2011-08-14

【週刊俳句時評第40回】 残と拝(残の部) 生駒大祐

週刊俳句時評第40回
残と拝(残の部)

生駒大祐


〇.

山口優夢の第一句集『残像』を読んだ。その後に、池田澄子の第五句集『拝復』を読んだ。

一.

『残像』は、優夢の作品の中でもおそらくもっとも人口に膾炙しているであろう

あぢさゐはすべて残像ではないか

という句を持って始まる。
この句の文体が非常に斬新かというとあながちそうでなく、たとえば

ひるがほに電流かよひゐはせぬか  三橋鷹女
大半の月光踏めば水でないか  田中裕明

と言った似た文体を持った先行句がおのずと想起される。しかし、僕にとってこの句は優夢俳句の大きな特徴をよく表している句であるように思われる。それはつまり優夢俳句の多くを統べる「主観主義」とでも言える性質を、先行句と比べてこの句が持っているということを示す。

さて、俳句は往々にして幻灯機のように「記録」された情景/情感を読者の内部に「再現」させる道具として解釈される。その点から言えば、

ひるがほに電流かよひゐは「せぬか」

の「せぬか」、すなわち「しないかもしれないがするとしたらどうだろうか」という呼びかけ/疑問。および

「大半の」月光踏めば水でないか

の「大半の」、すなわち「すべてではないかもしれないがほとんどの」という譲歩/猶予。

これらは記録され、再現された「虚構≒主観」と現実界の「実際≒客観」を巧みにつなぎとめ、読者を安心させる担保となる。「ああ、実際にこの情景/情感があったのだな」と。

一方。

あぢさゐはすべて残像ではないか

の「すべて」「ではないか」の断言/主張は、その担保を持っていない/持とうともしない。優夢ははなっから現実世界の情景を詠もうとはしていない。この句から立ち上がる情景は優夢の主観、虚構の世界である。

『残像』は優夢の主観の世界を主観として再現する句集だと、僕は読んだ。

二.

『残像』において、句群はいくつかの流れに分かれる。

『残像』における身体性は一見誰の目にも明らかながら。その構造はなかなか多様である。

台風や薬缶に頭蓋ほどの闇
雨は芙蓉をやさしき指のごと伝ふ

などの対象を身体に引き付けることで新鮮な把握を行うという触媒的な用い方。

臍といふ育たぬものや暮の春
梅雨長し髭はつぶやくやうに生え

などの自身の身体への直感的な発見をそのまま詠む即時的な用い方。

手の甲に毛の生えてゐる芋煮会
片恋やのどにに灼けつく夏氷

などの身体的な事実と他の対象を組み合わせることでストーリーを持った情景を立ち上がらせるという用い方。


次に気づくのは、二つの事項を句の中で対立的に用いるという構造。

戦争の次は花見のニュースなり
未来おそろしおでんの玉子つかみがたし

などの非日常的な事項と日常的な事項を取り合わせ、切れにおけるその大きな飛躍の面白みを狙うという用い方。

材木は木よりあかるし春の風
村よりも町しづかなり朝桜

などの発見の驚きの触れ幅を比較という方法で増幅するという用い方。

火葬場に絨毯があり窓があり
空からも灯からも遠き蝗かな

など、対立しながらも関係性の淡い二つの事項を詠み込むことで句の枠を広げるという用い方。

投函のたびにポストへ光入る
寒満月けものの影が檻の外

などの、例えば前者は「光」を言うことでそれより圧倒的に長い「闇」を想像させ、後者は「影」が檻の外にあることを「けもの」は檻の中にいることを踏まえて詠むなど、暗に対立項を参照しながら詠むという用い方。

また、『残像』には読者の想像力に全てを託したような、無言のストーリー性とでも呼べるような性質を帯びた句も見られる。

夕暮の林を帰る受験生
月の出の商店街の桜餅
春宵の花屋に寄らず帰りけり
秋雨を見てゐるコインランドリー
酒飲んで伝票増やす霜夜かな

などなど。

他にもキーワードをいくらでも上げることはできるだろうが、『残像』を通して言えるのは、その大きな空間性/全体性であろう。

鳥渡る水といふ水置き去りに
湯灌してとはの湯冷めとなりにけり
襖越しの着信音やいつまでも

電話みな番号を持ち星祭
日の中に運河ありけり秋桜
秋祭その周辺の秋のかぜ

句集のはじめとおわりの方から引いた。

鳥渡る「水といふ水」置き去りに
湯灌して「とはの」湯冷めとなりにけり
襖越しの着信音や「いつまでも」
電話「みな」番号を持ち星祭
「日の中に」運河ありけり秋桜
秋祭「その周辺の」秋のかぜ

などから読み取れるのは『残像』の俳句が、事象を細かく拾ってゆこうとするよりも、全体をごっそりと掬いあげるような詠みぶりだということである。

ここから生じるのは、詠まれる対象の大きさに比例した、詠まれる時間軸の広さである。「俳句は一瞬を切り取る文芸だ」という言説がよくなされるが、優夢の俳句はそれに逆行するようにも思える。

三.

ここで冒頭の言説に戻る。

優夢の句の大ぶりさは、優夢の句が主観に終始しているからではないか。

ある発想を喚起する情景があったとして、もしそれを客観的に詠もうとすれば、作者はそれを瞬間として詠むしかない。しかし、主観のままに句を詠もうとした場合、その情景は主観の中に永遠に存在する。それを優夢は悠然と掴み取る。

目の縁が世界の縁や花粉症

客観は一瞬の情景を扉として広い普遍的な句景を手に入れる。主観は自由な世界ようでいて、読み得る世界は実は小さな小さな自己の意識の世界でしかない。

優夢の句がその「小ささ」を感じさせないのは、これまで述べてこなかった「季語」と「主観」の取り合わせによってその句景を増幅させているからだろう。優夢の用いる季語は基本的に自然な配置がなされており、自然であるが故に実感から離れてゆきがちな主観の世界を俳句の世界に繋ぎ止める。

空を見る眉間に力雪が降る
父と来て母のふるさと暮れかぬる
むつつりと牛すぢ煮込む神無月

身体性、対立性、無言性。そのいずれもが主観の世界の産物である。それが季語と有機的に結びつくところに、優夢の俳句の醍醐味がある。

あぢさゐはすべて残像ではないか

傲慢な主観の提示と繊細な季語の配置。その手腕において山口優夢は栞で櫂未知子氏が言う「天才」なのではないか。

そんなことを思った。

(続く)




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