2011-07-03

現代俳句協会青年部勉強会 『番外編』 レポート 三鬼、語りぬ 生駒大祐

現代俳句協会青年部勉強会『番外編 』レポート
三鬼、語りぬ

生駒大祐


2011年6月26日(日)13時00分 
於・小石川後楽園涵徳亭


2011年6月26日の正午過ぎ、僕は後楽園駅を降りて小石川後楽園は涵徳亭に向かった。
現代俳句協会青年部による勉強会の番外編として、西東三鬼の肉声を聞きながら宇多喜代子氏のお話を聞くという会に出席するためである。
塀に沿って少し歩いて涵徳亭につくと、すでに宇多氏と現俳協の広報の前田弘氏、および青年部の数人は既に席についていた。青年部の面々の表情からはわずかながら緊張の色が伺えた。

時間になるとメンバーも揃い、会は始まった。
今回の三鬼の肉声とは昭和30年代に短波放送用に吹き込まれたもの。カセットテープに収められたそれをCDに復元したものだということだった。
宇多氏は音声を再生させる前に、「自分の中に作家の肉声を蘇らせながら句を読むと楽しい。それが今はみんな分かってしまっているから味がない。だから想像する力が失せていきますよね。それが詩歌に繋がるところだと思うから」と述べた。これは、今から声を聞く前に、「三鬼の肉声をそれぞれ自分の中に持っていたか」という暗黙の確認のように思えた。それは、「三鬼が生きていた」という当然の事実を本当に「事実」として飲み込んで句を読んでいますか?という質問にも変換できよう。それは続いて述べられた三鬼の句作りの理念、宇多氏の理念に繋がっていくものであったと、あとで気づいた。



三鬼の肉声の内容は以下のようなものであった。

「俳句は575のリズムを持つ17音から成っている。また俳句には季節が含まれる。これらには色々複雑な議論があるが、ここでは省きます。俳句は17音で季節が含まれるものとお考えください。」

「俳句が盛んになったのは、戦後人々が心の拠り所を求め、風土的なものからそれを発見した。心の拠り所を失ったのは青年であるから、俳句はいまや青年のものとなったのであります」

「俳句は短いので、時間に追いまくられている現代の人にも容易に近づける」

「人には表現したい欲望がある。しかし、表現するにあたって、短いから容易だとはじめた俳句を、短いから難しいと思うようになるのであります」

「自分の何を表現したいのかが問題。自分と他人と共通のことで、自分と他人に重大なこと、これが俳句を作る上での態度でなければなりません。自分が生きているという自覚、それが大切」

「自分と自然との関わり合いを捕らえ。17音に表現することによって作者は今このとき生きているということを自覚する。これがなぜ俳句を詠むかの答えである」

「俳句につきまとってきた誤った先入観がある。俳句は風流なもの、俳味のあるものといわれてきたが、それらには現代生活から逃げ出したいという消極的な思いがある。ところが自分が生きているという自覚はより積極的なものでありまして、風流という観念とは縁の遠いものでありましょう。よって現代の俳句は社会生活からもなにものからも逃げなくて、立ち向かってゆくものでありましょう。」

「(無花果を食ふ百姓の短かき指 山口誓子 に対して)いちじくをむしゃむしゃと食う百姓の無骨な短い指だけを掴み取れば作者の感動が読む者に伝わるわけであります。俳句は引き算。作者に強い印象を与えたものだけを残してあとは消してしまうものであります。」

「(一湾の潮しづもるきりぎりす 山口誓子 に対して)作者が対象になった夏の海を厳しく見つめて、今生きている自分を厳しく掴んでいる。作者の生きている自覚はそのまま読む者に同じく伝わるわけであります。」

「(久里浜少年院の院生の句、久里浜の霜焼け一手に引き受けた 寒雀震えて止まる鉄格子 に対して)このように俳句を作るには学問は問題ではないんではありまして、言葉を飾らず真実の感動を直に表現すれば誰にでも作れるのであります」



この後に宇多氏に色々とお話を伺えたのだが、その具体的な内容を記述することは避け、宇多氏の話を踏まえて、三鬼の述べたことについての僕の感想をさらさらと述べることにする。



三鬼の話の中で特に重要なのは、

俳句につきまとってきた誤った先入観がある。俳句は風流なもの、俳味のあるものといわれてきたが、それらには現代生活から逃げ出したいという消極的な思いがある。ところが自分が生きているという自覚はより積極的なものでありまして、風流という観念とは縁の遠いものでありましょう。よって現代の俳句は社会生活からもなにものからも逃げなくて、立ち向かってゆくものでありましょう。
という言葉であると僕は感じた。

僕が驚いたのは、三鬼が「社会生活から逃げない」と言って例に出してきたのが、

無花果を食ふ百姓の短かき指  誓子
一湾の潮しづもるきりぎりす

だったということだった。

僕が俳句を詠む/読むときに、「この景が現実に存在するだろうか」ということはあまり問題にしていない。それは三鬼の句を読むときはもちろん、虚子、芭蕉の句を読むときもそうだ。また、いわゆる写生句を詠むときも、実際に見たことがあるかどうかということは実は気にしない。よって、これらの句を読んだときに、「作者の生きている実感」というようなものを特に感じることはなかった。

つまりは、ごくごく当たり前のことながら、社会生活を詠むことと社会生活を読み込むことは全く異なる。三鬼の言う社会生活に立ち向かうということはあくまで社会生活を詠むことであり、単に社会生活におけるモノを詠み込むことではない。

その意味では、社会生活を詠んでいない俳句というものはありえない。僕が社会生活を営んでいる以上、社会生活から全く逃れた俳句を作ることは不可能であるし、僕の俳句が読まれるときに現実社会におけるコンテクストにある程度巻き込まれることは避けられないだろう。

結局、三鬼の言うことは読者の問題に立ち返るのだ。いくら社会生活を詠んでいても読者がそれを読み取らなければそれは伝わらない。逆に、社会生活から一見離れた句を詠んでいるように見えても、読者がそれを読み解けば社会生活は必ずそこに反映されている。



先日のポスト造型論の勉強会において、テクスト論の話が出た。ロラン・バルト「作者の死」(花輪満訳『物語の構造分析』みすず書房、1979)においては
批評」に対して「実際、多元的なエクリチュールにあっては、すべては解きほぐすべきであって、解読するものは何もないのだ
と述べられる。また、
読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間に他ならない
とも述べられる。

読者の誕生と作者の死。作者という「解答」が失われたとき、読者は答え探しから解放されたと同時に、常に「回答」を示す者としての責任が課せられる。
作者の生きている自覚はそのまま読む者に同じく伝わるわけであります。
という三鬼の言葉を空虚と感じるか希望と感じるかどうかは人によってさまざまであろう。

一つの価値観を元に句を作り、句を読み解く。それで充足することは僕にはもうできない。複数の価値観を理解つつその作品にとって適切な読みを「選択」していくことが必要なのではないか。そうなったときに「好きな作品」「共感できる作品」という言葉がいかなる意味を持つのか。

そのときにこそ、「読みとれないけれど好きで共感できる作品」という、「読み」の価値観を超越した存在が僕を癒してくれる。それをもたらしてくれる一人が三鬼であることを僕は嬉しく思う。

滅びつつピアノ鳴る家蟹赤し 三鬼



参考
虚子の肉声:
http://www.haiku.jp/takahama/index.html
三鬼の肉声:http://tsuyama-city.musicfactor.jp/saitousanki/sano/

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