2011-06-26

〔超新撰21を読む〕田島健一の一句 生駒大祐

〔超新撰21を読む〕
たじま酔い
田島健一の一句……生駒大祐

空がこころの妻の口ぶえ花の昼  田島健一

〇.

「しずる酔い」という言葉がある。

佐々木あらら氏の作成した短歌を自動生成するスクリプト、「星野しずる」の作品を読んでいると起こる現象で、「星野しずるの歌を長時間、大量に読んでいると脳の調子が悪くなってくることがあり、この現象を『しずる酔い』と呼んでいます。」とのことである。

超新撰21の巻末の座談会にも、筑紫氏の「自動筆記的な作り方になっている気がする」という言葉があるように、田島氏の作品を読んでいると、「しずる酔い」と似たような「たじま酔い」とでも言いたくなるような「酔い」が回ってくることがある。

しかし、「しずる酔い」が「脳の調子が悪くなってくる」というどちらかというと「悪酔い」を指す言葉であるのに対して、「たじま酔い」は僕にとっては「気持ちいい酔い」である。この二つの差異はなんなのか。ちょっとだけ考えてみる。

一.

まず、「しずる酔い」に関して。「しずる酔い」とは作成者の佐々木氏によれば「短歌を読み慣れている歌人たちは、どんなに飛躍のある短歌でも無意識に、強引にでも理解しようと頭をフル回転させます。その結果、精神にちょっぴり悪い影響を与えてしまうようでした。」とのことである。

僕が実際にしずる短歌を読んでみたところ確かに「酔った」。それを僕なりに分析してみると、

・助詞と名詞の非対応性による文意自体の取りづらさ
・抽象的な語彙が多いことによる多義的な解釈の可能性
・文に意味がある保証が無いことによる無意識の不安感

に集約されるように思われる。

さて、それらはたじま俳句にも当てはまるのかと考えてみると、実は全く当てはまらない。たじま俳句の助詞と名詞の扱い方はごく常識的であるし、座談会で高山氏が指摘するように形容語は多いもののたじま俳句の中心は意表を突いた特有の述語の扱いにある。

では、全く自動筆記的ではないかというとそうともいえなくて、取り合わせの飛躍が大きい点は確かで、そこが単語の連なりの無意味性を感じさせ、そこは一見自動筆記的ではある。

例を出すなら「机にリンゴが置いてある」という常識的な文章に対して「リンゴに机が置いてある」と書く(「リンゴに~が置いてある」という構文はあまり見かけないが、「~に~がある」という構文が決めうちであり、そこにリンゴがランダムに嵌るため意味が取りづらい)のがしずる的、「机に偶然が置いてある」(「机に~が置いてある」という構文は守りつつ、そこに飛躍がある単語を持ってくるのがたじま的)といったところか。

では、単なる自動筆記の偶然性とたじま俳句の違いはどこにあるかというと、先ほどのしずる酔いの原因の第3項にあるようだ。すなわち、たじま俳句は「信頼できる」のである。

それは人間が書いているという暗黙の信頼感以上に、たじま俳句の飛躍に一定のリズムがあることによるようだ。それは抽象的な語彙と具象的な語彙が一定の感性で組み合わさっていること。同じ語彙が違う文脈で参照され、しかし、文脈が違うことによる意味の微妙なずらしがあること。それでいて韻律の多彩が読者を飽きさせないこと。などに拠る。


そのために、一見意味が分からないはずなのに、なんとなく「風景」が見えてしまうことへの戸惑いすら覚えてしまう。いつか見た光景/いつか見えるはずの光景がそこには、ある。

そのリズムに乗ってどこまでも「風景」を見続けたくなってしまう状態。それが「たじま酔い」なのかもしれない、と思った。

二.

掲句。
「空がこころの妻の口ぶえ」のフレーズのなんと心地良いことか。それを祝福するかのような「花の昼」は、とても明るい。

言葉が言葉のまますうっと心に入ってきて、心の中に風景を作る。この作者はたぶん言葉を、そして言葉の宛先を信じている。そういう人の俳句だからこそ安心して酔ってしまうことができる。



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