〔超新撰21を読む〕
錬「幻想」術について
青山茂根の一句……生駒大祐
最果ての地にも布団の干されけり 青山茂根
うろ覚えで大変恐縮だが、綾辻行人と京極夏彦が対談をしていて、その流れの中で
「(『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』などの夏彦の著書名に関して)「姑獲鳥」や「夏」だけでなく「の」の意味も考えてくれたら嬉しい」ようなことを夏彦が言っていたような記憶がある。
それは俳句とはかなり遠い話なのだが、青山茂根の俳句を読んでいたときに不思議にそれを連想してしまった。
そのわけを自己分析してみると、どうやらそれは茂根の俳句における言葉たちの、クッションに見せかけた間逆の硬質さを感じたことにあるようだった。
茂根の俳句の中には二物の邂逅による幻想の創出を狙ったらしい句が多くある。
纏足を包むバナナの皮であり
スープ罐より初夢を取り出しぬ
などなど。
さて、俳句には二物衝撃という概念があって、それを狙った句の多くが切れという接着剤によって通常くっつかない二物を半ば無理やりくっつける。
切れとは文字通り「断絶」であって、形式上くっついたはずの二物は距離感を孕んだ緊張関係を保ちつつ二つのモノとして相変わらずそこにある、ことになっている。
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子
なっているのだが、景というものを考えたとき、それらはなんだかふわふわした真綿のようなものに包まれてなんとなあく共存して一つの景を成している。その「なんとなあく」を許すのが、俳句の切れを読むときのお約束であり、俳句をあまり普段読まない人を戸惑わせる要因ともなっている。
一方。
上述の茂根の俳句にはその「切れ」がない。「包む」「取り出す」という、クッション的な言葉たちによって二物は自然な文脈のままにくっつき、連続的に一つの景を成す。
その「一つの景」は切れを用いて作られたものとは性質を全く異にする。真綿のようなもので包まれた言葉たちが形作る景というものの落しどころは結局のところ「現実」に帰着する。
近海に鯛睦み居る涅槃像 永田耕衣
これほどに距離感のある二つのモノであっても、幻想性はあくまで現実的な景からじわじわと染み出るのみであって、それは逆説的に存在する「現実の孕む非現実性」を表出するにすぎない。
上述の茂根の俳句が提示するのは、言ってしまえば「非現実の孕む現実性」であって、問われているのは、「なぜ自然にくっついているように見える一つの景に幻想性があるのか」「そもそも幻想性とはどこから生じるのか」「現実とはなにか」ということだ。
最初の話題に遡る。僕は考える。京極夏彦の著作名における「の」はその作品によって様々な意味を孕むがその価値は作品の二つのテーマを示す言葉たちを、言葉の意味を崩さぬままあたかも一つの言葉であるように偽ることだと。茂根の俳句におけるクッション語の本質もそれに同じく、二物のそれぞれの「現実」の持つざらざらした接着面を崩すことなく一つの景を形作ることであり、そうして二物の「硬質さ」を生かすことで結果として現れるのが幻想性であると。
それと同時に日常語と季語をくっつけるという多重性も現れてきて…。ああ、これ以上はまたの機会に。
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2011-05-15
〔超新撰21を読む〕青山茂根の一句 生駒大祐
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