2011-02-06

【週刊俳句時評 第25回】関悦史

【週刊俳句時評 第25回】
鳴戸奈菜句集『露景色』 ― アキレスと亀の間に

関悦史


『微笑』以来約10年ぶりとなる鳴戸奈菜の新句集『露景色』(昨年11月刊行)は、その表題といい、白と青紫に染め分けられただけの装幀といい、いかにも晩年意識や侘しさといったものを思わせる。

じっさいあとがきには《永田耕衣亡きあと師とも友ともした清水径子さんを亡くし、母を見送った。老いと死、そして生きるとは、という問題にまさに直面させられた》といった近況が語られてもいて、そうした心境がストレートに場面化されている《生涯を土手より眺む西日かな》《枯葦を噛みて偲びぬ親不孝》のような句も少なくはない。

しかし《明易し涙とあそぶ閑はなし》《かばかりの残菊焚くによい日和》となると老境が却ってバネとなり、心情に溺れることからははやばやと身をかわしている様が伺える。注目すべきはそしてそのドライさが単なる決意表明じみた文言に終始せず、あるいは強がりのように事態を知的に処理して迫りくるものを避けてしまうのでもなく、死の間近に寄りつつあるという意識と他界との間に不思議なずれの領域を組織し始めていることだ。

胡瓜揉みきのうはむかし遠い昔
白菊や仮睡より覚めふと笑みぬ


この辺りになると時間感覚の変容が句に忍び込み始める。「きのうはむかし遠い昔」は機械的に正確に過ぎていく日々の間に不意に広大な隔たりを忍び込ませ、「白菊や仮睡より覚め」は棺から蘇ってこの世の時間の持続に立ち戻ってきた瞬間を捉えたようで、これも無限とこの世との境目に関わっている。
 
追い抜こうとするアキレスと亀との間に無限の中間点が次々と湧いて出るように、限られた生の時間の縁のあたりに、別な次元が忍び込んでくるさまを、ごく乾燥した明快なタッチで捉え込んでいる点がこの句集の特長なのだといえるだろう。

人形を寝かせ秋の雪かも知れぬ
山笑うわれは幾つで死ぬつもり

水中花目をあけている死んだまま

竹の秋月面にひとり居るような

気の遠くなるほど月を見ておりぬ

冬ぬくし雀の骸なおも見て

青空の果ての暗黒いかのぼり

花のごと月日は流るひきがえる

夏めくや彼方より来る波の色

死に頃の食べごろのメロンです

夕顔や昼から夜の間がもたぬ

白牡丹もうすぐ散りそうまだ散らぬ

終りなきことの寂しさ天の河


冬ぬくし雀の骸なおも見て》は、悲しみが去りがたいがためにいつまでも骸を見続けているわけではない。むしろいつまでも見続ける行為が「冬ぬくし」を呼び込んでいる。《死に頃の食べごろのメロンです》は死に頃をそのまま旨味のある絶景として提示しているし、《白牡丹もうすぐ散りそうまだ散らぬ》の「もうすぐ」と「まだ散らぬ」の間にはアキレスと亀のそれに等しい無限の中間点が介入し、他界的な膨らみを「白牡丹」に与えている。《終りなきことの寂しさ天の河》はその二種の時間同士の類のない隔たりを「天の河」に見て、その隔たりとは「寂しさ」なのだと言いとめる。

花のごと月日は流るひきがえる》となると、花のごとくに流れる月日という、寿命の間際に啓示のように現われる無限に対し、その月日の流れを外側から観じているとも、その中に身をゆだねているともつかない、クラインの壺を図にした際の陥入口のような不可思議な位置にひきがえるがいる。このひきがえるの位置が鳴戸奈菜の句における語り手の基本的な位置を示しているように思われる。鳴戸奈菜の句の語り手はひきがえるの位置に固執してその死苦に同一化し嘆くわけでもなければ、花のごとくに流れる月日を外側から知的に把握し、句で図解してみせることによって、理不尽な離別の悲しみを強いる世界を想像的に支配するわけでもない。

この視点は「ひきがえる」や、あるいは《夕顔や昼から夜の間がもたぬ》における昼から夜の間の無限を貫通しているような「夕顔」、さらには《人が飛行していた頃の茱萸の花》のあり得ない記憶の領域にまたがる「茱萸の花」といった具体的なイメージに結晶するか否かに関わらず、鳴戸奈菜の句には潜在している。

