2011-06-05

成分表44  完成度 上田信治

成分表44 
完成度


上田信治

「里」2009年5月号より転載


「蚊はなぜ、わざわざ刺した跡を痒くするのか」と言う人がいる。

蚊も、あれさえしなければ、人に憎まれ打たれることが少しは減るだろうに、というわけだ。たしかにそれは、進化論的にどうなのかと質問したくなる所だ。

かといって、あれらが不完全な生き物かというと、そうでもない。羽音といい、病気を媒介することといい、蚊は「人が嫌がるもの」として、たいへん完成度が高い。

生き物と完成度といえば、生き物好きで知られる秋篠宮一家が、家で飼っているマーラという齧歯類は、ネズミと鹿のハーフのような姿なのだが、枝のように細い前肢が今ひとつ「使えていない」というか、浮いている。形態的に、何ともこなれていない印象を与え、あれはかなり、完成度が低い生き物だと思う。

完成度という概念には「すべての細部が、全体に関連づけられている」という性質が内在している。

完全な絵画においては、画布上のすべての筆触、色彩、形態が、絵画全体にとって有意味である。完全な映画においては、そのすべての細部が映画の持続するトーンを担っていて、そこに無駄なもの、唐突なものが何もない。予想を裏切り、唐突に混入したと見える要素さえ、やがて全体に奉仕するものとして回収される。

すべての細部が志向するものとして、その全体性がある、結果的にでも、そういう成り立ちをしているのが、作品というものだ(マーラという生き物は、どこか習作めいていた)。

完成度とは、辞書的に言えば「ある完全を基準とした到達度」であって、つまり完成度とは、必ず、何かについての完成度である。

「玉のような」と、その完全(あるいは全体性)を呼んでしまうと、話が、既成概念としての完全にどれだけ近づきうるかという、世知辛い受験勉強のような方向に行ってしまうので、それを、仮に「茶碗のような」完全、あるいは全体性と呼んでみる。

それは、前もっては存在しない。ひねりあげて焼き上げて、その都度、初めてそこに現れる完全である。色、形状、手触りといったすべての細部が奉仕するそれは、茶碗「それ自体」としか言いようのない全体である。

「それ自体」と呼べるものがなければ、作品ではないので、陶芸家は、窯から出した茶碗をぽんぽん割るのだろう。それは一目で分かる。


 松虫のりんともいはず黒茶碗  服部嵐雪


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