2011-10-02

週刊俳句時評・第46回 ユリイカ的俳句 introduction 五十嵐秀彦

週刊俳句時評・第46回
ユリイカ的俳句
introduction

五十嵐秀彦


ツイッターやフェイスブックでさかんに『ユリイカ』10月号が話題になっていますね。

おそらく既にお読みの方が多いことと思います。

まだ読んでいない人からは期待のこもった発言が、読んだ人からは好意的な発言が目立ちます。

そんなわけでぼくも買ってみました。

で、時評で取り上げるにはまだ十分読めていないのですが、ちょうど今回がぼくの出番だったものですから、とりあえず気がついたことなど書いてみようと思います。

(それで気づいた方もいらっしゃるかもしれません。この文体がいつもと違い「ぼく」だったり「ですます」体であるのは、とりあえず書く場合にこのやり方でいって、下調べなど十分にしてから書く場合には「私」と「である」体にしようと今決めました)

文芸誌が俳人の間でずいぶん話題になっているということは、珍しいことです。角川の『俳句』にしても文學の森の『俳句界』にしても、俳句総合誌が話題になるのは賞の発表のときぐらいですから。それを思えば面白い現象です。

それはなぜだろう。

他のジャンルの文芸誌が俳句を特集したから?

そうではないような気がします。

この現象には『ユリイカ』という雑誌のブランド・イメージが大きく働いているのだと思うのです。本来は詩の雑誌のはずですが、短歌、俳句の人たちを含め『ユリイカ』の知名度は高いものがあります。

かくいうぼくも学生の頃にはずいぶんお世話になったし、現代詩とは距離を置くようになってしまった今でも、面白そうな特集のときには購入します。過去に、ビョークや西原理恵子をとり上げるなど、状況への目配りと柔軟性には感心させらています。

その『ユリイカ』が現代俳句を特集するというのです。

既存の俳句総合誌が共通して放っているあの老人クラブ的匂いとは全く違う「エスプリあふれる」特集になっているのに違いない、などというよく分からない期待をついつい持ってしまいます。

けれども同時に、『ユリイカ』だから、と期待してしまっている自分の中のある種のミーハー性も感じてもいました。

そんなわけで、普段はあまり考えていない『ユリイカ』という文芸誌そのものについてもあらためて見直す機会にもなったようです。

ブランド・イメージなどと言いましたが、『ユリイカ』の編集方針は30年前40年前とはかなり違っているということも思うのです。

私の同居人は学生時代からずっと同居人であり続けている人で、若いころ『ユリイカ』派少女であった人ですが、彼女(現在は『婦人の友』派中年移行済)に先日「今度さ、ユリイカが俳句の特集やるらしいよ!」と、なぜか得意げに吹聴したところ、「ふーん。サイバラのときみたいに売れるかも、って思ったのかしらね…」と軽くいなされ、おや、なるほど、などと思ったのです。

現代詩やフランス文学ばかりやっていても、そのマーケットは縮まるばかりだから、サブカルやオタクに走るのも経営戦略的にはありなのでしょうし、ジブリや西原理恵子や、果てはB級グルメなんてのも、わからないではありません。

くだんの同居人と去年の暮ぐらいでしたか、一緒に書店にいたとき、彼女がさも珍しいものを見つけたかのようにその月の『ユリイカ』を手に取り、私に見せながら「ほら。ジュネだってさ。珍しいね!」と言ったのです。30年前だったら逆に「またジュネか」というところだったはずです。その『ユリイカ』がジュネの特集をして「珍しいね」と言われるというのは、やはり時代に適応して変化しているということなのでしょう。

ではその『ユリイカ』がなぜ俳句?

気まぐれとは思えないのです。

俳句がサブカル化しているのだろうか…。それならそれでも面白いが。

少なくとも老人クラブ用入門企画よりはましだろう。

そんな少し斜に構えた思いを持ちながら、10月号を読んだわけです。

特集「現代俳句の新しい波」。

そのタイトルには、特段「エスプリ」は効いていないようですが、「新しい波」という捉え方は状況を正面から見ているようにも読み取れました。

何か、いちいち引っかかっているようですけど、事実良い意味で引っかかるところが多いのです。この2年ほどの間、若い動き、新しい動きが目覚ましい状況になっているのに対して俳句総合誌が「新しい波」として特集をしてきたでしょうか。若手に割くページをほんの数枚追加したぐらいにしかぼくには見えません。だから「新しい波」というきわめて平凡な言葉にも敏感になってしまうのです。

目次を見たのですが、いや、これが実にわかりやすい。稿の配列に周到さが感じられるのです。『ユリイカ』が今回の企画で何をしようとしているのか、何を訴えようとしているのか、内容を読まずともかなりはっきりと伝わってきました。

冒頭にはとっつきやすい鼎談が置かれています。

これが全体の基調になっていて、人選からしてそれが現われています。

専門俳人は堀本裕樹だけで、小説家の川上弘美、エッセイストの千野帽子、しかしこのふたりとも俳句を作る人。

そう書くことの違和感!

