2011-04-24

週刊俳句時評第28回 弧は問いであり、問いが答えである 五十嵐秀彦

週刊俳句時評第28回
弧は問いであり、問いが答えである
樋口由紀子『川柳×薔薇』その他

五十嵐秀彦


批評とは何だろうか。

そう考えさせられるエピソードが週俳の206号にあった。
それは西原天気の「よろしき距離 金子兜太×池田澄子『兜太百句を読む』」である。
ここで西原氏は金子・池田の『兜太百句を読む』をとり上げ高く評価すると同時に、「海程」のサイト「俳句樹」における「海程ディープ/兜太インパクト」もとり上げ、そちらのほうには兜太への「信仰表明・帰依宣言」のようなものを感じてしまったことを述べている。

今回、このことに触れると寝た子を起すことになり、どちらにも迷惑をかけてしまうかもしれないが、私はどちらの意見がどうこうというのではなく、この記事に書き込まれたコメントがやけに気になってしまったので、そのことから書き始めることにしてしまった。

そのコメントというのは「一個人」という匿名氏からの意見で、右の西原氏の記事によほど腹を立てたらしく、前半は比較的冷静な語り口なのに、後半、余談と断った上でこの記事とは無関係な西原氏の過去の発言に「怒り」の矛先がむき、とうとう「醜い」という感情的発言まで飛び出してしまい、その後はネットの掲示板などでよく見かけるお粗末な展開になってしまったという件である。
西原氏がとりあわなかったために、比較的小規模な「こぜりあい」で終わってはいたが、私に限らず少々不快に思った読者もいたことだろう。

なぜこのことから書き始めているかというと、批評というもののあり方の難しさが、ここに戯画化されているように思ったからだ。
コメントを書き込んだ「一個人」「台」「匿名」というHN氏たちに共通しているのは「怒り」である。西原氏の記事に大いに不満を感じてのことであろう。
不満をおぼえるということは良いことである。
書いてあることを何でも鵜呑みにすることは、褒められたことではない。
ただ残念なのは、ここに批判も批評もなかったということである。
ひょっとしたらご本人は批判したつもりでいるのかもしれぬが、「腹が立」ったとか「醜い」とか言うのは批判ではない。
ほかにも「いらいらする」とか「語る資格ゼロ」とかいうのも同様。

もったいないなぁ、と思うのだ。

批判や批評を生み出す種は「不満」にある。しかし「不満」を火種にして「怒り」の言葉にそれを翻訳してしまっては何も言っていないに等しい。
この話題をあまりひっぱりたくないけれど、西原氏の記事への批判を書くのであれば、結社における主宰の求心力の意義についてなどを堂々と論じるべきだったし、それなら私も読みたいと思っただろう。
もちろん今回のような反応のあり方が全てではないと知りつつも、なかなか批評が生まれがたい状況の一端を象徴的にあらわしている出来事のように思えたのである。

批評や評論というものへの漠然とした不満が私にはあって、特に俳句のような伝統短詩での評論は近年あまり成果をあげていないように感じている。
『豈』や、あるいはここ「週刊俳句」は、比較的気を吐いているところではあるが、総合誌・結社誌では評論が少なかったり、エッセイを評論と呼びお茶を濁しているような現象がある。
つまり、批評や評論と呼ばれる仕事が、その居場所を失いかけているのではないか。
はたして評論を求める読者がどれほどいるのだろうか。
また、実作者も創作中心となり批評を避ける傾向にありはしないか。

さきほど述べたような、人の論考に対して感情的な意見(意見にもなっていなかったが)を人目に触れることを知りつつ吐き出し、それで相手に咬みついたと思っている人たちが俳句実作者の中にいることに心の冷える思いがある。
同意できなければ自論を展開するば良い。怒ったとか不愉快だとかいうのは、第三者にはどうでもいいことなのであって、異なる意見があるならばぜひそれを読みたいのだ。
文芸の徒であればまずそれを為すべきである。
無難なことだけ言っていればよいということになれば、批評精神は死滅し、評論は先生ボメと仲間ボメの無価値な駄文の山となるだろう。

