2011-05-22

爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 山田耕司

爽快、「理解不能で面白い」という感じ方。
樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む

山田耕司



関悦史「私が川柳大会について知った二、三の事柄」:ウラハイ=裏「週刊俳句」2011年5月7日

岡山で開催された川柳雑誌「バックストローク」の大会に選者として臨席した折のことを関悦史が書き起こしているのだが、彼の簡潔な文体と的確な批評、そして被災後の日常から岡山の日常を見て「異様に見えた」とする紀行奇譚風な書き出しから、どうも『ガリバー旅行記』を読んでいるような気分になった次第。

川柳では俳句でいうところの句会というのはあまりなく、「大会」という形式が一般的らしい。百人から数百人くらいが一堂に会して、複数の兼題全部に対して投句するのである。投句は膨大な量となるので、いちいちにコメントしている暇はない。 そもそも参加者は講評にはあまり関心がなく、自分が採られたかどうかが問題なのだそうだ。選者に採られることを川柳では「抜ける」という。 さらに選句のしかたも、基本的に選者の好き嫌いでいいらしい。選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせを飛ばせるわけで、批評が育ちにくく、文芸ジャンルとしての自律性が得にくいというのは、この辺にも原因がありそうである。
なるほど。センリュウ国の生態の一部がここに知らされていて興味深い。と同時に、われらが関悦史が「選者個人の川柳観と普遍性とのすり合わせ」ということに着目しているところがハイク国の生態を示しているわけでもある。俳句においては個人的な批評と普遍的な批評とは「すり合わせ」るべきもの、というのが関氏の態度だ。個別の一句の批評がそのまま形式そのものへの批評として帰納されうることを前提に論考する、その姿勢は俳句の特徴として、まことに共感(まあ、形式の約束事を形骸化して、その形骸のカチコチを無検証に演繹することで「俳句をやってます」ということにしちゃう場合があるのも弊害となるわけではあるが)。

さるにても、文芸ジャンルとしての自律性が得られない、というのはどういうことだろうか。

「川柳って何?」「ん?俳句から季語抜いたヤツじゃない?」というようなやりとりがあるとして、俳句の相対的な位置でしか認識し得ないということなのだろうか。




初ざくら自愛ほとほとくたびれる  池田澄子
遠くの船につい手を振って青水無月

初恋のあとの永生き春満月

デリケートな感情を書くのがうまい。それも概念で括りえない感情を提出する。その時々の彼女の見ているものや考えていることをくっきりと受け取ることができ、捉えている世界が見える。それは主体がはっきりとし、事象をしっかりと見据えているからである。彼女の文体はありきたりではなく、そこかしこに工夫が施されている。従来のオーソドックスな俳句では掬い取りにくかったものを掬い取った。彼女の髪にとめてあるヘアーピンはどんな金庫破りも手が出せなかった俳句の新たな領域の金庫を開け放った
樋口由紀子の新刊『川柳×薔薇』は評論集。

掲出の文は「固有性と独自性」と題した池田澄子小論。口語体と韻律のありようをもって池田澄子の個性を指摘し、対象の捉え方に「従来」にない非凡さを指摘している。指摘はしているが、どうしてそういえるのか、その論拠はほぼ「評者がそう感じた」、ということにかかっているようである。

  初恋のあとの永生き春満月

この句における「春満月」はどのように機能しているのか。

「初恋のあとの永生き」を端的にまとめてみせた<喩>であるともいえようが、同時に、四季の移り変わりを人生におきなぞらえた上での春の役割を作者は意識しているだろう。「初恋のあとの永生き」という<経過>としての時間と「春満月」という<点>としての時間をひとつに折り畳むのは、すくなくとも「作者が個人的に抱く感情」+「季語」=俳句 という図式ではない。

むしろ季感そのもののイメージ、関悦史の言葉を借りれば「普遍性」をまず飲み込んだ上での一句ともいえよう。あえていえば「春満月」のひとつの<喩>として「初恋のあとの永生き」がもてなされていると、とらえることさえできるのではないか。

と、こんな理屈を述べるのは、やはりハイク国の住人的なんだろうなぁ。

実のところ、作品という次元で考えると、現代俳句と現代川柳との区分は見いだしにくい。俳句作品そのものが、その表現の特徴に於いてが一枚岩というわけでもない。

ああ、そうか、やはり。読みの方向が異なるんだな。

俳句と川柳との差を形成しているのは、読者、か。

見ているものや考えていることをくっきりと受け取ることができ、捉えている世界が見える。それは主体がはっきりとし、事象をしっかりと見据えているからである。
この部分は、池田澄子の批評のカタチを借りた、川柳の川柳たるところの言挙げなのではあるまいか。

