2011-10-30

2011落選展テキスト 佐藤文香 詩の遊び      

詩の遊び  佐藤文香

春光や浪に心臓型の浮子
彼岸過ぐ鏡の裏に手をまはす
松が枝の柳を襲ふ雨後ならむ
出窓にレースの花影逃れられざるや
火の奥のうすむらさきと蝶の白
失恋や名のみの蝶に翅を貸し
本音としての鈴の音や鈴の外
仔猫あり名はナレ我と離ればなれ
かたつむりなめらか花びらを避けず
緋鯉てふものゝうごきや初夏しづか
野茨や別邸の光に目覚む
淋しさは悔しくまなうらの若葉
蜘蛛の囲に音の雨ふる空のこと
傘に君招き入れたる詩情かな
蜜柑畑天つ夕日に荒れてあり
髪洗ふ瞼に仮の世をとゞめ
月夜茸こひゞとはげんじつぬちに
朝風やあちらの島の立葵
まなじりを草に斬らるゝ午睡かな
天幕生活野に腕長く差し出だす
水筒の氷の音やほたるの夜
広島や浅蜊は水をよろこばず
灯台に棲みて浅瀬は過去のもの
黒き金魚の水替へをれば鈴の鳴る
てつはうはスカイラインを射抜くなり
遠花火詩の遊びしてきずつきあふ
をどり場に坐しをさなさをうれひあふ
君が背の白さを抱く冷房裡
もみぢ葉を手紙となすに文字つらね
さゝやきに宿の枕の羽根疼く
またゝきや枝は葉を染め葉は葉を染め
鳥呼びて鳥のねむりを閉ざしけり
つぐなひの無花果は転がりソファに
秋冷のミルクに果実ふゝめおき
愛されぬ人うたひつゝ梨をむく
人容れぬ水面うつくし昼の月
雰囲気や夕日の幅に塵の浮く
奉る火の粉に芯や稲の花
冷ゆる日の火の粉を被る火種は灯
天然や透くるものより冷ゆるちふ
睫毛の隙に目の黒濡れて枯野原
しんじつの雪のもとさけられてゐる
みづうみに人の寒さをさとしけり
君の生む活字にふれて冬の蝶
藤棚の下に冬日を招く日々
指は指恋ふや始発に君を乗せ
約束をせぬしあはせとバニラの木
雪折や日向は鳥を匿へる
朝のアは愛のア逢ひにゆけば花
横這の雲に彼方を与へけり

1 comments:

minoru さんのコメント...

「本音としての鈴の音や鈴の外」
「鈴に入る玉こそよけれ春のくれ」三橋敏雄

鈴の内外へのこだわり。鈴本体を外しているところが面白いかも。もちろん、音を発し、玉を蔵するのは鈴本体ではあるけれど。玉によって鈴は音を発し、音は鈴を離れるこにおいて、初めて音としての本領を発揮する。変なたとえだけれど、見開き1ページの本を見ているような印象。鈴本体は、両ページをつなぐのりしろみたいな部分になるのも。


「黒き金魚の水替へをれば鈴の鳴る」
「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」飯田蛇笏

両句の関係と言えば、「黒」と「くろがね」の音の共通と音が鳴ることぐらいで、並べ置くことには全く無理があるけれど、蛇笏の句が「鳴る」ことによってものの存在感が立つのに対し、掲句は「鳴る」こととそれ以前の事柄の部分には直接の関係は何もない。蛇笏句には、ある種の必然の気配があるのに対し、掲句は偶然の産物ともいえよう。ただ、上五中七と下五を繋ぐのは、作者の感性(水を替えているのが誰だろうと関係なく)であり、この句の味わいどころもその点であって、そこがこの句の強み(人によっては、それこそ弱みとみるかもしれないけれど)なのかも、などと思いました。