集まるような企画の力というものもあるのだろう。(この「週刊俳句」もそのひとつかもしれない)

今年、『俳句界』が始めた北斗賞はそんな状況の変化に対応したものと思われ、喜ばしいことである。
「喜ばしい」と簡単に言って良いのかという声も聞こえてきそうだが、新人発掘の機能を果たしている賞があまりに少ないのだから、ひとつでもそういう場が生まれることは、やはり喜ぶべきことだろう。
たとえそこに句集出版のビジネスの「鎧」がチラついていたとしても。

この賞の対象は40歳までという年齢制限があり、かつ150句という少々無理があるのではと思うほどの句数が求められている。
今回の応募は25篇とのこと。
少ないと見るか、初回としてはこんなものと見るか。

記念すべき第一回受賞者は川越歌澄さん(結社「人」所属)。
次点は2人、佳作4人。
せめて受賞作は全句読みたいところだが、応募作が150句であり、かつ、文學の森社が句集として発売することになっているため、自選10句のみ掲載されているだけなのは物足りない。

 光あれ空あれそして梨がある     川越歌澄


特集 こんなに面白い! 現代の自由律俳句 (p120-)

自由律の特集をするのは結構なことだが、このタイトルはいただけない。
「こんなに面白い!」はないでしょ。
そんなことをブツブツ呟きながら読んだ。

自由律は、私は魅力的な詩形だと思っている。
けれど、運動として広がらなかった。
その結果、とても狭い世界の中で時代に取り残されたかのようにひっそりと続いているようになってしまった。
座談会を読んでも、論考にしても、どこか回顧的な雰囲気が感じられ、碧悟桐、井泉水、放哉、山頭火らの栄光の時代の余韻の中にいまだに居続けているように見える。

マルホという薬品会社が企業メセナ活動として出版している『俳壇抄』という冊子があって、全国の結社誌、俳誌が500誌前後ダイジェストで紹介されている。
その『俳壇抄』の巻末エッセイを毎号書かせていただいているのだが、実はこの本を読むようになって、自由律の俳誌というのが今もなおいくつかあるのを知ったのである。
そこで知った「あまのがわ〈湯布院発〉」や「海紅」という自由律の結社の名を今回俳句総合誌に見ることができたのは、地味ながらけっして絶えてはいない自由律の存在に目を向ける機会になったのではないだろうか。

  裸、星降る     中原紫童



遠山陽子 「三橋敏雄の密着癖」(魅惑の俳人vol.27 三橋敏雄)(p184-)

この論考は面白かった。
少年の頃からこれぞと思った人に徹底的に密着した三橋敏雄の「遍歴」を時系列に並べて論じたもの。
十五歳の少年時代の渡邊保夫に始まり、渡邊白泉、西東三鬼、阿部青鞋、そして最後に三橋より三歳年下の高柳重信に密着した。
ここに並ぶ名前は、昭和の俳句の力強い一筋の川そのものをなしているように思えるし、三橋敏雄そのものをあらわしてもいるようだ。

それにしても三橋は相手の自宅に上がり込み、文字通り密着することで多くのことを吸収していたのは驚きだ。こういうことを今やろうとしても不可能だろう。
師がいて、先輩がいて、友がいるのに、三橋のような密着した関係を私は全く作ったことはないし、それができている人はほとんどいないと思う。
現代は三橋のような行動を許容してはくれない。
うらやましい、と思わないでもないのである。


俳句の未来人  (p212-)

今月は、大木雪香氏と松本てふこ氏である。
若手紹介コーナーなのだが、『俳句界』は今年から北斗賞を始めたのだから、この際この雑誌を若手の拠点にすることを検討してみてはどうだろう。
そういう総合誌が一誌でもあると、それはずいぶん刺激的な存在となるはずだ。
北斗賞を始めたということは、そういうことだったのかと、私たちを驚かせてほしいのだけれど。
いくつもの企画をばら撒いているような誌面作りはそろそろ見直して、色をはっきりさせてみることが『俳句界』を独自の総合誌にするのではないだろうか。
(それじゃぁ商売にならない? やりようだと思うけど)

 山からも谷からも音消え銀河    大木雪香

 秋の蚊の粉のやうなる骸かな    松本てふこ


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