ゐのしし園 上田信治
みづうみに靴を失なふ秋の雲
刀豆に朝が来てゐる水たまり
秋暑し地べたに置いて紙袋
山々や芋虫は葉を食べてゐる
藤の実が下がる子供が叱られる
凩の吹いてあかるい壁に服
冬一日硝子と障子からなる窓
石投げて池の氷や白く撥ね
水よりも汚れてゐたる氷かな
手の中のラジオが歌ふ冬の雲
乾きたる道とは別にもんしろ蝶
春のくれ鷗はバスに遅れつつ
白木蓮それはすべて昨日のこと
ゆふがたの干潟に皆のゐるやうな
ばらばらに帰る習字や夾竹桃
木の根つこ映して映画日の盛り
コカコーラ窓をひらけば雨の音
たてものに山椒魚のねむるかな
秋風やわが知る人が橋のうへ
面の目の穴大きくて秋の空
芋菓子と栗菓子とあり一つづつ
昼月のしだいに濃しや流し台
ゐのしし園走り出したら止らずよ
灰皿の水へ差す日や青木の実
テーブルのうへ何もなく鯨かな
ゆつくりと跨ぎし霜の鎖かな
落葉みな楓のかたち動くなく
春待つや給水塔は木々のなか
鳥帰る道にまぶしき文字伸びつ
座布団を積んで四月の雨となる
長椅子の運ばれてゆく春の土手
小型犬抱いてわかもの花散る日
春の雨川のすべての橋を濡らし
公園に隣りて家やねぢあやめ
竹の皮落ちるしづかな竹のなか
サンダルを濡らし実梅を拾ひけり
茴香の花とまはりの小石かな
中庭にもの喰ふ人と蝉の木と
晩涼や床に伏せある週刊誌
明易し浄水場にして公園
瓜の匂ひ砂糖の匂ひして水よ
冷蔵庫西瓜を入れてから暗い
ビル屋上祭囃子のすぐに止み
匙を持つ手に赤いあざ扇風機
耳見せて亀しづみけり秋の昼
まつしろなてぬぐひを干す芒かな
秋燕ふと幼な顔うかべしは
日をあびて刈田の中の椿かな
大石の割目に小石冬ざるる
涸川をさても小さき人渡る
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2011-10-30
2011落選展テキスト 上田信治 ゐのしし園
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2 comments:
変な句を作る方だな、というのが最初の印象。しかし、それがどうも
かなり戦略的な意図の下になされているものと思うと、一句一句
が油断ならないものに思われてくる。
そんな中での次の二句。
「芋菓子と栗菓子とあり一つづつ」
「大石の割目に小石冬ざるる」
個人の好みの部分も相当あるのですが、どちらもトリビアルな視点を
わざと設定しての句のように思われますが、「芋」と「栗」の対置は
併置以上の味わいが感じられないので、印象は今ひとつです。
「大石」と「小石」は、単なる併置ではなく、「小石」は「大石」に
含まれつつも、それぞれに存在を主張しているという点で、とても
リアルな感触があって面白い、と思います。ただ、風化の過程に気温差
がかかわるという点で、「冬ざるる」の季語はちょっとどうかな、とも
思いましたが。
「変な」という表現は、ずいぶん舌足らずなものの言い方ですので、少し補足させていただきます。たとえば、「秋暑し地べたに置いて紙袋」の句。取り合わせの句のようですが、季語とそれ以外の七五部分の内容が、相互映発的に、あるいは相互浸潤的に一句の世界を成立させていくというよりは、一部分は重なりつつも(「秋暑し」という状況と暑熱によって灼かれた「地べた」)そこに置かれたかさりと乾いた紙袋は、その世界からふっと別の地点へと句世界をずらすというか、飛躍させるような印象を感じさせます。写実的な作のようでありながら、ちょっとシュールな感触のする作のように個人的に感じました。「変な」というより「不思議な」と表現すべきでした。失礼しました。
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