八田木枯 戦中戦後私史
第2回 父の句、そして俳句少年以前
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫
≫承前:第1回「ホトトギス」に始まる
『晩紅』第16号(2003年7月25日)より転載
大正時代の新感覚
木枯 父(海棠)の句のことを話したいと思って、十句ほど書き抜いて持ってきました(後掲)。全部集めれば二百句ぐらいはあるかもしれませんが、残っている資料が実に少ないのです。前にも話しましたが、昭和二十年七月の空襲で、二十年分ぐらいあった「ホトトギス」の合本が全部焼け、父の日記も明治の末ごろから昭和五年ぐらいまで二十年分ぐらいあったのですが、これも全部焼けてしまいました。昔の人は日記をまめに書きましたから、貴重な資料だったのですが。
その父の日記の中に俳句が書きこまれていました。そのほか句会報なんかにも父の句が出ていました。「ホトトギス」には、北海道から九州まで各地で開かれた句会の句会報が三段組にして載ってまして、その中に三重県では父のやっていた寒鴉(かんあ)会なども入っていました。そういうところから、父の句を見つけては拾ったのが手元にあるのです。
――いつごろの句ですか。
木枯 大正十年ごろですね。いまから八十年以上前です。父が結婚したのが大正九年です。実は、私の家は三代続いて婿養子だったのですが、父はその三代目の婿でした。
――そうすると、木枯さんは待望の男の子というわけですね。
木枯 いやいや、私は長男じゃありません。兄が生まれて、ようやく養子じゃなくなったんですが、大正十年十月、兄が生まれたとき、父はこんな句を詠んでいます。
木枯や出産の電話十時過ぎ
この句を読むと、昔はみんな自分の家で出産したものですが、兄は病院で生まれたということが分かります。そして病院から電話があったんですね。電話といえば、町内で2軒か3軒しかなかった、そんな時代ですね。私の家は、材木商だから電話があったわけですが。
こういう句を読んでみると、俳句というのはあまり架空のことばかりではつまらなくて、折にふれて日記風な句も作っておくと、そのときの様子がよく分かりますね。木枯が吹いていたんだな、兄が生まれたのは十時ごろだったのだな、と。
――お父さんは何年のお生まれですか。
木枯 明治二十九年です。学校を卒業してほどなく製材関係の仕事で、北海道へ行ったようです。その後、仕事のかたわら、新聞社から頼まれて、北海道における製材関係の労働事情といった報告を伊勢新聞に連載していたのです。その連載の記事を読んでみたいと思い、いまひとに頼んだりして探しているところです。たぶん大正四、五年ごろのことだと思うのですが。
――お生まれから計算すると、二十歳くらいですね。ということは、これらの俳句は二十代の作品ということになりますね。
木枯 もちろん、そうです。
――それにしては、ずいぶん大成した句ですね。それにどこか木枯さんの句に通じるところが見受けられるようです。幼いころにご覧になって自分も俳句をやりたいなと思ったり、影響を受けたことがあるのでしょうか。
木枯 いや。父の句を知ったのは、父が亡くなって後、私が小学校を卒業したころです。父の俳句を見てまず思うことは、八十年前といっても俳句なんてあまり変わらないな、ということですね。
木枯に伐られし山の明るさよ
この「明るさよ」の「よ」の使い方は、大正時代の俳句にはあまりないかもしれませんね。
――高屋窓秋の「山鳩よ見ればまはりに雪が降る」というのはいつごろでしたか。
木枯 あれは昭和十年ごろですからね。
――この時代に「明るさよ」と詠んでいるのは、ちょっとびっくりです。「木枯に伐られし」は、もちろん擬人化ですが、木々が木枯になぎ倒されて広々とした山の明るさを詠むという感覚が新しいですね。