春の池泳げぬ魚いるはずよ
老人も枯野も消えてストップ・ウォッチ

生きている人がたくさん初詣


これら一見外から事態を観察し、判断しているかに見える句でも「ひきがえる」に相当する視点は介在している。遠近法絵画に置ける消失点に見入り、そこから跳ね返されてきたまなざしが鑑賞者の身体を形作るような仕方でである。《老人も枯野も消えてストップ・ウォッチ》が最も鮮烈だが、これはアキレスと亀の比喩でいえばアキレスが亀に追いついてしまった瞬間を描いている。「ストップ・ウォッチ」が指示するクロノス的に正確に進行する時間の当然の帰結として老人は消え、老人の心中にして現実でもあった枯野も同時に消える。消えた瞬間、語り手は、老人と同じく有限と無限の二重性の中にいる己、「ひきがえる」の位置にいる自分を見出すのだ。そしてこの語り手の位置こそが『露景色』の句の、悲しみ、寂しさを離脱しきったわけではないにも関わらず、平塗りのポスターのような図柄の明快さを失わない独自の手触りを生み出す基盤となるものに他ならない(この視点上の特質は師の耕衣を偲んだ句を見るとはっきりする。《耕衣しのぶに枯草の祭かな》は耕衣の《枯草の大孤独居士此処に居る》を踏まえていようが、「の」で「枯草」との連続性を組織しつつ「大」と「此処に居る」で自分を中心化し、万有を自分の孤独に引きずり込むことで宇宙的湧出感を組織してしまう耕衣と、その祝祭を偲ぶにも枯草と融合はしない鳴戸奈菜句では、視点・主体の位置や句の構成原理に大きな違いがある)。

生の持続の途中に介入してくる時空の差異やずれと、それが生み出す情の動きを大づかみに寓意的に図示しているのが、例えば以下のような句たちなのだ。

枯野出て枯野に入りぬちんどん屋
冬の瀧途中がなくて泣いてしまう

白絣からだのどこか川明かり

彼岸花いつまでこの世なつかしき

瀧という水を見ながら握り飯

小指より切なきものに蝉の穴

昼の闇ひるの螢が火を点す

ガラスにはガラスの色が秋深む

お花見の手足はいつもいっしょなり

すみれ色放さぬスミレ風の中

同じ名の老女と少女春の虹

西瓜割り頭のなかはスイカがいっぱい


ずれが介入する瞬間をドラマティックに描くことには作者の関心は向いていない。かといって自然科学じみた非情に徹しているわけでもない。個に執しつつ客観に渡ろうとするときに句が取るべき倫理的態度のひとつの形、鳴戸奈菜が摑んだ形なのだろうと思う。

以前、鳴戸奈菜の50句連作「古池の秋の暮」に触れた際に、二つの中心を持つ楕円的世界という特質を持つと書いたことがあったが、その楕円性というのも前掲の「ヒキガエル」的視点から派生するヴァリエーションの一つなのだろう。

ふたりしてまぶたを閉じぬ荒花野
春や奥座敷につがいの鶴を飼い

嬰の舌美し青葉に若葉かな

白日傘ひらきて笑みて別々に
秋の暮鏡がさめざめ泣いており

春の雨昼につづいて夜となれり

恋が愛に土筆が杉菜となる頃は

男でも女でもなく時雨傘


二つが一対をなしたもの、並列されるもののモチーフでは『露景色』にはこうした句が入っている。エロスの気配が漂うものが多い。視点となる「ヒキガエル」はここでは例えば「男でも女でもない」楕円性を上から包括する「時雨傘」に変容し、あるいは「青葉・若葉」の生命力のはざまに嬲られつつ美しくなる「嬰の舌」にも変容する。一対の双数を産むものでありながら例外的に「さめざめと泣いて」いる「鏡」はおそらく今、生ある何も映しておらず、「秋の暮」の中に取り込まれてしまっている。いや、考えようによっては、この「泣く」も「秋の暮」にのみ身をゆだねた鏡の、ひとつのエロスの形なのかもしれない。エロスと衰滅に着目すると、「若い男」のモチーフが現われる。

おたまじゃくし天下国家を論じたる
少年のうしろの蛇の青光り

蜜柑みな甘くつまらぬ男たち

十八の男思いぬ帆立貝


若葉の香ときにこの世を狭くして》などという句もあることを考え合わせると、生命力旺盛なはずの若い男たちは甘いだけの蜜柑と並列されていればよい「つまらぬ男たち」であり、無限を引き入れてそれと相渉ることのない、この世を狭くするだけの存在のようだ。