専門俳人という言葉が通用しない仕掛けがこの企画全体にあるのですから。

鼎談は自由でリラックスした雰囲気で進められるのですが、あとからかなり編集したのかなと、余計なことを思うほどにきちんと展開しているのです。

1
結社ってとっつきにくい。

2
でも俳句って面白いよね。

3
結社は少し面倒なところがあるけど、句会って楽しい。

4
ゲームのようなところがあるから。

5
もともとそうだったんじゃないの。江戸時代から。

6
作ることと読むこととでは「読み」の比重が大きい。だから句会で他の人の読み
を知ることが重要。

7
文語、旧かななどの俳句パーツの魅力。

8
対して池田澄子の口語俳句の魅力。
9

結局季語の奥深さ、面白さ。

10 時代の感情のあらわれになることはあっても、時代を詠むことはむずかしい。

11 その点は俳句と短歌の違いがある。

12 四季を詠う俳句には、死と関係するものがある。

13 それらをひっくるめて、笑いの重要性かな。

こんな感じで会話が展開している。これはずいぶんと出来過ぎの展開だとは思いませんか。また同時に、この鼎談のあとに続く論考や俳句作品のチョイスにまっすぐつながる内容になっている。

俳句に興味は持ちながらも結社のような旧来の組織や師弟関係になじめないものを感じている若い世代に向けて、俳句、こわくないよ、楽しいよ、と誘っているかのようです。

こわくない、楽しい、を入り口にして、中に入って行くと、座についてとか、文語や旧かな、口語俳句それぞれの魅力、季語の持つ意味、俳句と短歌の違いなどを経て、終盤に「死と笑い」という俳句究極のテーマさえ紹介するという巧みさがこの鼎談にはあります。

その後に、作家論が並ぶのですが、これまたある意味わかりやすい配列です。いきなり自由律の代表俳人・放哉が来て、次に山頭火。

ほら、俳句も詩と変わらないでしょ、と振っておいて、寺山修司です。

永遠に青年の師であり続けている寺山の、その俳句を突き付けて、寺山さんも俳句やってたんだよ、しかも定型だよ、となるわけです。

あ、ちょっと誤解されそうなので補足しますが、あくまで稿の配列と展開の意図について言っているので、それぞれの論考の内容がそうだと言っているのではありません。内容は各作家の本質論の色彩が濃く興味深いものです。


寺山のあとに誰を持ってくるのか、とても興味深いものがありました。

頁をめくるのが少しスリリングでもあったのです。

鼎談の流れを踏んでいるのであれば、ここで一気に急展開もあるのかな、と思ったらやはりそうです。

「まだ見ぬ俳句へ 高柳重信の多行俳句」。


神野紗希の論考です。なあるほど、そうきたか、ですね。

で作家論はここで一段落。

放哉、山頭火、寺山修司、高柳重信。この展開は面白い。鼎談と同様に特集企画の意図を強く表しているように感じました。

子規でも虚子でも草田男でもないのです。

そして俳句作品の頁に移ります。

そこには「生きのいい」作家・作品が並べられていました。

高柳克弘、神野紗希、佐藤文香、山口優夢…。

さらには、あの傑作脱力系エッセイ『去年ルノアールで』の作者・せきしろ、漫才コンビ「ピース」のボケ役で文学愛好家で売っている人気者・又吉直樹、ロックバンド「サカナクション」の山口一郎と、意外な顔ぶれに驚かされる仕掛けです。

この三人の作品は俳句というよりは自由律、と言うよりも一行詩の世界ですが、その後を千野帽子と堀本裕樹という鼎談組のお二人でしめるという念の入った構成。

この後はどうなるのか、とますます心が騒いでいるところに、角川春樹のインタビューが飛び込んできて、ひとつクエスチョン・マークが打たれるわけですが、考えてみれば例の「魂の一行詩」ですから落語の考えオチみたいなものでしょうか。

このまま内容には少しも触れずに進みます。

企画は終盤へと向かい、写生論、韻律論、季節論、詩型論と俳句の本筋の論考が続き、最後に「世界制作の方法」という途方もない名前のついたセクションで、池田澄子のインタビュー(聞き手は佐藤文香)「たのしくさびしく青臭く」がドーンと置かれている。

さて、この現代俳句特集はユリイカ的サブカルあるいはオタク戦略の一環なのでしょうか。

お前は面白くないと思っているのかって?

いえ、面白いと思いました。

また、『新撰21』や『超新撰21』がぼくに与えてくれた衝撃の背景なども確認できる好企画であり、これまで実作に比べて欠けていた評論面を補強しているように思えました。

しかし、どうしても「ユリイカ的」、という印象も持ってしまったのです。

ひととおり読み終えましたが、自分なりの整理はまだできずにおります。

だから、introduction としてみました。

次は(もう既に今号で誰か書いているかもしれませんが)週刊俳句にお集まりの皆さんにこの「ユリイカ的俳句」について語ってほしいと思っています。

賛否それぞれあるかもしれない。それが読みたい。

そうすれば『ユリイカ』10月号がメルクマールになるかどうかが見えてくるのだろうと
思ったのでした。

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