2011-09-04

八田木枯 戦中戦後私史 第8回 紀州の山から深川木場までの旅

八田木枯 戦中戦後私史リンク第8回 紀州の山から深川木場までの旅
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


承前:第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮

『晩紅』第22号(2004年7月31日)より転載

ダンスホール通い

――二十歳のときの主宰誌「ウキグサ」を拝見しますと、巻頭に自作二十句の発表、雑詠蘭の選者、俳壇時評の執筆、そして座談会「女流作家を語る」の進行役と、大活躍されています。これを毎月お出しになっていたのでは、ずいぶんお忙しくて、これにかかりきりだったことでしょう。

木枯 いえ、いえ。その間隙を縫って映画を見たり、映画がはねると、ダンスホールへ行ったり…。

――ええっ、ダンスホールがあったのですか。

木枯 戦後は、ダンスホールがたくさんできまして、津にも四つくらいありました。あの商売は、広い場所と電蓄(レコードプレーヤー)さえあれば、簡単にできましたから。

――ダンスホールというと、専属のダンサーがいたのですか。

木枯 いや、ダンサーなんていません。連れ立って行ったり、ひとりで出かけたりするんです。女の人たちも来ますから…。

――月に何回くらい通っていらしたのですか。

木枯 月何回というより、毎晩とか。

――ずいぶん熱中していらしたのですね。ダンスホールといえば、当時としては、進んだ若者たちの社交場ですよね。そういえば、いま気づいたのですが、「ウキグサ」にも恋を詠んだような句が目につきますね。〈靴が痛き秋日の中の別れかな〉とか、〈くちづけの宵の青きは秋鯖か〉など…。これはその頃の実体験ですか。

木枯 いや、いや。僕は本当のことを句にしませんからね。虚実で言えば、僕の句は虚です…(笑)。


五日かかって東京へ

木枯 ダンスホールで思い出したんですが、商売の材木買い付けのため、紀州へ出かけた話はしましたか。

――いえ、伺っていません。

木枯 じつは戦争が終わってからは、家業の材木商もやっていまして…。

――貸本屋をしながらですか。

木枯 貸本屋なんて儲かるものじゃありませんから、それだけじゃ、とても飯なんか食っていけませんので…。

――すごいですね。材木商と貸本屋をやりながら、「ウキグサ」を発行し、映画やダンスにも熱心に通っていたのですね。

木枯 新宮あたりが木材の集散地なんですが、いまと違って紀伊半島は、文字通り陸の孤島でしたから、出かけるのがたいへんなんです。まず大阪へ行って、大阪の天王寺から、夜の十一時ごろに出発する夜行列車に乗っていくと、新宮に着くのが朝の六時ごろなんです。

――山の木を買うのですか。

木枯 いえ、木材組合に行って、伐りだしてある原木を買うんです。

――どのくらい買うのですか。

木枯 時によって違いますが、三百石くらいですか。木材は、一尺×一尺×十尺の量が単位で、一石(いっこく)というんです。

――容積で計るのですね。

木枯 その三百石の原木は、すぐ船に積み込んでくれるんです。当時は木材運搬は貨物列車か船だったのです。原木の積み込みを確認して金を支払うと仕事は終わりです。

それから那智勝浦に行き、温泉旅館に泊まるのですが、当時は客がほとんどいなくて、大きな旅館なのに、私のほかに一人か二人でした。

――貸し切りみたいですね。

木枯 慶子さんはご存じではありませんか。温泉からぐるりと海が見渡せる旅館…。

――岩風呂から海が一望できる旅館ですね。ええ、なんだか海と温泉が一つにつながっているような雄大な感じのところでした。

木枯 岩風呂の丸い窓から太平洋がずっと見渡せるんです。その温泉にゆったり浸かっていると、原木を積んだ船が出ていくのが、よく見えるんです。まるで紀伊国屋文左衛門にでもなったようでしたね。「沖の暗いのに白帆が見える…」というわけです。遠く沖に消えていく自分の船を、湯の中からながめるのは、そりゃ、お大尽になったようないい気分ですよ。

翌日は大阪に戻ると、行きつけの道頓堀の旅館に泊まって、心斎橋へ出かけたり、ダンスホールに行ったり、二日ほど遊んで時間を過ごすんです。

――ああ、そこでダンスホールが出て来るのですね。それから東京に行くのですか。

木枯 いや、いや。それから東海道線に乗って名古屋で途中下車です。名古屋には、赤玉という有名なダンスホールがあって専属のダンサーもいるので馴染みのダンサーを呼んだり…。

――豪遊ですね。

木枯 名古屋で二晩泊まり、小田原あたりでもう一泊してから、やっと東京へ到着するんです。そして鉄砲洲(現在の中央区湊付近)へ行くと、ちょうど紀州で材木を積んだ船が…。

――着いているんですか。

木枯 そうです。鉄砲洲では、「艀(はしけ)渡し」といって原木を材木屋の小舟に積み替えるのです。あらかじめ深川の材木屋に連絡してありますから、到着した原木を渡して、代金を頂戴するというわけなんです。東京へ直接売ったのは、うちがはじめてだったでしょう。三重県や紀州あたりは木材が豊富でしたから、ずいぶん商売になりました。東京のほかにも金沢などにも売りに行きましたね。

――大活躍だったのですね。

木枯 買い付けでは「八田は、めちゃな高い値で買う。あれで儲かるのかな」なんて、よく言われました。むこうでは、木場の相場が分からないんです。東京へ電話することなんてないし、新聞にも出ませんから…。

