2011-03-27

前略 上田信治様  澤田和弥

前略 上田信治様
 

澤田和弥


ご無沙汰しております。お元気ですか。「週刊俳句」、いつも楽しく拝見させていただいております。

ご想像のとおり、本日も夕方までかなり過激な二日酔いに悩まされておりました。ようやく落ち着き、ペットボトルのまま水をぐいぐい呑みました。日曜ですので「週刊俳句」を拝読させていただいておりましたら、ふと思ったのです。「お返事しなきゃ」と。

「はて?こいつにメッセージを送った記憶なんぞないぞ」とお思いかもしれません。だいぶ前のことです。あれはスギ花粉を今ほど憎んではいなかった昨年の10月10日、信治さんの「フェイク俳句について」です。

拙句について触れていただき、真にありがとうございました。一句一句に関する評をいただいたことはあったのですが、私の句全体を評していただいたのは初めてでした。とても嬉しかったです。

私は発表後の句については、あとはどう読んでいただこうと読者の方々の自由という小生意気なスタンスのため、評などへのレスポンスや自句自解は極力避けているのですが、今回は句ではなく、論評としてのお話ですので、お返事を書かせていただきました。

とはいえ私ごときに持論なんぞという高尚なものはございませんので、失礼を百も二百も承知で「フェイク俳句について」への違和感を記させていただきます。お返事を今頃になって記しましたのは「僕を忘れないで」という幼稚なスケベ心ではなく、ひとえに私の不徳の致すところでありますことを心よりお詫び申し上げます。

或る短歌新人賞の選考委員会における「この作者は信用できるか」という発言についてまずは触れさせていただきます。

これはどのようなやりとりのうえでの発言なのか分かりませんので、この言葉からだけで推測させていただく訳ではありますが、「嘘をつかれてはたまらない」という気持ちよりも「(作中において)この作者は信用できるか」ということのように私には思えました。事実はどうあれ、作中における作者の信用性についての発言ではないでしょうか。

例えば平凡な主婦が実体験したことのない不倫の短歌を詠んだら、それは信用できないということにはならないと思います。確かに事実ではありません。しかしそこに詠まれたものは彼女にとって純然たる真実なのではないでしょうか。

〈俳句の言葉は(中略)極端な透明性と現前性の理想の内に、今もある〉という部分については私もそう思いますが、その前段で引用なさっている絓秀実の文中には〈現前性(という虚構)〉とあります。〈(という虚構)〉を省いて、現前性のみを用いられたのはなぜでしょうか。文中の対応関係でいけば虚構=理想とすらなる配置です。私としては虚構=理想という問題提起の方が、一つの起爆剤となる可能性を秘めていて、とても魅力的ではありますが。

作中主体と作者について、安住敦の句を例に論じられておられますが、ここにも違和感があります。「てんと虫一兵われの死なざりし」を1985年生まれの谷雄介さんが作ったらフェイク、一発芸であろうとおっしゃいますが、少なくとも私にはそうは思えません。

確かに「なんで作ったの?」とは尋ねますが。谷さんが兵隊ではないという事実は風の前の塵のようなものです。それよりも彼の魂の内なる一兵が死ななかったこと、それと「てんと虫」とが呼応したこと。そこにこそ詩は生まれてくるのではないでしょうか。

事実か否かではなく、真実か否か。それを問うのが〈言葉の強度〉の問題です。

〈内容を「いちおう本当」として、それを信じられるかどうか〉というレヴェルではなく、魂の真実か否か。それだからこそ詠む理由なんぞを超越した詠まずにはいられないという衝動の萌芽があるように思います。その衝動を作品に昇華させるのが〈言葉の強度〉です。

〈作者の「正直」性への信頼〉は事実にではあく、真実にこそ向けられるべきものであります。起こらなかったことも歴史のうちです。事実とは真実の別名ではございませんし、事実と真実とが手を取り合う必要なんぞどこにもないのですから。その意味において〈俳句は、作者が「正直」であることを求めている〉というのは至極正論だと思います。