しかるに、『川柳×薔薇』とは、川柳作家がみずから川柳を追う姿勢を告白する一冊であり、そうした追いかけ方が批評としてどのような姿をすることになるか、その可能性の一稜線として味わうべきなのであろう。

ここで私は選と見直しを終えた後、時間が余ったので、何の気なしに、選んだ句を全部番号順に並べておいた。 これが実は川柳大会最大のタブー(?)であったらしい。 私が披講する番になり、採った句を読み上げはじめたら、五、六句目あたりから、これはどうも番号順に並べられてしまったらしいと悟った会場がザワザワザワとどよめき、笑い始めた。 終わってから樋口さんが、言うのを忘れていた、まさか番号順に並べるとはと飛んできた。川柳大会の披講はランダムに並べるか、後ろの方ほどだんだん良くなるように配列するかのどちらかなのだそうで、番号順の披講というのは私に実際にやられるまで予想すらしなかったらしい。ここが少々不思議なところではあるが、俳句関係者は今後川柳大会の選者を務める機会があったら、一応念頭に置いておいたほうがよいかもしれない。俳句関係の何人かと話したが、川柳大会のこの習慣について聞いたことがあるという人はいなかった。(前掲・関悦史 「私が川柳大会について知った二、三の事柄」より)
なるほど、感動の順、か。

全体像へのまなざしよりも、向かい合う一句への情熱を優先するわけか。

川柳は前句付けから始まった文芸である。(『川柳×薔薇』「はじめに」より)
前句付けといえば「斬りたくもあり斬りたくもなし」という題がまずあって、そこに「盗人をとらえてみれば我が子なり」と付ける仕儀であるが、その回路は、人間として「ああ、わかるわかる」と膝を打つことでつながっているといえるであろう。

一方、俳諧の連歌においては、季の遷り、言葉の「句去り」を意識して進行させる、すなわち、未知なる全体がありその表現のひとつとして現前の句があるという発想があり、すなわちその回路は、人間の生き方や感情よりも、語同士の響きあいの方に重きを置きつつ、付きつつ離れることで結ばれるものとなる。

こうしたバックグラウンドが、今日すべて引き継がれているとは思えないのだが、すくなくとも読者が形式に何を期待しているのか、その姿勢は、俳句よりも川柳の方がはっきりしているように思えるのは私だけだろうか。

おそらく近代における「俳句」の<発明>が、文芸としての出自と表現の見とどけどころの少なからぬズレの発生源。そこを掘り下げるのは当文章の主旨ではないが、川柳において古層と現代とがしっかりと地続きであることをこのところ感じていることは『川柳×薔薇』の読後感として報告させていただきたい。

さきほどの関悦史の懸念、川柳においては批評の育ちにくさが文芸ジャンルとしての自律性の得難さにつながる、ということについてであるが、むしろ、普遍性やら仮想された全体やらへのすり合わせをあえてしないことで、古層とのつながってしまうようなところにこそ、文芸ジャンルとしての川柳の自律性を樋口が見いだしているのではないかとさえ思えてくるのである。

(池田澄子の独自性を述べるにあたり「従来のオーソドックスな俳句」と異なるというのだという筆者の指摘は、その「従来のオーソドックスな俳句」とはどういうものであり、どのような点において池田澄子が突出しているかを論述しなければならなくなる必然を含んでしまう。俳句批評としてあげつらうならば、そこに筆が及んでいないことに触れなければならない。

しかし、本書の意義は川柳の批評の立ち姿にある。むしろ、通時的な視野にちょっと触れることで、「感じること」を重んじる筆致の一貫性に余分なブレが加わってしまったのを本書の瑕として惜しむことにしたい。)



さて、そうした川柳の読み方にふさわしい作家として攝津幸彦の作品に再会したのも『川柳×薔薇』においてである。
一般常識からズレていて、答えが明示されないので、焦点が合わせられない。まして全貌を把握することなど到底できない。だからといって、誰か巧者に読み解いて欲しいとも思わない。理解不能で面白い。それだけで満足する不思議な作品である。(「籤箱からの言葉」より)
樋口由紀子が「私の宝物」とする攝津幸彦句集『與野情話』への文章から。

