2011-07-24

雑誌を読む 青二才、「女子」を語る 福田若之

【雑誌を読む】
青二才、「女子」を語る

福田若之



生駒さんから『guca2』についての原稿執筆のご依頼が来て、嬉しかったけれど、ちょっとこまった。



『guca2 -はりねずみ探検号-』は、あまりにも自由で、だからそのお蔭で、たぶん僕はその気になればここにさまざまなことを記すことが出来る。佐藤文香さんが米光一成さんに取材した「佐藤文香の「米光先生おしえてください!!」」を読みながら、米光先生発案の俳句対戦カードゲームはビックリマンチョコのような食玩にしたらいいんじゃないかと考えたり、佐藤文香さん発案の俳句カフェが地元にあったら入り浸ってしまいそうだと思ったりしたこととか、松本てふこさんのエッセイ「永遠の愛を誓え」を読みながら、指輪について語る大人の女性の魅力を感じたこととか、「はいく×まんが」を読みながら、石原ユキオさんが描いているミステリアスな電子レンジが、僕の所属しているサークルの部室にある壊れかけの電子レンジに似ていて驚いたこととか、太田ユリさんの連作「ぺんたぐらむ」を読みながら、短歌ってやっぱりとってもドラマチックな詩形だなぁとついつい短歌に浮気したくなったこととか、インタビューやメンバー間の対談で、その場にいない金子兜太さんが、ちょいちょい高校生が校長先生をイジるときみたいなイジられ方をされていて笑ってしまったこととか。

でも、なんか、そういうことをやみくもに並べても、この雑誌の全貌を捉えたことには、ぜんぜんならない感じがする。だから、こまってしまった。どこを、どう書いたら端的にこの雑誌のあり方を伝えることが出来るだろう。

それで、いろいろ悩んだ挙句、『guca2』という題材からしたら少しありきたりかもしれないけれど、今回は「女子」ということをテーマに、ちょっとキーボードを叩いてみようと思った。BGMに、ついこのあいだ中古CDショップで買ってきた、パティ・スミスの「ホーセス」をかけながら。



はっきり言って、僕は「女子」についてほとんど分かっちゃいない青二才だ。

高校受験を終えて、進路がとある男子校に決まった春休み、それまでお世話になった塾の先生に、こんな風なことを言われたのが、印象に残っている。「高校生の時期に男子校なんかに通ってしまうと、同年代のおんなのこたちが女に生まれ変わる大事な時期を見逃すことになるぞ」――だからなんだろうか、僕は「女子」について、何か大事なことを知らないまま、二十歳になってしまったような気がする。

だから、ヴィトゲンシュタインの書いたように「語りうることについては明瞭に語り、語りえないことについては沈黙しなければならない」とすれば、僕に語ることができるのは、「女子」について僕は沈黙しなければならないっていう、そのことぐらいになってしまう。

だけど、それだけじゃ、あまりにもあんまりでしょう。というか、そもそもそんなさびしいことをこんなところで明瞭に語ってどーする。

そこで改めて『guca2』の出番。僕には到底書けないこと――「女子」である人たちにしか書けないんじゃないかと思えることが、ここにはクリアに語られている。とくにその印象を強く感じたのが、「scissors,paper,stone 2」だ。gucaのメンバー三人がそれぞれ他のメンバーの作った一句ないし一首に文章を寄せているこのコーナー。その俳句に短歌に文章に、僕は「女子」ならではの表現を見出せるように思った。



徘徊少女東京湾を恵方とす  佐藤文香


たとえば、この句の「徘徊少女」は、僕にとって、共感の対象、とはちょっと言えそうにない。彼女が何を思って「東京湾を恵方とす」るのか、僕にはこの句からちょっと想像できない。この句をはじめて見たときは、その、想像できない謎めいたキャラクターとしての「徘徊少女」に魅力を感じて、いい句だと思った。この少女のさまよう夜の街は、僕にとってはどうしても、幻想的な異界として想像されてしまう。