次に〈「作者」が信用できない〉という点について触れさせていただきます。信治さんは「天気さんを知る人にとっては」「澤田さんを知る人には」と書いておられます。つまり本人を知っているからこその信用性です。

しかし日々目の当たりにする俳句のどれだけの作者を我々は実際に知っているのでしょうか。その一人一人について、この意味での信用性を考えることは無理なことであると同時にその必要性を感じません。勿論、俳句は座の文学ですから、句座をともにしていれば本人を知っていて当然というご意見もございましょう。

ではなぜ俳号を用いるのでしょうか。

突飛な質問をしてしまい、すみません。句座をともにする方は多くの場合、句座しかともにしません。それ以外の時間をどう生きてらっしゃるか知りません。ご家族のことも、思想信条も存じません。そのうえ本名ではなく俳号を用いますし、句座では本名ではなく俳号で呼ぶのが約束です。

つまり実人生と句座では別の人間として、存在しているのです。生活上の不安や苦労をひとまず置いて、別人格としてたった十七音の詩に没頭する。だからこそ句座は華やぐというものです。本人を知っているとしても、その人のどの顔を知っているのでしょうか。「実人生は別として、句座での本人は知っている」としても、どの程度知っているのでしょうか。それは「本当に」知っているのでしょうか。このような不確かなものを土台として信用性を論ずることはきわめて危険なことと考えずにはいられません。

では何を土台とするか。それは俳句です。俳句を読んだときにこの人は信用できるか否か。いや、それ以上にこの俳句は信用できるか否かを考えればよいと思います。そしてその判断基準は読者それぞれが持っているものであればよいし、それこそが読者の自由、読む楽しみであります。と書いて気がついたのですが、信治さんの判断基準について私がああだこうだ言っていること自体、大きく矛盾していますね。ごめんなさい。

以上より、作者は事実なんぞに捉われず、魂の真実、文芸上の真実に対して正直か否かを問われるべきであり、それを計るのが〈言葉の強度〉であります。

判断基準は作者ではなく、言葉、つまり俳句にこそ求められるべきであり、それ以上でもそれ以下でもございません。また、真実か否かは作者本人でしか分からないことですし、本人するも分からないのが現実です。よってその判断は読者に委ねられるべきであり、作者が「こんな読み方をするな」なんぞと口出しするような話ではないということを付言させていただきます。

あと一つ。俳句と作者名をセットにして鑑賞することは、結局「第二芸術論」の問題提起に立ち返ってしまうのではないでしょうか。ちょっとした杞憂です。

ようやく気付きました。信治さんが書かれたことを大きく逸脱して、自分の喋りたいことを捲くし立ててしまいました。誠に申し訳ございません。最後に、拙句が読者の方を〈きょとん〉とさせることができていたとしたら、それは私の願うところです。

〈俳句の周辺に「俳句に似たもの」の地位を要求している〉というよりは、私は最初からその辺りをうろうろしていて、このたび信治さんからその辺りを「フェイク俳句」と名付けていただいたように思います。

「俳句に似たもの」発言にもあるように、俳句はちゃんと定義付けされないままに権威的なものになっていて、なんだか雲のような、夢のような、イデアのような、私にはよくわからないものです。その周辺で人をきょとんとさせながら屯している「俳句に似たもの」「フェイク俳句」の胡散臭さに居心地の良さを感じます。

権威が生み出すものは権力であり、権力は常に平凡と抑圧と悲劇を生むだけです。文化は常に胡散臭いもののなかから生まれ、そこには新生があり、且つそれ自体が喜劇的です。泣くよりも笑い続けていたいです。私自身、相当胡散臭いですし。

好き勝手なことを書いてすみませんでした。ただ、いただいたボールをようやく返球できたのではないかとほっとしております。駄文乱文失礼いたしました。今後ともよろしくお願いいたします。

草々

澤田 和弥 拝



「フェイク俳句」について……上田信治 ≫読む
 

4 コメント:

上田信治 さんのコメント...

