2011-07-10

俳人はなぜ俳誌に依るのか 『ひろそ火 句会.com』『紫』『鏡』を読む 長嶺千晶

【俳誌を読む】
俳人はなぜ俳誌に依るのか
『ひろそ火 句会.com』『紫』『鏡』を読む

長嶺千晶


新しい俳誌は、未曾有の震災とはかかわりなく、つぎつぎに創刊されている。その昔、草間時彦は「甚平や一誌持たねば仰がれず」と俳句に詠んだが、終生自分の俳誌をもつことはなかった。それでも、「一誌持たねば仰がれず」のような風潮は、今でも、俳壇に色濃く在るのではないかと思う。なぜ俳人には俳誌が必要なのだろうか。

最近創刊された俳誌も紹介しながら、俳誌とは何なのかを、自問自答していきたい。


木暮陶句郎主宰誌 『ひろそ火 句会.com』

木暮陶句郎氏は昭和36年生まれの若き主宰である。陶句郎の名前のとおり、陶芸家としては日展に入選し、俳人としては、伝統俳句の「ホトトギス」で数々の受賞をした実力派として、今年、平成23年1月に群馬県の伊香保町を中心に、『ひろそ火 句会.com』誌を立ち上げた。

主宰誌であり、月刊誌なので、雑誌を編集し、発行する作業は、かなり煩雑だろうと
思われるが、陶句郎選の「雑詠」には、すでに80名余りが投句している。

また、同じ群馬県の木暮つとむ氏が「榛嶺集」の選者として、若き陶句郎主宰とともに「ひろそ火」で活動している。地縁が活かされた俳誌の在り方であろう。

ため息は闇の色して紫木蓮  木暮陶句郎

散る覚悟など先のこと初桜  同

震災の廃墟見下ろし鳥帰る  木暮つとむ

震災後の6月号より引用したが、私たちが「ホトトギス」にもつ花鳥諷詠のイメージの俳句より、かなり自己の個性の発露があり、主情的な句が主宰詠であることに気づかされる。

「俳句は愛である」と言い切る陶句郎主宰の、「『花鳥諷詠』『有季定型』を基本に、会員ひとりひとりの個性をのばす俳句を目指します」という主張は、新たな「花鳥諷詠」の在り方を予感させる。ひとりひとりの個性の尊重は、結社誌の句風に会員を染めてしまうことを避けるねらいがあるのかもしれない。伝統を踏まえてこその革新と期待したい。

また、一方「伝統は、つねに新しい」を理念にした現代俳句協会所属の月刊誌がある。

山﨑十生主宰誌 『紫』

昭和16年、関口比良男氏が山口で創刊とあり、太平洋戦争が起きた物の無い時代から、脈々と結社は受け継がれ、今年、平成23年1月には800号を迎えた。山﨑十生氏は2代目の主宰となるが、その俳句への姿勢には学ぶところが多い。

「紫」の主張は、「伝統とは、常に新しくならなければならない。世界一強靭なる象徴詩としての俳句に生命を賦与する」として、作品は、「有季・無季・口語・破調を問わない」とするので、時に驚かされるような句に出会える喜びがある。  

震へつつ生まるる梅の花  山﨑十生

幾千のクルス漂ふ陸奥夕焼  鈴木紀子

靴累々アウシュビッツの秋の風  若林波留美

神妙に吐息をもらす頭陀袋  関口晃代

ブランコをいくつこいだらあまてらす  細井美人

この先もの人妻初明り  浅野 都

あの人の影暖かそう踏んでみよう  加藤昌一郎 

作品を自由に作ることを勧める主宰のもとで、初めて、自由な作品が生まれていることがよくわかる。教えを守ることは初学のころは必要だが、創作の場に一番必要なことは、枠にはめてしまわないことである。主宰は、句会の場でも、皆の自由と平等を望み、互いに互いの批評をしあう場を持ち、最後に主宰の講評でしめるという。常に新しいということは、新しい作家を次々に生み出し続けていくことなのだと思う。

また、誌上では、すべての会員の作品のうち一句に、主宰が3行の評を添えているのも敬服する。さらに、いろいろな結社賞が設けられ、永年「紫」で活躍されてきた方たちへの功労の表彰もあり、それぞれの「紫」への関わりの中で、ひとりひとりを大切にする姿勢が貫かれている。それこそ「紫」の賜物と歴史の重みであろう。

主宰誌としては、ユニークな平等をうたう「紫」を、見てきたが、その点、平等を旨とする同人誌はどうなっているだろうか。

八田木枯代表同人誌 『鏡』

平成23年7月「鏡」が創刊された。まだ、出来たてである。総勢は、八田木枯氏プラス12名で、イエス・キリストを囲む12使徒ではないが、何かを始めるときには、活動しやすい人数ではないだろうか。

創刊号には、中村裕氏が「素浪人のうごき咲きー八田木枯『鏡騒』を読む」を執筆している。その中で、「宇野千代の晩年の言葉(なんだかわたし死なないような気がする)を、今木枯さんが呟いたとしても、少しも驚かない」と結んでいる。八田木枯氏は、大正14年生まれ。今年は、この「鏡騒」の句集で、小野市詩歌文学賞を受賞するなど、その句境は衰えることを知らない。さらに、この同人誌の創刊である。

作品はひとり見開きで14句と、エッセイである。一部の句を引いてみる。

思ひ寝のなかをゆききの浮氷  八田木枯

零落の姫をおもへり雛の燭  大木孝子

雪吊の縄ゆくりなく晴わたる  谷 雅子

親不知子不知とほき春の潮  管野匡夫

分からないのに手をあげる春うらら  寺澤一雄

14句発表できるのは、作り手にも、読み手にとっても、充実していると思う。これから、どのように「鏡」が発展していくのかは未知数だが、発表の場として集う、同人誌の性質がよく活かされており、恵まれていると思う。エッセイを読んでいても、かなり文学への造詣の深い人たちの集まりであることが察せられる。これから読み物もふやしていくという、寺澤編集長の方針が楽しみである。


たまたま、3誌をとりあげてみたが、何だか集うことが、楽しそうだと思える俳誌ばかりである。インターネットの時代になっても、まだ、紙による俳誌でなければ、読者の年齢層が限られてしまう恐れもあるし、やがては消えてしまうインターネットの映像より、残すことのできる紙による俳誌の方が、まだまだ主流ということであろうか。

作句の是非を問う究極のかたちは、やはり個人で句集を編むことだと思う。しかし、締め切りという期限がある俳誌に発表していく作品は、その都度、全力投球になるし、それが、少しずつ活字になると、誰かの目に触れる機会も増えていくだろう。まして、座という交わりの場があれば、そのときの句作のエネルギーは倍加する。

がんじがらめに縛られるような結社では、時に息苦しくもなるが、所属する俳誌があって、はじめて俳人として見てもらえるのが現実であったりする。俳人にとって、俳誌はやはり、必要なものだと思う。今回、個人誌に触れられなかったのは残念だが、個人誌は発表の場としての、一番純粋なかたちかもしれない。そんなことを考えたりした。

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