穴出たる蛇瑞々しく轢かれ
朝顔のやさしき色は二階まで

青虫の青うつくしく踏み潰す

蓮の花畳の上に横たわる


若々しいものがそのままでエロスに関わるには「轢かれ」るか、「二階」に上るかして身を以て他界に渡らなければならない。
 
一方、他界を寓意するものとしてしばしば現われるのが「月」(及びそのヴァリエーションとしての外から見た地球)である。

死ぬときはきっと満月波の音
古池のうっかり呑んだ満月よ

ポケットに満月そこまで歩こうか

春満月うさぎとわたし入れ替わる

白ワイン月より地球見ておりぬ

三百年後お墓参りはお月さまへ

いつ停まる地球の自転フンコロガシ

地球はまるく洋梨の歪なる


五感を通して再現的に詠む写生の対象には「月」は全くなっていない。あくまでも「ポケットに」入ってしまうような寓意的な存在として月は描かれる。現物の月自体が考えれば現実離れした風情の寓意・象徴・記号そのもののような姿ではあるのだが、その月に見入ることで違和感を拡大し、研ぎ澄ませ現実から遊離するといった実存的な経路を鳴戸奈菜の句は取らない。没入し、混融してしまったら「ひきがえる」や「夕顔」「茱萸の花」といったものたちが持っていた内外どちらともつかない視点は失われてしまう。それは俳諧・滑稽という客観を手放す危険にも通じるからである。滑稽を離れて詩性を澄ませ、没入することで開けたところへ出る道もありはするはずだ。しかし鳴戸奈菜は己の資質において多中心の楕円性、寓意と滑稽の側に留まる。生命の不可思議を探るのもそのルートを通してなのである。

他に印象に残った句を引く。

冬うらら隣の墓が寄りかかる
蛇の舌見えるか蛇口という言葉

人を待つ銀座は昼顔湧くばかり

草抜くにキュウと鳴かれてしまいけり

コーヒーの香てんでに秋と関わりし

蝸牛踏めばどんどん雲の湧き

昼深し鳴かない亀なら捨ててやろ

八月や真っ暗なもの落ちておる

ゴム毬がニャアと鳴くまで抱き愁思

七日後にそれらしく散る牡丹かな

夕顔の顔の部分がびらびらと

旅枕空蝉ひとつころがって

黒蛇を殺めてひとつ賢くなる


以下は、「平成十九年二月母終焉 十二句」の前書きのある句より。

冬の陽が母のベッドであそびおり
石のごと寒の水のむ垂乳根や

昨日を思えばはるか蕗の薹

静物としてきさらぎの果物籠



関連記事≫ウラハイ「真剣なぺらぺら 鳴戸奈菜句集『露景色』」上田信治

3 コメント:

鳴戸奈菜 さんのコメント...

拙句集『露景色』につき、早速ご高評賜わりありがとうございました。私はむろん時間をかけて一句一句作るのですが、さて自分は俳句で何を詠もうとしているのか、詠みたいのか、という大事な問題はなおざりにしがちです。ただ有季定型を原則として、内容にしても文体にしても、ともかく自由に作ろう、文芸的に面白く作ろうという野心は持続的にあります。

このたび、「アキレスと亀」のイデアを用い、なお周到に「の間に」とフォローされての上で句集を解読していただき、なるほどなぁ、そうかそうか、と他人事のようですが、納得してしまいました。句の鍵は、有限なる時間と無限なる時間の二重性、ないしはズレとの御説、高邁過ぎて身が縮みますが、そうであればうれしいです。そういえば私は相対立する二つのものを同時に存在させて考えるのが好きなようです。客観と主観、現実と非現実、有と無などです。以前、関さんが拙句50句を評して「二つの中心を持つ楕円的世界という特質を持つ」と言われましたが、同じことかも知れませんね。

昔のことですが、第一句集『イヴ』の序の末を永田耕衣は「奈菜俳句永遠の『完・未完』」を祈り重ねると締め括られました。当時、なんのことか分からず、果ては、誉められたのか貶されたのかどっちだろう、と思う始末でした。

今は完といい未完といい一緒に存在するのだ、割り切らず一緒くたに考えるほうが真実(!)に近いと思うようになっています。

関さんが貴重な時間を費やしてお書きくださったこと、そして私が私の俳句について考える機会を与えてくださったことに心より感謝申します。

鳴戸奈菜

関悦史 さんのコメント...

鳴戸奈菜様
コメントありがとうございます。
『イヴ』は未見のままなのですが、永田耕衣が「奈菜俳句永遠の『完・未完』」を祈り重ねる」と書いていたというのは、驚きました。
多分奈菜俳句の特質・構造をいちはやく、拙文と似た方向で把握されていたのだと思います。
あと拙文ではほとんど展開できませんでしたが、口語的な俳句について考えている人にとっても鳴戸さんの句は示唆に富んだものなのではないかと思います。
   関悦史

上田信治 さんのコメント...

ちょうど、そういう視点(>口語的な俳句について考えている人)から、ウラハイに句集評書きました。乞うご高覧。