木枯 少年のころに読んだときはそういう感じは全然分からなかったのですが、いま読んでみると、なるほどこれはちょっと新しい感覚だな、と思いますね。まあ、たぶん鈴鹿野風呂(のぶろ)といった「ホトトギス」の人たちとの交わりの中から生まれてきたんでしょうね。この十句の中で「新涼や手桶に赤き仏花」は、水原秋桜子に採られています。「ホトトギス」には、題を出して集まった句を、水原秋桜子や原石鼎が選句する欄がときどきあったんです。
――「新涼や」がいいですね、とくに赤という色を点じたところが。
木枯 私がいちばんはじめに読んだ句というのは、やはりこういう父の句で、そこから俳句に入っていったわけです。
椎の根に白く匂ふや蘭の花
これなんかも、なんか新しいところがあるように思いますね。
――蛇笏の「春蘭の花とりすつる雲の中」に通じる格調を感じます。昔の二十五歳は、いまの二十五歳とは違うのでしょうが、それにしても年を経た落ち着きの感じられる詠みぶりですね。
島村元の与えた刺激と影響
木枯 話が変わりますが、わずかに空襲を免れて手元に残った父の蔵書を持ってきました。「漱石俳句集」(大正九年刊)、「島村元句集」(大正十三年刊)、そして「袖珍(しゅうちん)・俳句歳時記」(大正七年刊)の三冊です。袖珍はポケット版ですね。あの時代は、夏目漱石は非常に人気があってみんな読んでいたんですね。
慶子さんは、ホトトギスの島村元(はじめ)はご存じですか。島村元という人は、お父さんが、趣味の能を通して高浜虚子と友達だったという縁で、ホトトギスに入ったんですね。慶應大学の学生時代に病気になり、それから俳句をはじめたのです。実際に俳句を作っていたのは十年ぐらいで、若くして死んでしまうのですが、虚子がホトトギスの後継者と考えていたくらいの俳人でした。島村元の句は、いまでは、知っている人がほとんどないでしょう。
囀やビアノの上の薄埃
――はい。有名な句で歳時記にも載ってますね。
木枯 これ以上の「囀」の句はないといわれた句です。余談ですが、島村元には「春雷や蒲団の上の旅衣」という句もあって、それ以来「…の上の…」というのが大流行したといわれてるんです。いずれにしても大正十年ごろの句ですから、とても新しい句です。
――取り合わせの感覚が新鮮ですね。
木枯 父はこういう句に刺激を受けたのだと思います。非売品だった「島村元句集」を入手して愛読していたんですから。島村元の俳句には品格があって、どこか後年の松本たかしにも似たところがあります。俳句を作りはじめたのは大正二年ごろからで、ホトトギスでは非常に注目された俳人です。
――そうすると、お父様が十代から二十代のころは、島村元の全盛期に当たるのですね。
木枯 だから島村元につよく刺激されたかな、と思うのです。「島村元句集」もそんなに多くの部数を作ったとは思えませんね、それを入手していたくらいですから。ほかに父の蔵書で残っているのは長谷川零余子です。
「袖珍・俳句歳時記」を見ますと、父の旧姓「石井」の蔵書印が押されていますから、これはおそらく学生のころから愛用していたものでしょう。
――そうすると、俳句は十代のころからずっと続けておられたのですね。
木枯 ええ、学校の雑誌なんかにも俳句を載せています。なにしろ俳句の盛んな土地柄でしたから。
母の思い出、父の思い出
――お母様は、どんな方だったのでしょうか。
木枯 母は東京の女学校へ行きました。大正のはじめのことですから、女の人が伊勢からはるばる東京まで勉強に行くというのは、いまのアメリカやヨーロッパへ留学するというのよりたいへんなことだったかもしれませんね。母の叔母さんに当たる人が、東京に住んでいて英語の先生をしていたのだそうで、そこへ下宿して女学校へ通ったのだそうです。最近、偶然に分かって驚いたのですが、その叔母さんの家というのが、四谷坂町で、この晩紅舎(新宿区三栄町)の目と鼻の先なのです。
