詩の遊び 佐藤文香
春光や浪に心臓型の浮子
彼岸過ぐ鏡の裏に手をまはす
松が枝の柳を襲ふ雨後ならむ
出窓にレースの花影逃れられざるや
火の奥のうすむらさきと蝶の白
失恋や名のみの蝶に翅を貸し
本音としての鈴の音や鈴の外
仔猫あり名はナレ我と離ればなれ
かたつむりなめらか花びらを避けず
緋鯉てふものゝうごきや初夏しづか
野茨や別邸の光に目覚む
淋しさは悔しくまなうらの若葉
蜘蛛の囲に音の雨ふる空のこと
傘に君招き入れたる詩情かな
蜜柑畑天つ夕日に荒れてあり
髪洗ふ瞼に仮の世をとゞめ
月夜茸こひゞとはげんじつぬちに
朝風やあちらの島の立葵
まなじりを草に斬らるゝ午睡かな
天幕生活野に腕長く差し出だす
水筒の氷の音やほたるの夜
広島や浅蜊は水をよろこばず
灯台に棲みて浅瀬は過去のもの
黒き金魚の水替へをれば鈴の鳴る
てつはうはスカイラインを射抜くなり
遠花火詩の遊びしてきずつきあふ
をどり場に坐しをさなさをうれひあふ
君が背の白さを抱く冷房裡
もみぢ葉を手紙となすに文字つらね
さゝやきに宿の枕の羽根疼く
またゝきや枝は葉を染め葉は葉を染め
鳥呼びて鳥のねむりを閉ざしけり
つぐなひの無花果は転がりソファに
秋冷のミルクに果実ふゝめおき
愛されぬ人うたひつゝ梨をむく
人容れぬ水面うつくし昼の月
雰囲気や夕日の幅に塵の浮く
奉る火の粉に芯や稲の花
冷ゆる日の火の粉を被る火種は灯
天然や透くるものより冷ゆるちふ
睫毛の隙に目の黒濡れて枯野原
しんじつの雪のもとさけられてゐる
みづうみに人の寒さをさとしけり
君の生む活字にふれて冬の蝶
藤棚の下に冬日を招く日々
指は指恋ふや始発に君を乗せ
約束をせぬしあはせとバニラの木
雪折や日向は鳥を匿へる
朝のアは愛のア逢ひにゆけば花
横這の雲に彼方を与へけり
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2011-10-30
2011落選展テキスト 佐藤文香 詩の遊び
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1 comments:
「本音としての鈴の音や鈴の外」
「鈴に入る玉こそよけれ春のくれ」三橋敏雄
鈴の内外へのこだわり。鈴本体を外しているところが面白いかも。もちろん、音を発し、玉を蔵するのは鈴本体ではあるけれど。玉によって鈴は音を発し、音は鈴を離れるこにおいて、初めて音としての本領を発揮する。変なたとえだけれど、見開き1ページの本を見ているような印象。鈴本体は、両ページをつなぐのりしろみたいな部分になるのも。
「黒き金魚の水替へをれば鈴の鳴る」
「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」飯田蛇笏
両句の関係と言えば、「黒」と「くろがね」の音の共通と音が鳴ることぐらいで、並べ置くことには全く無理があるけれど、蛇笏の句が「鳴る」ことによってものの存在感が立つのに対し、掲句は「鳴る」こととそれ以前の事柄の部分には直接の関係は何もない。蛇笏句には、ある種の必然の気配があるのに対し、掲句は偶然の産物ともいえよう。ただ、上五中七と下五を繋ぐのは、作者の感性(水を替えているのが誰だろうと関係なく)であり、この句の味わいどころもその点であって、そこがこの句の強み(人によっては、それこそ弱みとみるかもしれないけれど)なのかも、などと思いました。
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