さて、前置きが長くなった。
先日、川柳作家の樋口由紀子の評論集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)を読んだ。
思えば川柳評論というものをこれまであまり読んだことがない。それほど私は川柳に疎いのである。
だからか知らぬが、そこに俳句評論と共通する課題が多いことに感心してしまった。
それは私性であったり、言葉それ自体の優位性だったり、意味性のことだったりするわけで、俳人もまた日頃考えざるをえないことばかりであるのは、五七五という定型を共有しているところから日常的に立ち上がる疑問なのだろう。
そして樋口氏は、川柳を越えて俳句にも強い関心を示している。
池田澄子に関する小論も収められているが、他の論考の中にもしばしば話題が俳句に及んでいる。
私は、川柳作家である著者の眼を通して俳句を見る機会を与えられたような気がして、興味の途切れることなく読ませていただいた。

俳句は作者の「私」が作品にあらわれるのが比較的少ない文芸で、短歌ほど「私性」は問題にしてこなかった。短歌は五七五七七の七七があることで作者の主題が述べやすく、俳句は七七がないから、主観を述べにくく、暗示性が強いと言われる。川柳は俳句と同じ五七五で、七七がなくても、五七五の中で作者の主観を述べてきた》(p23)

ざっくりとした表現ながら、川柳と俳句の間の曖昧な境界線上に、この「私性」の扱いが関わっていることを示している。樋口氏はただ単に川柳と俳句の違いを摘出することを目的として論じているのではない。

言葉そのものは存在があり、意味を上回る動きをするので、どのような「私」も書いていくことができる》(p28)

川柳の私性を論じていながら、ここにはかつて寺山修司が展開した私性論に通じるものがあるようだ。

また、「固有性と独自性 池田澄子小論」では、口語体という池田の俳句の特徴を川柳の口語体に引き比べ、口語表現の可能性を考えている。

川柳は垂直に勢いよくボールを落下させる快感を口語体のわかりやすさで味わう。しかし、池田は何を書くかを基点に、そこからいかに書くかと具体的な輪郭と実景でボールを大きく投げる。口語体がボールの回転をなめらかにし、大きな弧を描く役目をし、奥行きをもたらす。弧は問いであり、問いが答えである。決してボールの着地が答えではない。彼女の口語は現状を大きく超えていく》(p53)

あ。
と思った。
口語句はもっと論じられてもいいのではないか。この樋口氏の指摘はまさに私たちに投げられたボールだ。
口語を多用する実作者の人たちが、このボールを受け止めて展開してほしい。
もっと遥かまで投ずることのできるボール(=「問い」)である。

ほかにも攝津幸彦や安井浩司もとり上げられており、俳人も興味深く読める評論集だ。
また、ところどころに出現する時実新子への共感と反発、あるいは時実の安易な追随者への疑問は、著者の立ち位置をあらわしているのだろうが、このあたりから、「女性性」という敬遠されがちなテーマを川柳・俳句横断式であえて深入りしてみたら面白いのではないかと、著者の意向を無視して夢想してしまうのだった。

批評のネタはまだまだいくらでもあるのである。


1 comments:

館野洋一 さんのコメント...

五十嵐秀彦様、御文読ませていただきました。
矛先が僕(「台」こと館野洋一)にも向けられていますので、
ちょっと思うところを書かせていただきます。

>ただ残念なのは、ここに批判も批評もなかったということである。
ひょっとしたらご本人は批判したつもりでいるのかもしれぬが、「腹が立」ったとか「醜い」とか言うのは批判ではない。
ほかにも「いらいらする」とか「語る資格ゼロ」とかいうのも同様。
>人の論考に対して感情的な意見(意見にもなっていなかったが)を人目に触れることを知りつつ吐き出し、