母は、夏休みになると、汽車で十何時間かかって津の家まで帰ってくるのですが、津の駅に下りると、なにしろ葡萄茶(えびちゃ)の袴に編み上げの革靴という、東京の女学生のスタイルですから、人がおおぜい寄ってきて、もの珍しさでじろじろ眺められたものだそうです。
――ずいぶんハイカラな方だったんですね。でも学校を終えて職業婦人になったりはされなかったのですね。
木枯 まだ職業婦人という言葉があったかどうか、という時代でしたから。
――どういうご縁で結婚されたのですか。
木枯 父は、伊勢の一志(いちし)郡の山林家の三男坊だったんです。
――山林家? 山持ちの家ということですか。
木枯 そうです。山林を持っていて、大きな木を五本も切って売ったら、一年楽に食っていける、というのですから、山林家というは楽ですよ。
――そうですか。それではお父様は、もともと林業の仕事をしていらして、北海道の大沼に行かれたのもそういうお仕事の関係だったのですね。
木枯 そうだと思います。
――ふだんのお父様の思い出というと、どんなだったのでしょうか。いつもうちにいらしたのですか。
木枯 材木商でしたから、普通の勤め人とはまったく違う生活でした。人は多いし、朝は早いし、まず家庭という感じはまったくありませんでしたね。大工なんかが朝早くからおおぜい来て、材木を持ち出して行くわけです。昔の商売人の家はみなそうですが、人が来るまでには掃除なんかもきちんと済ませておかなくてはいけませんし。
――おおぜいの雇い人がいたのですね。
木枯 関東では小僧といいましたが、私たちのところでは丁稚ですね、そういう人が十五人ぐらい朝早くから忙しく動いているんですから、子どもだからといってかまってくれないですよ。
――お父様の働いている姿を間近に見ていたわけですね。俳句を作っているところなどもご覧になっていたのですか。
木枯 商売人ですから、とてもとても俳句なんか作っているような暇はありません。まあ、月に一回ぐらい句会に出たりしていたんでしょうね。それでも、ほかに謡をやっていまして、謡と俳句だけはずっと続けていたようですね。
――ご兄弟は何人ですか。
木枯 兄と私の二人兄弟です。
――お兄さんは俳句はやらなかったのですか。
木枯 やったと言えるほどでもないですが、それでもホトトギスに十回ぐらいは入選したでしょう。
――兄弟で出していたんですね。
木枯 その当時、親戚にも俳句をやっている人は何人もいました。
――お母様はなさらないのですか。
木枯 晩年に「霧の音」ですこしやっていました。
出自は京の五条の問屋町
――ほかにご家族は…。お祖父様はいらしたのですか。
木枯 両親のほかに、祖父がいて、その上の親までいたんです。いちばん上のじいさんは嘉永の生まれですが、そのじいさんとも話した記憶があります。昭和十年に八十四歳でなくなりましたが、身体のがっちりした人でした。そのころの八十四歳はたいへんな長命でしたね。
――三代の養子さんが揃ってご健在だったのですね。
木枯 そうです。三人とも婿養子です。その前の人が京都の五条の人で、おそらく嘉永とか弘化のころに、伊勢へ来たのです。僕が「先祖は京の五条の出だ」と言うと、「橋の下ですか」とみんな聞くんだけれど(笑)。橋の下ではなくて、五条に問屋町(といやまち)というのがあって、そこの青物屋(八百屋)の次男坊だったそうです。跡継ぎじゃないから、おそらくなんかの縁を頼って伊勢へ来たんでしょうね。
――そうですか。京都とのつながりがあるのですね。
木枯 そうです。だから飯島晴子さんともよく話が合いましたね。
――その方が伊勢に出てきて、一代で材木商をはじめたのですか。
木枯 そうです。最初は八百屋だったようです。八百屋といってもだいぶ大きなことを考えていたようで、津へ来てから、何人かの八百屋と連名で、青物市場の創設を藤堂藩に願い出ていて、その願書が、いまも資料館に残っているんです。ところが、魚市場は昔からあったんですが、青果はダメだということで却下されてしまった。どうも青物市場は明治の半ば過ぎから作られるようになったんですね。
