2011-02-06

【俳句総合誌を読む】『俳句』2011年2月号を読む 五十嵐秀彦

【俳句総合誌を読む】
外から来るもの
『俳句』2011年2月号を読む ……五十嵐秀彦


大特集「名句が生まれる瞬間~転機こそ新境地を拓く」(p47-)

いつも思うことだが、特集のタイトルというのは大事なものだ。
そこで特集の主題が大きく提示され、読者はその主題が複数の論者によってどのように展開されてゆくのかと想像するのである。
さて、その点で今月の特集タイトルを見るわけだが、主タイトルは簡潔であるのにサブタイトルがちょっと困った。
「転機こそ新境地を拓く」
このタイトルをどう解釈するのか。
転機によって新たな境地が拓かれたところから名句が生まれる―――。そして「瞬間」なのである。この「瞬間」という言葉がやっかいなことを言っているなぁ…、とか妄想を膨らませていたら、よく扉ページを見てみると少し様子が違う。
総論を別にすれば、内容は次のふたつに分けられている。
「新境地を詠んだ先人の名句」「転機こそ運命の一句を掴む」。
このふたつに分かれてそれぞれ8本の論考が並んでいる。
どうもタイトルからイメージしたものとは少し違うようである。
新境地と転機が別に語られているのであれば、サブタイトルは妙なことになるが…、とたっぷり余計なことを考えながら、ようやく読み始めた。


総論 岸本尚毅「俳句の外からくるもの」(p48-)

結論を言ってしまえば、なんだ扉ページでウロウロせずに、さっさとこれを読めばよかった、という内容である。
岸本は内側からの変化と外側からやってくる転機とがあると、前段で明快に論じてくれていて、私の前述のとまどいを整理してくれている。
だがそれも今回の特集に合わせてとりあえず整理したということで、中段に次のように述べ話題を転じてゆく。
このような分析はさておき、実作者にとって本当に重要なのは、人生の転機という形で俳句の外からやって来る種々の変化や禍福をどのようにして句のエネルギーに変えてゆくかという実践的な思考です
このあたりの運びはさすがである。

俳句は私小説だと言われますが、作品と実人生との関係は、検証不可能な仮説であると私は考えます。もちろん検証不可能だから無意味というつもりはなく、仮説自体に意味があると考えます
そして、自分の過去の作風の変化について語った上で
ただし私がそう考えるのも、過去の私について現在の私が思い描いた仮説であり、過去の自分に戻れない以上、仮説の検証は不可能なのです
と述べている。
ここには、私が文芸評論に常に期待している「主張」が見える。
実はこの指摘こそ文芸の本質に関わることであり、特に「私」文芸である俳句の世界においてもっと論じられなければならないところだ。
実人生を転機として虚実の詩をなし、ふたたび人生の真相を抉る、そこに「私」文芸の醍醐味がある。
それを岸本は次のような対句のごとき文章で表現している。

人生は俳句に影を落とします。逆に、俳句が人生に影響を与えることもあります
人生は俳句に影を落とします。逆に、俳句が人生を照射することもあります

もっとページをとって十分に論じてもらいたいところだ。
岸本はおそらく書き足らない思いであったのではなかろうか。

ほかの論考もひととおり読んだ後で、週刊俳句の197号山口優夢さんの論考を読んでみたのだが、実は優夢さんの言うとおり、齋藤愼爾が異彩を放っている以外、岸本論考に比べると物足りないエッセイが並んでしまった。
だが、つまらないと言うつもりもない。
それぞれ面白く読めたし、池田澄子の「世の中がどうであろうと」(p60-)での「恋と死」についての考えや、加藤かな文の「終のことば」での《有季の立場に立つとき、あらゆる俳句は辞世の句になりうる》との指摘などは、それぞれにさらに論を深めていったら面白かろうと感じた。

しかし、俳句総合誌の企画という常に総花的な内容とならざるを得ない(らしい)枠の中ではこれが限界なのだろう。
俳句総合誌における「評論」が、作品鑑賞文や、俳句の「お約束」論や、通り一遍の作家論ではなく、本質論としての詩論の発表の場となる日は来るのだろうか。
悲観的にならざるをえないけれども、今月の岸本尚毅の論考のように、きっかけとなる提示もあるのだから、あまり期待せずにこれからも探し続けたい。


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