だけど、太田ユリさんの文章は、みごとにこの「徘徊少女」の心を代弁しているようで、はっとさせられた。

希望を持って、と言われるたび
希望を捨てられたらどんなに楽か、と思う

希望がないからそれを捜し求めてさまよっているんだと、てっきりそう思っていました。

可能性でがんじがらめになった足を使って
わたしたちは歩く。暗闇の中を。ひたすら。

 
「徘徊少女」たちの足は、「可能性でがんじがらめ」だという、そのことが、とても新鮮だった。家出は、不可能性による束縛からの逃避なのだと、そんな風に思っていたから。

ただ、この文章を読んだ後でも、「徘徊少女」は僕にとってやっぱり謎に満ちている。彼女たちに、これってつまり可能性の重圧から逃避しようとしてるってことですか? と尋ねたら、「いや、そうじゃなくて……」とあきれられてしまうんだろう。


卒業証書出したらからっぽのかばん  石原ユキオ

この句から、女子高生と先生のアブナイ関係を想像するなんて、僕には無理だ。だけど、それが佐藤文香さんの手にかかると、なんだかすごくリアルで。

高校生ってカバンにいろいろ入れなきゃじゃん、教科書ノートじゃなくて、重いのはアイロンだよ、だって雨の日とか髪の毛ヤバくなるから、塾前にマックのパソつかえるテーブルでコンセント挿してデカい鏡でストレートしてから行ってた、はじめの小テ受けなくてもクラス落とされたりしないし。


高校生って、そんなこと、してたんですか。

てかさ、卒業証書っていらなくない? センセー卒業証書の意味教えてー!って、ユーコと一緒に言ったげよっか?
(中略)
センセー、最後の駿台模試ユーコに勝ったのに指輪くれてないですー。


ユーコちゃんの立ち位置がまた、よくわかんない。表向き親友だけど実はセンセーを取り合ってる恋敵とか?(ちっがーう!と、ツッコまれそう)

けど、センセーと彼女のつきあいは、センセーにとっては、たぶん遊びに過ぎなくて。

先生。私、4月から東京行っちゃうんですけど。


大切にされていないことを感じ取ってしまう瞬間に、からっぽのかばんが、とても切ない。



東京のバニーガールは耳を折りさみしいと言わないのが仕事  太田ユリ

この歌を、どう読むか。石原ユキオさんは、

(耳が折れちゃうほどにさみしくて死んじゃうとか言いたいけど……それでも仕事だから、さみしいなんて言わないんだからねっ!!)
と理解しそうになる。


と書く。僕は、こう理解して、理解した気になってしまった。しかし。

 しかし。
 作中のバニーガールは、耳を折っているのだろうか。
 そして。
 耳を折るという行為は、寂しさ故か、否か。

読みようによっては、「東京のバニーガールは、耳を折ったり、さみしいと言ったりしないのが仕事」と言っているようにも見えるのである。いつも耳をまっすぐに伸ばしている。寂しさの表明を一切しない。それが、東京スタイル。


なんだか急に、バニーガールがかっこいい。そして。

 そこから最初の解釈へ戻る。バニーガールが耳を折っているのは、寂しさの表明だろうか。違うかもしれない。東京のバニーガールの標準的な着こなし方として、耳を軽く折り曲げ気味にするのかもしれない。そう考えると、出勤前のバニーガールが耳の形を整え「さみしいなんて言うもんか!」と決意してロッカールームを出て行く姿が思い浮かぶ。

(おしりがかわいい)


この、(おしりがかわいい)、の一言をさりげなく滑り込ませることができる文章に、僕は「女子」の文体のあり方を見た。



パティ・スミスが叫んでいる。後に「パンクの女王」と呼ばれ、ニューヨークの音楽シーンを席巻した彼女も、元来、詩人だった。gucaの短詩系女子たちとはまた違ったかたちではあるけれど、彼女もまた、「女性であること」を自身の特質の一つとしながら詩でさまざまなことを表現しようとした女性のひとりだ。

僕の買った「ホーセス」のCDには、ボーナス・トラックとして、オリジナル版にはない「マイ・ジェネレーション」が追加収録されている。

I’m not tryin’ to cause a big sensation
Talkin’ ’bout my generation


この曲自体はパティ・スミスのオリジナルの曲ではないけれど、その詞は彼女の表現の姿勢と強く結びついている。

「大事件を起こそうなんて気はない 私たちの世代について語りたいだけ」

gucaの三人がしようとしていることも、おそらくそうしたことなんだろう。

「私」と「私たち」について、物怖じせずに語ることで、自分たちの世代を明確に表現すること。そのために三人が選び取ったのが、この「女子」という特質なんだ。たぶん。



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