――ずいぶん先見の明があったのですね。もちろん、八田さんという名ですよね、京の五条の方は。
木枯 そうそう。京の五条の問屋町あたりには八田という姓が多いんです。
――材木商をはじめたのはどうしてなのでしょう。
木枯 そのへんはよく聞いてないのですが、青物市場がダメということで、転身したのかもしれませんね。
――企業家というか、ずいぶん商才のあった方なのですね。
木枯 まあ、そうかもしれませんね。商才といえば、話が変わりますが、津の殿様、藤堂さんもいわば商才に長けた人で、藤堂家というと、どこへ行ってもあまり評判がよくない。藤堂さんは江州(近江国)出身で、武士というより商売人なんですね。
たしかに藤堂高虎という人は才能のある人でした。豊臣政権の盛んなときでも、先を見越して徳川家康に近づいたり、世の中を見る目のしっかりした人で、そういうところは、やはり江州の商人のセンスなんですね。経済を通して世の中の動きを見ることのできた人です。
最初は伊予藩の七万石だったのが、徳川家康に気に入られて伊勢伊賀の三十三万石の大名になります。その藤堂藩が幕末まで二百六十年の間、禄高がまったく変わらずに来たわけです。それだけ律儀できちんとしていたのだと思いますよ。
おそらく幕府は何かあったら禄高を減らしたり、取りつぶしたりしよう考えていたでしょうから。しかも、尾張と紀州という二つの徳川家にはさまれていたのだから、たいへんなことです。
関ヶ原では徳川につき、幕末には、お付き合い程度に官軍に兵隊を出しただけなのに、藤堂さんは、また器用に明治政府に入るんです。先見の明があるというか、世渡り上手なのです。そのかわりどこへ行っても人気がないし、評判はよくないですね。
――ずいぶんユニークな殿様ですね。
木枯 藤堂藩は、きびしい藩でした。着る物から足袋まで、いろいろ取り決めがあって、それをやかましく守らせたのです。たとえば、三月過ぎたら、足袋をはいてはダメだとか、そんな細かいことまで全部決まっていたそうです。そんなふうに質素に質素にしてきたから、藩が幕末まで生きのびてきたのでしょう。
西田天香の一燈園へ
――話が変わるのですが、お嬢さんが夕刈さんというめずらしいお名前ですね。どこかで、木枯先生の本名も「刈」の字がつくと聞いたことがあるのですが、ほんとうですか。
木枯 ええ、日刈です。
――どういう由来なのですか。
木枯 それがすこしややこしい話なんですが、日刈の前は光だったのです。
京都の一燈園というのをご存じですか。西田天香という人がはじめた懺悔と奉仕を重視した新生活提唱の道場ですね。父はその一燈園の信奉者だったのです。信奉者といっても一燈園での共同生活に加わったというのではなくて、一年に一回、一燈園の行事に参加したのです。朝早くから掃除などの奉仕をしたり、講話を聞いたりする、そういう集まりに参加した。私も小さいころ連れられて行ったことがあるんですが、近所の農家などへ出かけていって、その家の庭掃除から便所掃除までしてくるわけです。
その一燈園が出していた月刊誌の名が「光」で、そこからとって光と名づけたのです。一燈園は宗教は何教の信者でもかまわないのですが、財産をなげうって俗世間を捨て去った人たちがおおぜい集まって共同生活をしていて、尾崎放哉も一時期入っていました。
――お父様は、ずいぶん理想主義的な方だったのですね。
木枯 祖父は商売一本の人でしたが、父はちよっと違っていましたね。俳句をやったり、一燈園へ行ったり、たいへんな商売をしているわけですから、なにかに救いを求めていたのでしょうね。
