〔俳誌を読む〕
自分の「うた」を持つこと
『塵風』第3号(2011年2月1日)を読む
仁平 勝
今号は「歌・唄」という特集だが、これがなかなか読ませる。特集全体がおもしろいのだが、まず久保隆の「わが『演歌』考」を紹介する。「藤圭子から椎名林檎まで」という副題がついている。
著者は『吉本隆明ノート』や『権藤成卿論』などの著書を持つ評論家で、わたしと同世代である。具体的にいうと、1969年をピークとする60年代の後半に(たぶん)青春の真っ盛りがある。上の世代からも下の世代からも煙たがられる、いわゆる「団塊の世代」です。
タイトルの通り、「演歌」を論じるのだが、カッコがついていることから推測されるように、「いわゆる既存の『演歌』というカテゴリーを想起しているのではなく、『演歌』的なるものに魅せられているのかもしれない」という。
では「演歌」的なるものとは何かというと、久保さんにとってそれはまず山口百恵(特に宇崎竜童の楽曲)や中島みゆきの歌であり、その象徴として、北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』と八代亜紀の『舟歌』を挙げる。作詞はどちらも阿久悠である。
『ざんげの値打ちもない』は、物語性を持った詞が、感性を揺さぶる。村井邦彦の曲調も、語り言葉をうまくメロディーに乗せることに成功している。
「情念」という言葉があり、わたし自身、その言葉にかつてはいいようのない拘りを抱き続けたことがある。「演歌」的なるものと「情念」が響き合うことは否定しないが、どこかで、「情念」といういささか過剰な思いを昇華させたいということを考えるようになった。
この二つのくだりを勝手に統合すると、久保さんにおける「演歌」的なるものの価値は、「語り言葉をうまくメロディーに乗せること」で過剰な「情念」を昇華させる度合いによって決まるといえそうだ。
ちなみに、近ごろ読んだ輪島裕介『創られた「日本の心」神話』という本があり、これが演歌論としてめっぽうおもしろい。いま地震のために行方不明になっていて、テキストを直接に確認できないのだが、おおかた次のような内容だったと思う。
「演歌」とは、60年代後半にレコード会社の営業戦略によって「創られた」新ジャンルであり、日本の伝統的な歌謡曲でもなんでもない。それが当時の左翼的な時代状況のなかで、竹中労や平岡正明などによって、インテリ的な文化論に反発する民衆の心情(まさに久保さんのいう「情念」?)として喧伝された。「日本の心」とは、いってしまえば反米ナショナリズムなのである。
この著者は、わたしよりずっと若い(つまりその時代を体験していない)のだが、わたしの当時の記憶をたどっても、書かれていることはいちいち納得できる。そのほか、「演歌」とはもともと明治時代に自由民権運動の壮士たちが演説の代わりに歌ったものだとか、教えられることが多い本なので、興味のある方は読んでください。
話はいくぶん脱線したが、久保さんが「わたしが拘泥する『演歌』とは、コブシやビブラートを技法とする歌唱のことを意味しない」というのは、そういう技法がしょせんレコード会社の商品スタイルでしかないとすれば(『創られた「日本の心」神話』によれば、それは民謡と浪曲を合体したものだ)、いたって正解といえる。ようするに「演歌」的なるものとは、個人の内なる「うた」なのです。
また、次のような久保さんの述懐も、いわゆる「演歌」が誕生した時代にぴったり符合している。
思い起こせば、わたしの「演歌」や「演歌」的なるものへの関心の起点は、六九年秋から冬にかけて、浪曲師の父と盲目の三味線弾きの母を持つ、ひとりの女性歌手の〈歌唱〉によってだった。
この「女性歌手」とは、すなわち藤圭子である。「週刊俳句」の読者には若い人が多いと思うので、念のために解説しておくと、宇多田ヒカルのお母さんが歌う「バカだな バカだな/だまされちゃって/夜が冷たい 新宿の女」といったフレーズに、久保隆やわたしのようなオジさんたちは、60年代後半の新宿という街の愛しさと哀しさを感じとっていたわけです。
長くなったのでこのへんで終わるが(紙数に限りはないが、わたしの時間に限りがあるので)、そのほか小林暢夫「私のシャンソン航路」や、井口吾郎「漣健児と『シャンテ』」もおもしろい。
小林さんは、私よりかなり上の年代のようだが、日本の歌でいうなら「海ゆかば」も「戦友」もシャンソンだという。「海ゆかば」は、大伴家持の長歌に曲をつけた旧海軍の儀式歌だが、メロディーは「君が代」などよりずっといい。こっちが国歌でもよかったくらいだ。
井口さんは、音楽出版社の企画開発部にいた方のようだが、タイトルにある漣健児は、パット・ブーンやニール・セダカやポール・アンカやコニー・フランシスなどの(プレスリー以前です!)50年代のアメリカン・ポップスの歌詞を翻訳して、60年代前後の日本に持ち込んだカバー・ポップスの生みの親です。文中で紹介されている代表作は以下の通り(原曲の歌手はわたしが補った)。
飯田久彦「ルイジアナママ」(ジーン・ピットニー)
坂本九「ステキなタイミング」(ジミー・ジョーンズ)
弘田三枝子「ヴァケーション」(コニー・フランシス)
弘田三枝子「可愛いベイビー」(コニー・フランシス)
田代みどり「パイナップル・プリンセス」(アネット)
あまり調子に乗って書いていると、若い読者から「昔話もいい加減にしろ」と怒られそうなのでこのへんでやめるが、ようするにどの著者も自分の「うた」を持っているということだ。
最後に俳句に結びつけて終わろうと思うが、じつは拙著『俳句をつくろう』のなかに「俳句と歌謡曲」という項目がある。いい機会だから、自己宣伝を兼ねて抜書きしておきます。
プロローグのところで、五音と七音の組み合わせは日本の伝統的な詩のリズムだといいましたが、それは同時に歌謡曲のリズムでもあるわけです。このリズムは、近世でいえば小唄や都々逸に代表され、今日では歌謡曲(とりわけ演歌)に引き継がれています。 つまり俳句は、いわば定型の根っこのところで、歌謡曲を愛する心情とつながっているのです。いくらか独断的にものをいえば、歌謡曲が好きでない人は、たぶん俳句の五七五にもなじめないと思います。 ただし俳句と歌謡曲の違いは、歌謡曲は、たとえば七五調のリズムならそれが何度か繰り返されますが、俳句の五七五には、同じリズムの繰り返しがないということです。これは決定的な違いで、その繰り返しがないというところに俳句の定型の本質があるのです。 つまり俳句の定型は、その快いリズムに惹かれながら、その繰り返しを断ち切っているのです。わたしはそれを、表現のストイシズム(禁欲主義とでも訳すのでしょうか)と呼んでいます。このストイシズムによって、俳句の言葉は通俗の場所から飛躍するのです。
まだまだ続きますが、もし興味のある方があれば、あとは直接買って読んでください。アマゾンのネットなら二束三文です。
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