週刊俳句時評第31回
光り輝くために
読むこと―詩客、spicaについて
生駒大祐
4月末から5月初旬に掛けて、ふたつの重要なウェブマガジンが創刊された。
詩歌梁山泊が活動の一環として立ち上げた「詩客」と、神野紗希・江渡華子・野口る理の若手女性俳人3人によって運営される「spica」である。
このふたつのウェブマガジンに共通するのは、俳句を自覚的に「読」んで行こうとという姿勢であろう。詩客には「リレー時評」、「戦後俳句を読む」、「私の好きな詩人」という週刊記事があり、一方spicaには「よむ」、「よみあう」、「さはる」の中の「よみあう」など、記事の多くが俳句を積極的に読んでいこうという記事で占められている。
それぞれの巻頭言を読んでみると、詩客には森川雅美による「変化のとき ~「詩歌梁山泊」をはじめるにあたり」の中に
新しい表現が求められているのだ。
表現が時代の中でのみ、語られるものでないことは、当然だ。また、現在が過去の時間積み重ねではないことも、前世紀の哲学は説いている。作品は書かれた時代の善悪の規範を取り払った上で、読まれなければならない。だが、矛盾することだが、反面、作品が時代の条件に、縛られているのも確かだ。実感としていえば、過去の作品を問い反省することなしには、新しい表現は生まれないように思える。
という言葉があり、巻頭言の内容も戦争に関して各詩型の辿った歴史的な経緯を振り返り、理解し分析することによって詩の未来を読み解こうと意思が汲み取れる。spicaに関しては「創刊にあたって」の中に明確に
どんな古典も、どんな新しい潮流も、全ては読む作業から始まりました。
そして、世界では、日々、新しい俳句が作られています。
投げかけられるばかりの言葉を、私たちの手に抱えられる範囲で、ひとつずつ、拾って読んでいきたいと思います。
と述べられ、spicaが作品を「読む」場であることを明確に示している。
さて。
「読む」ことの意義を考えたときに、それらには二つの方向性がある。
ひとつはその作品の持つ「自分なりの」価値を言葉として定着させ、作品への自身の理解を深めるという「内向き」の方向性。
もうひとつは、作品の「普遍的な」価値を新しく提起することによって他人にそれを提供するという「外向き」の方向性。
詩客に関して言えば、例えば「『戦後俳句を読む』18人からのご挨拶」において、筑紫磐井によって
「―俳句空間―豈weekly」で共同研究<相馬遷子を読む>というシリーズを68回にわたって行い、現代俳句が忘れていた特異な俳人相馬遷子の再評価を試みた。同じ手法を通じて<戦後俳句>というより大きな現象を再評価してみようと言うのが今回の企画である。18人の総勢からなる共同研究は、ちょっとした”プロジェクトX”である。個々の作家研究も注目されるが、それらが総合されて全体として浮かび上がる<昭和>や<戦後>とは何かという問いかけは、今まで試みられなかった壮大な曲調を示してくれるかもしれない。
と述べているように、どちらかというと「外向き」の方向性を目標としているようであり、spicaの方は「さはる」の中の「よみあう」の『季語別 鈴木真砂女全句集を読む』の良い意味で仲の良いおしゃべりめいた口調によく現れているように、「内向き」の読み方に近い。
また、読むということに二次的に発生してくる意義としては、「作品」自体を周知させるという意義と、「論者」のパーソナリティを提示するという意義がある。
この一次と二次の意義には相関関係があり、「内向き」の読み方は主観を交えた読みが多くなることから論者の人格があらわになりやすく作品を純粋に読ませるという方向性からは遠くなる。一方「外向き」の読み方は普遍性を獲得するために主観を省くために作品をテクストとして読ませる方向性にシフトしていく。
しかし、重要なのは、一次的、二次的価値が発生した後のその果てにあるのが『「読み方」自体を創造する』という行為であることだ。それは一次的には「自分なりの」価値が「普遍的な」価値と一致し、二次的には作品と批評者の両者が同時に認知され、同時に存在することに意味があるという状態である。
spicaは「内向き」の方向性に近いところから、詩客は「外向き」の方向性に近いところからそれぞれ「読み方の創造」に向けてゆっくりと歩み始めたようだ。その方向性のどちらが近道ということはおそらく無いし、「内向き」の読み方から純粋な感動を持って作品を知る人がいたり、「外向き」の読み方から論者の人格がまざまざと現れることも十分に在り得る。ゆらゆらと両方の方向性に傾き合いながら、両誌はひたすらに「読んで」ゆくに違いない。その果てに「読み」と「創造」が重なり合う瞬間の輝きがあることを僕は期待し、待望し、夢見るのみである。
(了)
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