2011-03-20

本気-渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』読後評- 澤田 澪

本気―渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』読後評―

澤田 澪 



あとがきに

次回こそオッタマゲルゾと予告して

とあるが、充分にオッタマゲた。すこぶるオッタマゲである。

まず題名。明らかに「あれ」のパロディである。「あれ」である。この系統の報道がいまだタブーとされているなかで、このパロディである。私のような古い人間にはこれだけでも充分にオッタマゲのゲバゲバゲである。この川柳句集は作者の第五句集。第1句集から題名を挙げてみたい。

第1句集『宅配の馬』
第2句集『都鳥』
第3句集『亀れおん』
第4句集『黄泉蛙』

第3句集から明らかにタイトルが怪しくなってくる。序文、跋文にも記されているように、第1句集から哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類と来て、今度は魚類。だからって…。とにかくこれは中を読んでみなければはじまらない。

この句集に収められた232句は俳句、連句の句会吟や投句作品、川柳誌への投句作品からなる。1句だけを取り上げても充分に面白いのだが、まとめて取り上げるとさらに面白い。もう、とにかく面白いのである。

ビルの上足高々と古賀春江
頬被りてめえ松方弘樹だな


人物名の句。作者には叶姉妹など人物を取り上げた秀句が多い。特に古賀春江の句は見事である。昭和モダンアートの旗手古賀春江の初期の作品は未来派・立体派や超現実主義の影響を受け、大正から昭和最初期の技術革新及び近代化の精華を叙情性豊かに見事に描き出している。そしてその古賀春江の作品群を一言で表現するとすればそれはまさに「ビルの上足高々と」なのである。古賀春江は見事だが、渡辺隆夫も全くもって見事である。「頬被り」という季語、そう。そういえばこの言葉は松方弘樹のためにあるような言葉であるとなぜ皆は忘れていたのだろうか。松方弘樹か桃太郎侍か、いや市川雷蔵も似合うぞ。いろいろなご意見があろうと思うが、頬被り四天王に松方弘樹が入ることは誰の目にも明らかだろう。ここに渡辺隆夫の表現の確かさ、視点のユニークさ、「王様は裸だ」と言ってしまう子どものような純真さ、そして「実は僕も裸だ」と言ってしまうようなワンパクさが現れている。

春の葬軍歌も出たり屁も出たり
夏は京鱧の骨切るアルバイト

硬直の紡錘体が秋の魚
冬川が冬の男と擦れ違う

夏はピサ斜塔支えるアルバイト
秋は奈良仁王つれ出しウンコもさせ

前4句は第1章「大魚の腹」より。後2句は第2章「フレンチカンカン」より。季語があって五七五だから俳句なのか、それとも川柳句集だから川柳なのか。もう、そんなことはよく分からない。1年目の夏は京都で鱧の骨切りのアルバイト。んな、アホな。骨切りが出来るためにはそれ相応の修行が必要である。アルバイト風情に。いや。それほどの技術のある板前も季節の出稼ぎアルバイトをしなければならぬほど世知辛い世の中ということか。そして2年目の夏はイタリアはピサに行き、世界遺産の斜塔を支えるアルバイトをしている。フリーターもワールドワイドになった。実は誰も知らないが斜塔の地下は広場になっていて、そこでは斜塔の基礎を支えるために世界中から集められたフリーターたちが日々汗を流している。そのなかには鱧の骨切りもできる熟練の板前までもがいるのである。誰も知らない。私も知らない。このホラを吹くまで知らなかった。そんな広場があるなら早いところ埋めて、しっかりとした基礎固めをした方がよっぽどよい。斜塔を支えていたと思ったら、秋には奈良に行く。東大寺南大門金剛力士像、通称仁王様である。その仁王様を連れ出してウンコさせちゃう訳である。いつもみんなが見てるからトイレへ行く時間もないだろう。思いやりのある行動だ。連れ出したのはどっちだろうか。阿形よりもやはり吽形の方が我慢しているように見える。そうか。だからあの青筋か。といったようにいろいろとくっつけて自分なりのストーリーの中で作品を弄ぶのもとても楽しい。渡辺隆夫作品が面白いのは言葉や表現という目に見えるものだけではない。余裕がある。一句の姿勢にゆとりがあるため、こちらは油断する。油断しても許してくれる。この世には読者を息苦しくさせる名作もある。一部の隙もない、神経ピリピリ。しかしそれは1句だけでいい。そんな句集を読むとなると苦行でしかない。読書という行為自体はこの現実でも、読書そのものはもう一つの現実社会のなかで思う存分に遊ぶことである。それを楽しませてくれるのが渡辺隆夫作品である。しかしながら実はそれは罠である。油断禁物、これは一物と昔の人はいいことを言ったものだ。前4句のうち3句目。

硬直の紡錘体が秋の魚

「硬直の紡錘体」では「?」だが「秋の魚」によって、頭の中には一気に河岸の鮪が浮かんでくる。紡錘体の魚で硬直といえば鮪である。それも冷凍の。だって「硬直」だもん。森田緑郎は序文にて三鬼の「秋の暮大魚の骨を海が引く」と野間宏「暗い絵」冒頭部分をとの関連から巻頭句の

