2011-04-24

成分表43 愛 ……上田信治

成分表43 

上田信治

「里」2009年5月号より転載


「愛」という語の、定義を試みる。

人が「愛」と呼ぶものは数多く、その内実は様々だが、辞書のようにそれを列挙し定義とするのではなく、それらを元々の一つの単純な概念に置き換えて、スッキリしてみたい、という頭の体操である。

定義のためのアプローチとして、その語の、可能な使用範囲の端のほうに注目してみよう。

たとえば、チータやシロクマの親による、自己犠牲的行動。狩りの獲物を自分では食べずに子どもに与えるような「あれ」は、人間行為ではないが、自分には「愛」であることが、疑い得ない。

それは、もっともラフでシンプルな心による「愛」である。もちろん、それは、ただ本能に命じられた行動なのだろうけれど、動物の親が子に示すそれと、全く別に、人間だけの高級な「愛」があるという気はしないのだ。

人間のことを言えば、ある人が「死んだとき泣けた」ら、その人のことは「愛していた」と言っていいのではないかと思う。

以前、友人から「手塚治虫が死んだ時、泣いた」と聞かされ、驚いた。会ったこともない有名人を愛していた、というのは、その語の適用範囲の、かなり辺境に近い部分かもしれない。

 俳句思へば泪わき出づ朝の李花  赤尾兜子

どう見ても作者は、俳句というものを「愛して」しまっている。この句は、そのことを垂れ流すように告白し、自分はそれに異様な感動をおぼえる。

「愛」は、動物と人間に共通して観察される、プリミティブな衝動である。それは、恣意的に様々な対象に向けられ、感情や行動をひきおこす。

また「愛」は、人間の全ての心的エネルギーの根源であるかのように、語られることが多い(これも、語の適用範囲の一つである)。

人間と動物の心に共通する、根源的なものとはなんだろう。

動物の食餌や攻撃や防御といった行為の大元には、個体を維持するという目的がある。しかし、単純な個体維持的行為に、愛を感じることはない。動物の親が子に対して示す何かが、とりわけ「愛」であるように見えるのは、子という、個体外のものを、個体の一部であるかのように、つまり「身の内」のように扱っているからに違いない(お、手応えあり)。

定義。「愛」とは「自分以外のものを自分の一部のように思うこと」である。

 打水や石への愛は日に一度  林 翔


 

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