2011-07-03

「何か」とは何か 田島健一電子句集『霧の倫理』を読む 山田露結

「何か」とは何か
田島健一電子句集『霧の倫理』を読む

山田露結


雉子ここに何か伝えにきて沈む 田島健一

フジテレビ系列の人気番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』に「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」というコーナーがある。このコーナーはお笑い芸人たちがマニアックすぎて何のマネをしているのかよく分からないモノマネを披露している最中に舞台の床が開いてネタの途中で落下させられてしまうといういわゆるゴングショー形式のモノマネバトルである。

出演するお笑い芸人たちの多くは「オチ」へ辿りつく前に落下スイッチによってネタを強制終了させられてしまうというもの。モノマネがマニアックであること以上に、内容が視聴者に伝わりきらないうちにネタが途中で強制的に打ち切られてしまうこと、そしてその後の余韻やら可笑しさやらを含めたその一部始終がひとつのショーになっていると言えるだろうか。

掲句は電子句集「霧の倫理」巻頭の一句。「何か伝えにきて沈む」から、なぜか咄嗟に「モノマネ選手権」を連想してしまった。ここで仮に掲句をこの「モノマネ選手権」になぞらえて鑑賞してみる。

さて、舞台に登場したのは「雉子」である。なぜ、「雉子」なのだろう。一読して、「雉子」は実際の「雉子」なのか、あるいは何かの象徴や暗喩としての「雉子」なのか、それとも単なる「雉子」という言葉なのか、読者は「雉子」を目の前にして「雉子」が何であるのか、その正体の判別に戸惑う。「雉子」の文字はそこに何かしらの説明を加える以前に既にさまざまな情報を内在しているわけで、読者は意識的、無意識的にそれを感じ取るだろう。また「雉子」の文字から受け取る情報の内容は読者によってさまざまであろう。
読者はさらにそこから「雉子」がどんなネタを展開してくれるのか、どんなオチを見せてくれるのかを期待する。つまり「雉子」が伝えにきた「何か」を知ることによって「雉子」に対する戸惑いを解消しようとする。

しかし、結局「雉子」は「雉子」という文字である以上のことを何も伝えることなく舞台の穴から落下して(沈んで)しまう。「雉も鳴かずば打たれまい」という言葉があるが、この「雉子」は何を伝えにきたのか、自分が何であるかさえも明らかにしないまま、鳴く前に作者によってあっさりと姿を消されてしまうのである。

当然、読者にはいったい何だったんだろうというモヤモヤした不安感が残る。しかし、ここでは「雉子」が何を伝えにきたのか、「雉子」はそもそも何であるのか、ということ以上に「何か」を伝えにきた「雉子」が何も伝えないまま沈んで消えてしまったというその一部始終がひとつのショーなのであり、「雉子」が沈んだ瞬間に、そこから「雉子」の伝えようとした「何か」とはまた別の「何か」が立ち上がる。

そこで、掲句が読者に示そうとしているのは、読後に立ち上がるその別の「何か」の存在ではないだろうかと考えてみる。

「雉子」が現れて沈むまでの一部始終。

これをそのまま俳句表現そのものに対するメタファーとしてとらえることが可能であれば、掲句は俳句という表現形式を機能させることによって生じるひとつの効果の有り様をやや皮肉めいたかたちで暗示しているようにも受け取れる。



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