成分表42
子役
上田信治
『里』2010年2月号より転載
外国映画に出てくる子役は、みんな、なんて上手いんだろうと、思っていたのだが、それは、字幕というものが、そう見せているに過ぎないのかもしれない、と気がついた。
分からない外国語の芝居を耳で聞きながら、字幕を読む。そのとき音と意味が合成されて、頭の中でひとつの「声」になるというプロセスがあるはずなのだが、自分は無意識のうちに、その声を、イメージしうる最良の形に修正して聞いていたような気がする。
それと似たような似ていないような話で、顔はよく知っている外国人俳優の、声を思い出せない、ということがある。
日本人で顔と名前が一致して浮かぶほどの俳優は、まずその声を思い出せるし、外国人でも、たとえばダラク・オバマの声なら、すぐ耳に浮かぶ。
しかし、つい先日映画で見たビル・マーレーの声が、まるで思い出せないというのは、どうしたことか。あの俳優独特の感じに、なまなましく触れた記憶はあるにも関わらず。そのときたぶん、字幕と俳優の「感じ」が直に結びついて、具体的な音像をスキップする、というようなことが起こっている。
残雪に挽きこぼしたる木屑かな 芝不器男
これは、とても映像的な、それこそ「見える」と評するにふさわしい句で、明るさそのもののような雪も、木屑の色も、そのとおりの写真的映像を脳裏に浮かべることができる。
しかしそれらの映像は、どこか後づけ的に呼び出されたものだという気もする。自分がこの句にはっとした、正にその刹那には、映像的なものなど、何も見えていなかったのではないか。
読み慣れた漫画がアニメーションになったとき、キャラクターの声に違和感を感じる、ということもある。誰もが「こんな声ではなくて、もっと…」と思うのだが、では、どうして自分がその登場人物の「本当」の声を知っていると思えるのだろう。
さらに言えば、ドカーンとかボカーンとかいう、あの漫画の擬音というものは。
それら表象にともなって見えるものあるいは聞こえるものは、もとより感覚器官を通っておらず、それに対応する音像や視覚像が意識に結ばれているかどうかも、定かでない。そこで感受されているのは、おそらく、具体的な像を越えた「見え」や「聞こえ」のエッセンスとでも言うべきものである。
そういったものの感受は、心の、もっとも原初的な働きだという気がする。そして、その感受のエッセンスの扱いにおいて、俳句という詩形には、ささやかなアドバンテージがある。ぎりぎりの文字数で心像を言い留める努力は、原初的感受そのものの似姿を目標とするからだ。
たわむれに、漫画の擬音のひとつを、その音像を聞き止めるべく、じーっと見つめてやると、それは、わざとらしい棒読み調で「ボカーン」というのである。
春の夜の三味の空音や三味線屋 正岡子規
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