そういった「感情的」な箇所があるからと言って、その一文全体が「批判・批評」ではなくなる、という言説、全く理解できません。
たとえば、一個人氏は、西原氏の

>テレビで見る地震・津波の被害を安穏と五七五にするような、程度の悪い「のんきさ」、どうしようもない「蒙昧さ」。それはまた、まったく別の話

という発言に対し、

>そういったこと、何であなたに決め付けられなければならないのでしょう。
いろいろな思い、立場、真摯な気持ちでこの大災害を自分なりに形にしたいと思われた方もいたはずです。

と述べておられます。
僕にはこの一節、十分真っ当な「批判・批評」に思えました。
この一節に僕は共感し、僕も同意見だ、と思えたからです。
ともかくもそれだけの力がある一文だと僕は感じました。
だから、その後の西原氏の対応が大変不愉快だったのです。
で、その旨、思うところを書き込みました。
それは確かに別に批判でも批評でもないです。ただの「思うところ」です。
僕のあとに書き込んだ匿名氏については、ちょっとわかりません。
というか、率直に言えば「ああいう書き方はヤバいんじゃないか」と思います。

逆に五十嵐様にお尋ねしたいのですが、
もともとこの一連の流れの発端となった西原氏の、

>ファンクラブの会報と見紛うような、信仰表明・帰依宣言は、書き手本人には意義のあることでしょうし「海程」という組織にとっても意味があるかもれませんが、多くの読者にとっては、「なに、これ?」であり、むしろ「金子兜太」を遠ざける負の効果を生みます。

の「信仰表明・帰依宣言」「むしろ金子兜太を遠ざける負の効果を生みます」といった断定にあなたの言う「批判・批評」に足る何らかの論理的な裏づけが見えるのでしょうか?
さらに西原氏は「ウラハイ」なる自分のブログにて、

>十把一絡げは、ちょっと良くなかったな、と反省しています。でも、かといって、記事のいちいちを取り上げるべきとは、今でも思いません。すべての記事が頭に残っているわけではありませんが、コメント欄で触れたように、「俳句史」にとって幸せなのか」 (小野裕三)は興味深く読みました。だからといって、「いい記事もある」と申し上げる気にはなりません。きほん、「信仰告白」。ほとんどが「結社内でおやりになればいいのに」という記事でした。

と書いています。
この一節、単なる個人的な見解の押し付けであり、どこに誠実な批判・批評があると言うのですか?
僕も「俳句樹」のあのコーナー、
あらためて通読させていただきましたが、
確かに金子兜太氏への思い入れの異様に強い方、それ系の一節が、ある程度目に付きましたが、全体としては一個人氏の書かれている通り、内容は多岐に渡っています。
西原氏の言説は、「俳句樹」執筆者・編集者の思い、意図を全く無視した上での、
『俺が「信仰告白」だって言ってるんだから、誰が何と言おうとあのコーナーは「信仰告白」なんだよ!』
という何とも子供じみた、一人よがりの無理強いにしか過ぎません。
説得力が全く感じられないのです。

>それとも、一個人さんは、私が、「俳句樹」の「海程ディープ/兜太インパクト」は素晴らしい記事だと言うまで、納得なさらないのでしょうか。

見苦しい開き直りというか、この一文に僕は何とも嫌らしいものを感じました。
もうこの人を相手にするのはやめよう、と思いました。
とにかく、前述の「のんきさ・蒙昧さ」といい「信仰告白」といい、
西原氏は他者の在り方や作品を愚弄し、こきおろすことでしか、
自分を主張できないのか?と思わざるを得ません。
おそらく検索すれば、西原氏の同じような事例がどんどん出てくると思われます。

五十嵐様、あなたは一個人氏や僕の「感情的」な物言いの部分だけをあげつらって、
(一個人氏の訴えや西原氏の言説の在り方など、他の要素を意図的に無視し)、
身勝手に不公平に持論を展開しているだけです。
そして終いには、「文芸の徒であればまずそれを為すべきである」などという、
手垢のついた大上段でもって、ひとり悦に入っている。
怒りとか不愉快を通り越して、ただ情けなくなるばかりです。
以上、乱筆乱文お許しください。