攝津幸彦は、きわめて俳句的な作家であり、方法を追い求めておのれの私情を去り、であるからこそ、自己の世界を歪ませて見せることができた、と山田は個人的に思っているのだが、そのことはさておくこととしよう。

攝津幸彦の句の持ち味を壊さないように解説しようとすると、これが至難の業なのである。とくに俳句の全体像を仮想して、その「普遍性」とのすり合せをしようとすると、その回路の複雑さ飛躍の非凡さにいなされることとなり、よしんば、そのあたりを散文化してみせたところで「余計なお世話」レベルの言辞になってしまいがちなのである。

しかるに、「理解不能で面白い」という樋口の感じ方こそが、攝津幸彦へのただしいアプローチなのかもしれない。「理解不能だが面白い」ではなく「理解不能で面白い」という感じ方に、川柳の現在を見いだしてしまう。また、ともすれば「理解不能でつまらない」と言いのけてしまいがちな、そんな俳句批評の保守化に風穴を開けうる姿勢をも「理解不能で面白い」という認識に対して感じてしまうのだが、いかがであろうか。



さて、本書は三部構成になっており、おおむね、川柳を巡る総論、句集評、作品評とわかれているようである。その第一章、この評論集の巻頭が「川柳における『私性』について」。
時実新子の活躍は「思いを吐く」川柳に勢いをつけ、女性川柳人に浸透していった。川柳を成立させる根拠を私の思いを吐くところに置き、現実の、日常の私をそのまま述べるだけの、日常生活の一面を少しだけ膨らませた「私」のいる川柳が多く書かれるようになった。読み手は悲壮感などの感情移入できるものを好み、難解で複雑なものよりもわかりやすい感情を好み、共感した。 (中略) 時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いた。しかし、多くは時実新子の現実の出来事の「私」として川柳を書いたと錯覚した。大切なのは「私性」を感じさせる面白みを言葉のどこでどのように関係づけていくかである。言葉より思いの方を重視して、言葉より自分の思いを優位に置き、そこで川柳は「私性」を作り上げてきた。
現実の出来事の主体としての「私」をよりどころとして創作し、そういう「私」を期待して作品を読もうとする行為を川柳の今日までの流れとして客体化した上で、一方、共通の価値観を通じて受けを狙うような既成概念の練り直しが近年の川柳の傾向であるとも指摘、川柳の良質性を活かす独自の機知として、「私」から発するものの見方を私性と位置付けて提案する。

さらに、
十人の男を呑んで九人吐く       時実新子
現身にほろりと溶ける沈丁花      大西泰世
レタス裂く窓いっぱいの異人船     加藤久子
眦の深き奴隷に一礼す         清水かおり
たすけてくださいと自分を呼びにいく  佐藤みさ子
この5句を挙げてつぎのように続く。

時実新子は時実新子という物語の「私」という場で川柳を書いたと先に書いたが、時実新子は自分の作り上げた時実新子の物語から抜け出ることができなかった。しかし、清水かおりは清水かおりの物語を持とうとしていない。佐藤みさ子も同様に佐藤みさ子の物語を持とうとする意識が皆無である。彼女らは出来事化した「私」を語ろうとはしない。作中主体は作者だろうけれど、「わたくしごと」に比重はかけていない。そんな「私」でさえ川柳にできることがわかる。何も起こらなくても、何も起こさなくても「私」という存在は得体の知れない、不思議な面白いものなのである。
ここにおいて、樋口の言う「私性」というものが、「わたくしごと」から離れ、共感を得やすいような既成概念の練り直しからも離れたものとして位置付けられていることは、わかった。

とはいえ、私性とは個人的な出来事を含まない主体のありようだとして、それは作者が意図するべきガイドラインのようなものであるとするならばまだしも、たとえば読者として作家を区分する上での特徴として用いるには、読みが恣意的になる傾向を避けられないのではないだろうか。どれが「私」という場から離れていて、どれが既成概念から距離をとっているのか、それをあらかじめ読者が見分けられるのかどうか。

たまたまなのかもしれないが、上記の5人では、脱「時実新子」、という視点があらかじめ予定された上で、性的な物語性をふくむか否かという線引きを「私」という場からの距離の実例へと引き写してしまっているだけのように思えるのであるが。