ブリューゲル父が大魚の腹を裂く

へと結び付ける。隆夫句と三鬼句はともに魚という命の名残・残骸を詠んでおり、それが秋と呼応して全体としての詩を生み出している。ただ隆夫句には三鬼句にはないものを強烈に感じるのである。秋は淋しいだけではない。「食欲の秋」である。あの「硬直の紡錘体」たちを見ていると私は涎がとまらなくなる。すこぶる旨そうだ。冷凍マグロたちは全て尾が断たれている。そこを見て仲買人たちは鮪の味を見極める。何百本に一本、たいへん旨そうな赤が目に飛び込む。そのときの感動。ああ巡り合い。「硬直の紡錘体」ではなんにも美味しそうではない。それが「秋の魚」という言葉と出会った途端にこんなにも食欲をそそる名句となる。だから油断してはならない。油断していると突然カプンと食われてしまう。そうなったら作者の思う壺である。もちろん思う壺の中の居心地の良さは私の悪筆で申すまでもなかろう。

昔をとこ総理にはなりたりけるが、
選挙と介護どっち大事かバカ息子


連句である。バカ息子の総理といえば、ついこの前の宇宙人を想起する。日本で最初に子ども手当を受取ったのはあの兄弟である。「選挙と介護どっち大事か」さあ、どっちだろう。「そりゃ介護だろ」。最初はそう思った。己を生んでくれた親の介護こそすべきことである。それが人の道である。しかし一国の総理大臣としてこの国を救うという大事業をするということを考えると素直に「介護」と言えなくなる。公か私か。私は誰もが認めるバカ息子であり、その私の下半身に暮らしている息子は引き篭もりだ。皮の中から出てこない。困ったものである。それゆえ私にはどっちが大事か分からない。それにしてもここ最近は「総理にはなりたりける」者のなんと多いことか。二世議員のバカ息子。

百済観音の右手にレモン置いて来た

丸善の洋書コーナーではなく、百済観音の優しく差し出された右手にレモンを置いちゃったのである。爆発したらさあ大変。なぜ右手かと言われれば字数の問題もあろうが、一番の問題として左手は水瓶を持っているのだから置ける訳がない。同じ飛鳥時代の作であるとともに非止利様式の傑作である広隆寺半伽思惟像の右手の中指は或る大学生によって折られたことがある。彼はこの仏像に恋したため、よじ登ってキスをしようとしたのである。そしたらボキッ。そのとき勃起していたかどうかは調書にないところだが、同じく右手、何か因縁めいたものを感じてしまう。丸善に檸檬を置くことで近代文学に或る種の突破口を開いたように、百済観音の右手に置かれたレモンが爆発して、閉塞しがちな短詩形文学に大きな突破口を開いてくれることを切に願うところである。

亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む

なるほど!亀は文学上だけでなく現実にも鳴くのである。しかしちょっとでも鳴けば鳴かない亀に取り囲まれてそのまま連行されて、拷問にあって、獄死してしまうのである。だから亀は鳴かないのだ。いかにも日本的である。出る杭は必ず打つ日本人。万歳。万歳。僕らはどんぐり。出るならば出過ぎなければならない。なんと世知辛い。

前述の秋の魚の句のようにこの句集の中には「ドキッ」とする句が多くある。それはブラックだから、芯を捕らえているから、いやんエッチ☆などいろいろな理由がある。

コチ吹くなソチは悶絶浄化槽
姉さんの乳首をつまむ帰り道

首吊りの真下が濡れる梅雨の家
遠雷や生命保険の人が来る
草津ヨイトコ二人はイトコ
暖冬や富士山頂に波の音
インターネットから晩秋のうめき声
鳥帰るあらまテポドンどこ行くの
ナガシマです蛇穴セコムしてますか
竹槍で突けば穴あくエノラ・ゲイ
死者九人寄り集まって一チーム
死後も楽しい東京ドーム
全裸あり、さて廃人か竜神か

これ以上にご紹介したい句はやまほどあるのだが、そうすると232句全てご紹介することになり、偽計業務妨害罪で逮捕されてしまうかもしれないのでここまでとしておく。

渡辺隆夫の魅力はその面白さにあり、それは前述のように「王様は裸だ」と言ってしまうような子どもの残虐なまでの純真さと「実は僕も裸だ」と言ってしまうようなワンパクさにあり、それを視点のユニークさと表現の確かさが支え、それらはゆとりをもって形成されている。「下品」「ふざけてる」などと言う御仁はなんにもわかっちゃいない。いつから日本人はこれほどわかるべきことがわからなくなったのだろう。おそらく数千年前からである。もとい。渡辺隆夫が対象を観察する目は常に微笑んでいる。これは痛烈なアイロニーと表裏一体の深い愛情である。生物、特に人間への深い深い慈しみの愛である。これら全てを兼ね備えているからこそ、渡辺隆夫の句は面白いのであり、多くの人を惹きつける作品として成立しているのである。

巷に溢れる流言蜚語のなんと浅ましいことか。皮肉は人を侮蔑するものではない。皮肉は人を笑わせるものであり、その笑いの奥にはかならず愛がある。現代という時代は渡辺隆夫に学ぶべきことが多い。多すぎる。ウソだと思うならこの句集を、ちゃんと購入したうえで読んでみればよい。渡辺隆夫を信じなさい。ついでに私も信じなさい。

これだけは言っておこう。渡辺隆夫は常に「本気なのである」。

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