澤田様

上田です。ご応答ありがとうございます。

おっしゃることは、よく分かります。

分かるのですが、それは、文学一般の話として、よく分かるのであって、拙文は「なぜ、俳句においては、作者と作中主体を同一視するというような、やわやわの基盤を必要とするのか」という、俳句の特殊事情についてなのです。

(続)

澤田和弥 さんのコメント...

上田様

さっそくのご応答、ありがとうございます。

「作者と作中主体を同一視」するのは確かに「やわやわの基盤」なのですが、それは俳句に限ったことでしょうか。俵万智さんは『サラダ記念日』の大ヒット後、「作品全てを事実と考えられては困る」と火消しに奔走されていました。学校教育では主人公を通して、作者の言いたいことや作者について考えさせます。そして教師たちはだんだんと「作者=作中主体」という考え方へと移行していきます。自然主義文学の影響も考えられます。つまり、多くの読者が俳句も含む文学作品全般に対して「作者=作中主体」という目を持っているように私には思えます。この「特殊事情」を考えるには俳句論ではなく、読者論として考える必要があるのではないでしょうか。

上田信治 さんのコメント...

澤田様

「多くの」読者のことなど、考える必要はないのです。それは、どのジャンルにもある「低い」読者の問題ですから。

そうではなくて、俳句は「作品の外部のあれこれについての合意」を、あまりにも多く必要とする、「弱い」ジャンルであり、

ゆえに、他の文学のモラルが通用しない。

ここのところが「季語はルール」とか「作者と作中主体が同一視される事情」とかを通じて、くり返し述べていることなのです。

澤田和弥 さんのコメント...

上田 信治様

まだ自分自身のなかでうまく言葉になっていないので、見当違いのことを申し上げてしましたら、なにとぞご容赦ください。

「『作品の外部のあれこれについての合意』を、あまりにも多く必要とする」のはそれが俳句のルールだからなのではないでしょうか。芭蕉や子規、虚子の頃は勉強不足で知らないのですが、我々は「今」を生きており、「今」の俳句にそれを感じるのであれば、それが「今」の俳句のルールのように思います。芸術は全てルールのうえに成立します。美術にしても、演劇にしても、文芸にしても。それを破壊することで成立している作品にしても対立物としてルールは意識されています。言い過ぎかもしれませんが、破壊物だからこそより強くルールを意識しているでしょう。そのルールを「あまりにも多く必要とする」俳句は「『弱い』ジャンル」か否かはそれぞれの感覚かと思いますので、回答を留保させていただきます。

ただそれをもって「他の文学のモラルが通用しない」というのは、私の低い理解力ではどうもよくわからないのです。「作者=作中主体=話者」等の「前提条件」は現状の俳句の「ルール」のようなものであって、「モラル」なのでしょうか。もしも「他の文学のルールが通用しない」ということから、これが俳句の「特殊事情」だということでしたらよくわかります。俳句が他の文芸では通用しない特殊なルールのうえに成り立っているというのであれば、その賛否はひとまず置いて、よくわかります。ただ「モラル」となると話はもっと大きくなります。そこが私ごときにもどうにもよくわからないのです。

「モラル」ということであれば俳句そのものではなく、今の俳句の世界を構成する全てのものを考える必要がありましょう。そしてそこには読者も含まれます。「多くの」読者がたとえ「低い」読者であっても、それを無視することはできないと思います。芸術は発信だけでは成り立たず、受信されることで初めて成立しますので。もちろん発信者としては「ちゃんとわかってくれる」受信者だけであることを願ってやみません。しかしそれはサロンや秘密結社のような閉鎖空間でしか期待できませんし、そのような空間ですら実現しないものです。俳句の風通しをよくするためにはこの「多くの」読者をいかにして獲得するかにあるのではないでしょうか。俳句が信治さんの仰られるように「他の文学のモラルが通用しない特殊事情」のある文芸であればなおのこと、その「多くの」読者を意識する必要があるように思います。そのうえでそれらの「読者のことなど、考える必要はない」のであれば、それこそが一番の俳句の「特殊事情」であり、「他の文学のモラルが通用しない」点のように思います。

偏った見方で申し訳ございませんが、つれづれなるままに思ったことを書かせていただきました。