論はさらに川柳と俳句の比較へと続くのだが、これには「ちょっと待った」をかけたくなる。

縄跳びをするぞともなかは嚇かされ  石田柊馬
赤ん坊に もなかの皮に ある時間   

山の向こうにやさしいもなかが待っている

三月の甘納豆のうふふふふ      坪内稔典

四月には死んだまねする甘納豆
十二月どうするどうする甘納豆
を挙げて、まずは、
石田柊馬の川柳には「私」が見える。彼は「もなか」に心を通わせて、何かを乗り越えようとしている。事情や出来事に対する思いではなく、世間や世界に対しての意識を、言い換えれば、不条理と自分自身の関わりを「もなか」を仲立ちにして、引き上げている。「もなかは」の「は」、「赤ん坊に」「もなかの皮に」の「に」などの助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている。石田柊馬の川柳に「私性」の一つの捉え方を垣間見ることができる。
と論じているのだが、「もなかは」の「は」、「赤ん坊に」「もなかの皮に」の「に」などの助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている。という部分において、どうしてその助詞に「私」の意志が含まれているといえるのか。そこに明らかに「私」が存在しているというが、その「私」とは樋口が述べてきた「私性」とどのようにかかわるのかが、よくわからない。

どうもお菓子つながりということで、「甘納豆」の登場となったようなのだが、こういっちゃなんだが、どうしてよりによって坪内稔典のこのあたりの句を以て俳句の一般性へと論をつなげてしまうのか。そこのところもよくわからない。これらの句を評して
作者がものに向き合い、いかに対処するかというのではなく、ものというのは、作者がいなくても「私」をなしにしても、「私」がどう思っても、そのままでそこにあるのではないかという書き方である
とあるが、掲出の坪内の句は、「言葉遊びで面白がっている自分」が甘納豆と一緒にスナップショットのフレームにおさまっているような趣であり、どちらかといえば「私」が感じられるタイプの俳句作品なのではないだろうか。

あ、しまった。本書の面白みは「感じ方」にあると認識したばかりであった。

こまかいところで立ち止っていては、本書の魅力を伝えそこねる。


そういえば、なにげなく読んだ新聞記事に目が釘付けになり、「ああ、私には俳句は詠めない、川柳でよかった」と痛切に思ったことがあった。長谷川櫂の「古典について」というエッセイで朝日新聞に数日連載されていた。「古典を学ぶということは一も二もない。幾度も自分を殺すことである。そして、ことばのはるか彼方から響いてくる言葉の声に耳を澄ます」ものであり、「個性、才能、自己表現。そんな恥ずかしいものを見せびらかしたい人は勝手に見せびらかしてくれ。早晩、時間がきれいに洗い流してくれる」と書いていた。「個性、才能、自己表現」どれも私の憧れるものである。たとえそれが取るに足らない恥ずかしいものであっても私はそれにこだわりたいし、そこで表現していきたい。(『川柳×薔薇』「詠めばわかる」と題された文より)
まるで自分の作品は時間に洗い流されることが無いとばかりの高所からの長谷川櫂の口吻には閉口するが、それはさておき、作者の態度を制限することで良い作品が生まれると思っていることに俳句表現の「つまらなさ」を樋口が感じているとしたら、山田は樋口を支持する。

俳句には「人からクレームが付けられないように作りたい」という作者の姿勢と「そういう配慮があるんだなあ」と読み取る読者のキャッチボールのようなやりとりが見受けられることがある。実のところ、これは俳諧の連歌のマナー(ヘタだと「二の句が継げ」なくなる)。

そうした他律的な「制限」をどうやって自律的な「制限」へと切り替えていくのか、そこにこそ俳句が近代以降直面するはずの課題があったのではないか。こうした「全体への配慮」を解体していく過程こそが、俳句における「私性」と向かい合うことになるはずなのだ。しかしながら、ともすれば、句の向こうに私生活(わたくしごと)がどれほど垣間見えるか、といった程度にしか「私」をめぐる議論がふくらまないのが、俳句を巡る現状の課題であろう。

作品を通じて人を見とどけ、また、人を見とどける読者を想定して言葉と向かい合う、そのやりとりの情熱を、まことにわかりやすく伝えてくれるのが、『川柳×薔薇』の魅力。「私大好き」という自己愛から距離をとりつつ「私」をめぐる考察を重ねていって、とはいえ結果的に評者の「私」を感じさせてやまないスタイル、これは川柳の評論の特徴なのか、樋口由紀子のスタイルなのか。まあ、その判じ難さそのものも川柳の余裕なのかもしれず。一冊を通して出会える川柳作品の面白さくすぐったさも手伝って、愉しい一冊、読後感、爽快。



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