――信じられませんね。

木枯 だから、おもしろかったんですよ。まだ二十一か二の人間が商売できたんですから。

――十六歳のころに東京へ出て来ていたのが、生きたのですね。


波郷選「新人俳句」に入る

木枯 木場に来ていたころ、石田波郷に会いに行ったことがあります。波郷は昭和二十一年の三月に、女房の実家があった砂町に引っ越したんですね。そしてその年の九月に「現代俳句」という俳句総合誌を発刊したりして、はなばなしい活躍をしていました。

  六月の女すわれる荒筵
  立春の米こぼれをり葛西橋

ちょうどそのころ発表した波郷の句です。

――どちらも有名な句ですね。

木枯 この句の葛西橋というのは、現在の葛西橋ではなくて、同じ荒川の、もう少し北側に架かっていた木造の橋です。当時は、橋に闇米を取り締まる検問所がありました。千葉方面から闇米を運んできた人たちは、みんなここで捕まって、米を没収されたしまう。

――ええっ、そうなんですか。

木枯 そうですよ。「立春の米こぼれをり」は、警察に没収されたときにこぼれた米です。これは新説でもなんでもなくて、ほんとうの話です。

――いままでお米のような貴重なものが橋にこぼれているなんて不思議だなあ、と思っていたんです。そう伺うと、リアルですね。いろんな解説文を見ましたが、そんな解釈を読んだことがありません。

木枯 闇米や買出しなど戦後の状況を知らないと、米屋か、だれかがこぼしたんじゃないか、と思ってしまうでしょうね。

――これは貴重な証言ですね。

木枯 小名木川を詠んだ句にもいい句がたくさんありますね。戦後ずっと、そうした波郷の俳句を読んで憧れていましたので、雑誌で住所を知って会いに行こうという気になったんだと思います。なにしろ砂町は、木場から二キロほどしか離れていませんから。

――あらかじめ手紙を、お出しになったのですか。

木枯 あのころは、手紙で連絡するなんてことは、ほとんどありません。いきなりです。たしか知り合いの材木屋で借りた自転車で行ったんだと思います。当時、あの辺りはまだまだ空襲でやられた焼け跡のままで、ところどころにバラックが建っているだけで、ずっと遠くまで見通せました。目につくのは、操車場の線路と、まっすぐに走っている小名木川でした。ふしぎなことに、川の水が道より上にある、というか水が盛り上がって見えていたことを印象深く覚えています。

――いつごろでしたか。

木枯 記憶がだいぶ薄れているのですが、寒かったような気がしますので、二十一年の十一月ごろだったでしょう。

波郷さんの家は、とんとん葺き(薄板を葺いただけ)の屋根を乗せただけの簡単な作りでした。近づいていくと、縁側に波郷さんが座っているのがすぐ分かりました。そばに石川桂郎さんがいて、なんと波郷さんの髪を刈っていたのです。桂郎さんはご存じのように床屋さんでしたからね。

――どんな話をされたのですか。

木枯 それがまったく覚えていないのです。

――初対面だったら、自己紹介とか「ウキグザ」のこととか…。

木枯 俳句の話をしたことは確かなのですが、記憶がないのです。波郷さんといえば、少しあとになって「現代俳句」に「新人俳句募集」という企画ができて、その第一回に、波郷選で私の俳句が掲載されました。

――それはすごいですね。何句ぐらい掲載されたのですか。

木枯 たしか三十句応募して、十句ぐらい載ったと思います。

――それは、ぜひ拝見したいですね。

木枯 こんど探してきて、お見せしましょう(別掲)。じつは翌年、第二回の加藤楸邨選にも選ばれたんです。

――波郷選・楸邨選と二度も…。すごいですね。それなのに山口誓子の「天狼」を選ぶなんて、ずいぶん贅沢な選択をなさったのですね。

( 了 )



「現代俳句」昭和二十二年七月号より
新人俳句(第1回) 八田木枯

干竿の落ちて漂ふ月の柘榴
手袋の手にて為すべき事一つ
妹が居へ深雪の上の靴の栄
帰り来て蒲団の母に仰がれぬ
兄弟老いぬ牛鍋の耳大にして
水薬枯草すかし山すかし
虹消ゆや顔を凹めて女給ゆく
蔦萌えの荒さよこの人栄しらず
鳥交る世にチンドン屋ある限り

(石田波郷付記 編輯部宛・小生宛のものより選輯した)

1 comments:

藤本   る衣 さんのコメント...

八田木枯さんの戦中戦後私史
  大変面白く拝見しました。
私事で恐縮ですが  小学校のころ、 (津、白子に近い若松町の海岸そばの祖母の家)に夏休み毎連泊し そのころ17、8の従妹に 四日市だったか 津だったかのダンスホールへ 連れて行ってもらったことも記憶にあります。いまでも、お話の中にある、ダンスホールの独特な灯りとか なつかしく思い出されます。(従兄は まだ祖母の家跡にガソリンスタンドを商っております。)奇しくもあのころの海辺の日々が、おふたりの対談によって思い起こされ 貴重な木枯氏の俳句の思い出に、個人的な思い出がかさなり感慨深いひとときを 過ごせました。
あのあたりの 
誓子の休養地の鼓が浦の海岸で そのころ 泳いでいたことも以前知りまして、楽しい気がしてをります。
     的はづれな コメントで
          失礼いたしました。  シリーズ終了残念です。
              藤本 る衣