〔超新撰21を読む〕
そこから世界が二つに割れ
榮猿丸の一句……野口 裕
炎天のビールケースにバット挿す 榮猿丸
一句を選ぶについては、百句を読み返しておもむろに選ぶのが普通の手順だろう。これまではそうしてきた。だが、榮猿丸の場合、百句を読み返す前に、どうにもこうにもこの句が当方の頭の中で何回も反芻されてしまった。反芻するたびに、新たな考察が紡がれてしまう。
まず注目したのは、「バット」だった。このバットは金属バットだろう。その方が、「炎天」と響き合う。
金属バットは昭和四十九年(1974)に、高校野球に採用された。木製バットと異なるあの異常な打撃音を耳にしたとき、心地よい音とはやはり言い難かった。なにかもやもやした感覚を聞く者に抱かせるところがある。それを決定的にしたのが、昭和五十五年の金属バット殺人事件だろう
≫Wikipedia
そこから、どうしても藤原新也『東京漂流』が思い出される…。
と、これ以上書くと、話が句から離れていきそうなので、次の注目点に移る。
「ビールケース」も、七十年代から八十年代へと時代が移るにつれて次第に価値を減じていった物である。
商品は在庫の形でストックしておくよりも、売れたそばから補充する方が効率が良い。これは売る側の論理だが、消費する側にもその考え方の影響が及ぶ。酒屋さんに瓶ビールを何本も持ってきてもらって置いておくのもスペースを取るから、次第に、飲みたくなったら手近の自販機やコンビニで缶ビールでも買って済ますようにライフスタイルが変わってきた。いみじくも、『20世紀少年』(浦沢直樹)
この主人公は酒屋から転身したコンビニ店主であった。
一戸建ての隅っこに瓶ビールが配達されなくなったビールケースが、鎮座していることは十分想像できる。そこに、バットを挿す。挿したのは、リトルリーグに参加している少年か、あるいは久しぶりの休日、草野球に興じた成人か。
SF小説の設定に、多重世界というのがある。白か黒かの分岐点に来たときに、そこから世界が二つに割れ、同時並行の形で物事が進んでゆくという考え方である。どうも、この句は、白か黒かと同時並行でやってきた世界が、ここで一旦収斂し、また新たな複数世界を立ち上げる気配を見せているような気がする。そう思わせる理由の一つは、炎天という季語にもあるだろうが、「バット」にしろ、「ビールケース」にしろ、時代の変遷によって存在のあり方が変貌した物のもつ歴史性にもあるように思う。
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2011-05-15
〔超新撰21を読む〕榮猿丸の一句 野口 裕
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