2011-03-27

花鳥諷詠の自然とは何か 橋本直

花鳥諷詠の自然とは何か 

橋本 直

初出:「LOTUS」第16号

虚子没後五〇年の昨年、虚子の思想があたかも当代の文明の抱える諸問題に一つの解決をもたらしうる思想であるかのような言説が見られた(注1)。紙幅の都合上詳細は省くが、これは以前批判したことがある稲畑汀子氏の文章と同様の主旨かと思う(注2)

しかし、文明とリアルな自然の関係について考えるとき、例を挙げればキリがないが、虚子の自然観など現実に進行する自然破壊に対して全く何の役にも立たないことは明らかである。トリニティの自然の前で涙を流す「私」(注3)の前に虚子の「花鳥諷詠」などおよそ無力だ。その現実との大きな隔たりへの自覚を抜きにして、今のうのうと花鳥諷詠の天地に没入しているとするなら、彼らは本当に自然を愛しているのかという素朴な疑義を持たざるを得ない。

古来、八百万の神々を戴く日本人は、自然を畏敬し、また自然を愛する民であるという。

〈西洋での神の役割を、日本の二〇〇〇年の歴史の中で演じてきたのは、感覚的な「自然」である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された。〉加藤周一「近代日本の文明史的位置」

ここで言う「感覚」とは、古来、季節の訪れを知らせる草木や、地震や台風などの天変地異に対して、人がそれをどう感応してきたのかが抽象されたものとしての感覚であろう。芭蕉も「造化に従ひて四時を友とす」とか「造化に順ひ造化に帰れ」と述べたことはよく知られている。このような文脈の文化芸術に、俳句が含まれることは論を待たないだろう。虚子の「花鳥諷詠」は、芭蕉と全く同じではないが、人間の力の遠く及ばない絶対的に偉大な天然自然を前提にして説かれているものだから、一見その風下に立つものであり、それによって素朴なレベルで共感される「伝統」を自称し得たという理解は、そうはずれていまい。

ところで、三省堂の『一語の辞典』シリーズで「自然」を執筆した伊東俊太郎氏によれば、日本人の自然観は、諸々の影響を受けながらも、大陸アジア史上のそれとも、ヨーロッパ史上にあったそれとも違う独特のものであるという。氏は同書で古代の歌謡から近代の小説まで例を引きつつそれを「自然と人間との『根源的紐帯』」と呼んでいる。

加藤氏や伊東氏の論に因って言うと、人間と自然との関係が神を媒介として対峙する場合においては形而上の芸術と思想的な文化が花咲き、無媒介的に「紐帯」している場合にはそれとは違うものが生まれてきたということになるわけだが、ここで問うているのは、前者とは異質な造化随順の徒が、無媒介に結びついているはずの自然を平然と破壊できる上に、なぜその賛歌さえ詠めるのか、についてである。以下その私見を述べる。

幕末以降の日本は、目の前の現実への対処から必要に迫られ、国を挙げて常にポストモダン状況であった。そのため、常に世界は仮象のまま変容したのであり、そこでは、自然破壊にも目をつぶれるし、メタレベルでの自然をあたかも真正の不易のものとして措定し得たのではないか。

これをもうすこし論理的に言うなら、日本人の自己相対化の問題でもあって、可変の対象(表象し、破壊される自然)には必ず不易の本質(人間のレベルを超えた無垢の、不易の自然)があり、同様に、可変の我(常にポストモダン状況に対応する私)には必ず不易の本質(無垢の、ほんとうの私)があって、「不易の自然」と「ほんとうの私」の間で「紐帯」し、真の世界を構成している、というのが近代日本人の自然観であったと考える。

従って、近代文学においては本当の私と本当の自然が結びついて私が救われる物語が量産されることになった。さらには可変の対象はほんとうの自然ではないという詭弁論理も成立するから、その中で自然破壊に目をつぶることが可能にもなった。それらは可変の、「ほんとうではない自然」なのであるから、自己の本性に随ってそれを障害と見なせば、いくらいじっても心は痛まない。ついでに言えばそれらは神を媒介とするもののいう「自然保護」の「自然」とは別物であることはいうまでもない。

このように考えるとき、虚子のいう花鳥諷詠の自然は、人間の内部で相対化され、おそらくは前近代より強固に仮構された不易の自然と、仮構されたほんとうの私が虚構の中で交信するシステムなのである。これは常にポストモダンであることを強いられた近代日本人の魂の救済要請に応えた優れて近代的なものであり、和歌俳諧以来の伝統の所産ではなく、所謂古典世界の無常観とも異なり、芭蕉の造化随順とも似て非なるものであろう。

地球上の生物種の存続すら危機感を持たれるに到った今日の人類の魂の救済要請に、この虚子の花鳥諷詠システムが応えることはできない。それはほんとうの自然/私ではないから、といえた時代は、もう終わったのだから。


(注1)「解釈と鑑賞」(至文堂)〇九年十一月 岩岡中正氏の論考
(注2)「鬼」(十八号)〇六年十一月 掲載の拙稿参照。
(注3)林京子「トリニティからトリニティへ」

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