――お父様の「姫百合の花二つなり朝曇り」「小山田の水にかばかり散桜」といった作品を拝見しても、清浄さとか繊細さがよく表れている感じがします。そういう方が一方でたいへんな事業をしていらしたわけですね。いかにも自由な雰囲気の大正時代に生きてらしたという感じがします。
木枯 自由な時代と思われていますが、実際には、大正もたいへんな時代だったと思いますよ。もっとも、伊勢あたりは、大金持ちもいない代わりに、今日食べる米もないといった貧乏人もいなかった。なにしろ気候風土のいいところですから。だから大物の政治家も出ないし、作家でも宮沢賢治や石川啄木が生まれるような土地柄ではありませんね。軍人さんも出ません。とにかく戦争とか政治とかに関係なくてもなんとか生きていけますからね。
――山国と違って、海に近い豊かな土地柄というわけですね。
木枯 そうです。同じ三重県でも伊勢と伊賀では、まったく違いますね。芭蕉も、おそらく兄さんの理解と経済的な庇護があってはじめて、俳諧の勉強ができて、江戸へ行くまでになったのではないでしょうか。伊賀は食べていくだけでもたいへんな山国ですから。
――そうなんですか。
木枯 おそらくそうでしょう。経済を通して世の中を見ると、見えてくるものがずいぶんとあるものです。
伊勢は、前には海があり、後には山並みが鈴鹿までつづいている、そのあいだにある平野ですから、それは住みやすいところです。私の生まれた津でいえば、私の小さいころでも今でもほとんど変わりありませんね。たしかに空襲には遭いましたが、それで大きく近代化した工業化したというようなことはまったくないのです。
少年時代の風景
――手鞠とか傀儡とか鳥追いなどの句をよく詠まれていますが、そういうものは少年時代によく目にしたのでしょうか。
木枯 そうですね、私の世代ですと、実際には目にしたことがなくても、分かるところもあるのです。同じ雰囲気の時代を生きてきましたから。もちろん、見たものもありますけれども、見なくても見たような気がするんです。
たとえば、川端康成の「伊豆の踊り子」は、大正末年に執筆されていますが、おそらく大正十年ごろのことを頭に浮かべて書いたと思うのです。しかし、あそこに書かれている風俗というか雰囲気は、大正十四年生まれの私にも十分身体で感じとることができるのです。それだけ時代の変化が少なかったのでしょう。
総合誌「俳句」に「八田さんでも、江戸時代の生まれじゃないのだから、鳥追いを知っているわけがない」などと書かれました(笑)。それはその通りなのですが、津は城下町で、万歳などはよく来ていましたし、これはよく覚えています。
――子どものころは、どんな遊びをしてらしたのですか。
木枯 独楽とか凧とか竹馬、そんなものですね。
――傀儡師なんかも来ていたのでしょうか。
木枯 傀儡師とか鳥追いとなると、見たかもしれない、というくらいですね。三十年前、五十年前の話を年寄りによく聞きました。それが、おぼろげな記憶として残っているわけです。またそういうものに惹かれて、いつも頭に描いていると、いつのまにか「自分が実際に見た」と思えるようになるということもあります。
私が俳句をはじめた昭和十四年のころには、戦争の近づいている時代でもありますし、もうそういうものは消えていました。それでも、鳥追い、十六武蔵(じゅうろくむさし・正月の盤上遊戯の一つ)、獅子舞などを詠んだ句はまだまだありましたね。しかし、だんだんと句に詠まれるものが変わってきて、さらに戦後になると、以前、歳時記でなじんできた句がずいぶん姿を消していくわけです。
八田海棠作品から
木枯に伐られし山の明るさよ
姫百合の花二つなり朝曇り
濁り江や流れ横ぎる大蛙
新涼や手桶に赤き仏花
長雨を厭ふ竈や蠅生まる
椎の根に白く匂ふや蘭の花
かまつかや蟻匍ひわたる日和風
小山田の水にかばかり散桜
行く春や大川に入る落し水
秋近し折れし木賊の土につく
(第3回に続く)
●
0 comments:
コメントを投稿