2011-02-27

〔超新撰21を読む〕ドゥーグル J. リンズィー の一句 広渡敬雄

〔超新撰21を読む〕
クラゲこそ宇宙
ドゥーグル J. リンズィーの一句……広渡敬雄


星飛ぶや錨届かぬ海の底   ドゥーグル J. リンズィー

拙宅の書斎の壁に海中撮影した海洋生物(植物、動物)等の写真カレンダーがある。
次女がスキューバ・ダンビングを趣味としているため、ダンビング用品店から貰ったものだが、燦々と輝くパラオや沖縄の海は色彩感に溢れ、楽園そのもの。
常夏のサンゴ礁、熱帯魚、大海亀等々皆眩いばかりだが、何故か季節感が薄い。

しんしんと肺碧きまで海のたび   篠原鳳作

明治38年生まれで昭和11年、30歳で夭折した俳人・篠原鳳作が、俳誌「天の川」(吉岡禅寺洞)昭和9年10月号に発表した、沖縄・宮古島の宮古中学校教師時代の作品。
「高翔する魂のはばたき」を俳句の第一義として「無季俳句」を実践し、昭和10年後半、新興俳句運動で高屋窓秋とともに先駆的役割を果たした篠原の句をここで取り上げたのは、「海洋俳句」には、季語の世界を超越する何かがあるのではと感じたからだ。

掲句「星飛ぶや」は「超新撰21」のリンズィー「涅槃の浪」百句の巻頭句。
流星の飛び交う広大な夜空と、錨も届かない深海とを対比する見立ての大きさ。
さらに、海洋生物学者として深海生物研究に生涯を賭ける自分自身の矜持とそこに棲息する生物への思いが重なる。深海の生物はまだその生態すらわからないものが多く、リンズィーが生涯を賭けて探究するに値する宇宙より未知の世界。
リンズィーの研究対象は、「クラゲ」と仄聞するが、彼がその「クラゲ」こそ「宇宙」と認識していることを知れば、この句の鑑賞もおのずと感慨深いものがある。
そう巨大なクラゲの体内を流星が溢れているのかも知れない。
そしてその次には下記の句がある。

「しんかい」や涅槃の浪に呑まれけり

「しんかい」はリンズィー自身が乗り込んで初めて深度6500メートル未満迄潜った最新鋭の有人潜水船「しんかい6500」のことだが、ある意味ではリンズィー自身と読んでも良いだろう。その「しんかい」が穏やかな海面のたおやかな涅槃の浪の中を、静かに呑み込まれるように、暗黒の深海に、ある意味では死の世界に潜水していく。
しかし、その深海にも、ライトに照らされた先には生物らしきものが蠢めいている。
暗黒の深海は、「死」の世界ではなく、クラゲを始めとして確かな命が棲息している。

涅槃とは、梵語の「消滅」、仏教でいう理想の境地で絶対的な静寂の世界、季語を超えた世界でもある。だが、この句の「涅槃」を深海と解するのはやや無理があろう。
やはり穏やかな涅槃会の頃の海面と鑑賞するのが、妥当だろうか。

近海に鯛睦みゐる涅槃像   永田耕衣

とは、陸地からの距離の違いはあるものの、季節的な雰囲気は似ていると言って良いだろう。
仏教徒ではないリンズィーにとっても「涅槃」とは心魅かれる安寧な世界なのだろうか。
「涅槃の浪」百句には、カブトガニ、イソギンチャク、飛魚、くらげ(水母、オワンクラゲ、ウリクラゲ、髪水母)、海蛇、鮟鱇、マンボウ、オキアミ、闘魚、河豚、海鼠等々多様にわたり海洋生物が詠われている。
当然のことだが、クラゲが一番多い。
既に季語とされているものもあるが、季語とされていないものも多い。
それを敢えて季語に押し込むのも無意味であろう。
文字通り、Let It Beである。
上記にとどまらず今後リンズィーが詠んでゆくものを、無理に取ってつけたような四季に仕訳をしないほうがいいのかも知れない。

豪州生まれの彼は、20歳過ぎに来日するまで、四季が明確な日本と異なる気候のもとに過ごした。又、南半球である豪州は、日本とは季節が反対であり逆の季節感を生来有している。
いや、かれにとっては海洋生物は皆平等であり、たまたま季語となっている海洋生物となっていないそれとを区分するのは受け入れ難いことに違いあるまい。
彼は、リアリストであり、事実よりも真実を希求する。
人間の副産物として産まれた「もの」(含む行事、祭)ではなく、自然界に存在するものだけに絞って詠むとの信念は、永年の海洋生物学者としての経験も加わり、日に日に強まっているのかも知れない。
研究対象の「クラゲ」こそ「宇宙」と認識し、魚などと違い海流等に流されるしかない「浮遊生物」としてのクラゲに深い愛情を注ぐ。それは俳句に対する愛情と同じだ。
リンズィーの既発行句集「むつごろう」「出航」の安定した読後感、日本語への造詣の深さ、そしてその筆力には舌を巻くしかない。
ある意味では、日本人以上に日本語を自家薬籠し、正面から自然界を詠うおおらかさ。
第一句集「むつごろう」は、俳句開眼後に様々な分野を吸収せん努めた為か詠んでいる対象が広い。「むつごろう」の愛嬌ある貌を思えばおのずと彼の「俳諧味」も納得する。
一方、第二句集「出航」は、左脳は論理的な海洋生物学者、右脳は情感溢れる俳人の生き方が交差し、自在な詠みぶりに加え「海洋俳句」が中枢を占め、彼しか描けない世界を形成している。
だが、彼は海洋生物学者としてのみ、理解、評価されることを望んではいない。

見上げれば水母の影と吾子の水脈   ドゥーグル J. リンズィー

詩情に富み、妻子を愛し、俳句を愛し、海洋生物を愛する彼の好漢たる性質は「涅槃の浪」百句に存分に読み取れることを記しておきたい。



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