2011-02-20

〔超新撰21を読む〕久野雅樹の一句 山田耕司

〔超新撰21を読む〕
知の息づかい
久野雅樹の一句……山田耕司
   

コスモスの揺るる添ふこと易からず  久野 雅樹


久野雅樹の句には、擬人法が見当たらない。

そう一概に云ってしまってはうかつのそしりを受けるところであろうけれど、『超新撰21』の作品を繰り返し読むに、モノに演じさせることを避けているのであろうと感じたのであった。

バナナジュースゆっくりストローを来たる 池田澄子

モノに演じさせることそのものが句を成立させる動機の一つであろうからこそ、無季という輪郭よりも「俳句」としての立ち姿が生まれる。

五月雨をあつめて早し最上川   松尾芭蕉

対象が五月雨と最上川であることとバナナジュースであること、季語があることと無いこと、それはそれとして、「句のツボ」として、モノに演じさせていることにおいて、そこにあるのは作者の同じ傾き。

句を俳句たらしめようとする何らかのシカケ。その傾きの奥底には、世界と自己との融和があろう。つまり、擬人法とは、用いるにあたっては世界の秩序は作者の中でこそ語り出すのであって、作者と世界とのわかちがたい状態を保つことをことさら「異」としない作家の選ぶ筆でもある。

久野雅樹は、そこに「異」を感じる作家なのではないだろうか。

コスモスの揺るる 

ここで句は一回切れて深く息をする。

その世界のありようを自己の中にドラマとしてあるいは喩としてとり込むことを意識して避けている作者の姿。それは自然と人間との融和が容易ではない、などという一般的な理屈からではなく、個人として世界の現象への意味付けを躊躇する、その誠実さから生まれてくる姿に思えてならない。そうした姿勢は知性の支配。知性が「理」に倒れ込むのではなく、世界との距離として言葉に表現される現場が久野雅樹の句群にある。

上田信治の句群にも感じるこうした知の息づかいは、現在の私にとって、欠けたミネラルを補給するかのごとく読み返す作品たちの特徴でもある。


『超新撰21』・邑書林オンラインショップ

0 コメント: