奇人怪人俳人(五)
闘うキリスト者 安土多架志
今井 聖
「街 no.83 」(2010.6)より転載
僕の部屋。
古ぼけた箪笥の一番下の段、近年ほとんど空けたことのない抽斗を引くと、二十六年前クリーニングから出されたままのビニールに包まれた白い手袋と薄茶のロングコートが現れる。ビニールに付けられた紙片に「小田至臣」とある。
小田至臣、安土多架志の本名。
一九八四年八月二十三日、三十七歳で多架志が亡くなり、その葬のあと、最後まで看取ったよこたみみえさんから形見分けとして貰ったものだ。
キリスト教会での葬儀は質素簡略。
同志社大学の神学部在学中に政治闘争に参加し、七〇年前後に一時、山谷闘争に関わった彼の棺の回りで、山谷から駆けつけたオッちゃんたちがいつまでもうなだれていた。
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多架志が亡くなるほぼ一年前の七月七日、高柳重信さんが亡くなられた。
翌日の葬儀に、僕と多架志、そして多架志と同棲している「同志」横田美紀恵さん(俳号よこたみみえ)、友人の豊田秀明さんの四人で連れ立って出かけたのだった。
葬議場である荻窪願泉寺に向かう途中、駅を出てからの幹線道路のなんでもない上り勾配を多架志は上れずガードレールに掴まって息を整えた。
少し前に彼は大腸癌の告知を受けていた。
当時癌告知は一般的ではなかった。しかも、彼の場合は末期(ステージⅣ)の診断。
神学部出のキリスト者と知って医師は告知を決断したのだろう。
重信さんの葬儀に行ったのはそれぞれの思いがあったからだ。
その数年前から多架志は重信さんにその作風を認められていた。「俳句研究」(当時は重信さん編集)新人賞佳作、同誌企画の「五十句競作」でも佳作に入った。
それはこんな句
蜂の影黙示録の上過ぎゆけり
前世より無を持ち来る絲蜻蛉
エチュードの円環なせり冬銀河
初蝶の天より天草四郎の忌
仮死といふ知恵こそ悲し蜆桶
雪暗し耳を澄ませばヒ・ト・ゴ・ロ・シ
重信さんは多架志のこういう傾向を認めて「俳句研究」誌上に文章や作品を書かせていた。多架志が重信好みの若手の一人だったことは確かである。
僕はといえば、同じ頃に、同誌の「現代俳句の今日と明日」という特集に、戦後俳句、特に新興俳句系譜を全否定する文章を書いて以来、同誌では完全なヒール役で、川名大さんをはじめとする重信さん子飼いの論客たちの集中砲火を浴びている最中であった。
重信さんは僕に何度も文章を書かせては自分の手勢に叩かせたが、そのおかげで僕は自分の主張が曲りなりにも整備されていった。訃報を聞いたとき一度も会ったことのない「敵」の首魁に花を手向ける気になった。葬儀には僕の方から多架志を誘ったのだった。
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多架志に始めて会ったのは寒雷の東京句会。
突然現れた印象だったが、聞いてみると、実は、彼は一九七五年から加藤楸邨指導のサンケイ俳句教室に通っていた。ほとんど中年女性ばかりのカルチャー教室に彼がどういう動機で通い始めたのかはついに聞かず仕舞いだった。
どうみても当時の多架志の志向しているところと加藤楸邨の作品は接点がないように見えるのだが、本人にとっては必然だったのだろう。
彼の作風はいわゆる言葉重視。近代詩的モダニズムふうで鬱然とした内部意識をさらしているように見える。
実はそれが当時のモダンボーイ俳人の類型的ポーズだと信じていた僕は、彼の作風に最初は反発を感じたのだった。
それに白手袋、ロングコートでもわかるが、お洒落で知的な風貌。礼儀正しく、優しく、訥弁で、それでいて意志の強さがうかがえる、要するにイケメン。役者が彼を演じるとするなら、福山雅治か竹野内豊。そんな彼に対する嫉妬もちょっぴりあった。
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安土多架志。本名小田至臣(おだしおみ)。一九四六年、京都に生まれる。私立高槻高校に入学。
そこの教師であった現「運河」主宰の茨木和生さんに国語を習っている。あとで知ったのだが四九歳で夭折した「豈」の摂津幸彦や「里」の島田牙城もこの高校出身で多架志の後輩になる。
高校卒業後同志社大学神学部に入学。ここで思うのは岡林信康との共通性である。岡林と多架志は同い年。京都生まれも同じ。大学も同じである。
岡林は、多架志が一時潜伏した山谷闘争に関わっている。大学は岡林は中退したが二人の間に共通性は多い。
当時から、いや、当時の方が今よりも岡林は有名だったので、僕は多架志に岡林との関係を聞いたように記憶しているが、関わりはないとの返事だったように思う。
多架志からはどうも特定の党派にいた痕跡が感じられない。当時、同志社大学はブント(社会主義学生同盟)一色だったが、彼の言動にはそういうセクト臭がしない。
僕は、一時退院して千葉県佐倉の自宅にいた彼を訪ねたこともあるし、多くの本を持ち込んだ病院生活も見てきたが、本棚の本の中にも発言の中にもとにかく特定の党派の色を感じないのだ。党派にはその党派の特殊な用語がかならずあるものなのだが。
神を説くことは、本来唯物史観とは背反する。マルクス主義とキリストをどう止揚するのか、そんな論議があった。
僕より四つ年長で、全共闘運動のいわば最大の高揚期に大学にいた彼は、何を提起しても、運動の正当性があればそれを実現できると信じられた年代だった。
論理構築して闘えば、現実に或る程度は成果が獲られたからだ。四つ下の僕らの年代はまったく様相は違った。力づくで権力が押さえ込んできた年代。機動隊の学内導入は日常茶飯事、蹴散らされて無力感だけが残った。
僕は多架志の持つ純粋さや全うさを揶揄しようとしたこともある。
そういう論議に入りかけても僕の中で感じた彼の「聖性」のようなものがストップをかけた。彼は「神学部」出の神の使徒であるという思いが僕を支配した。
宗教では解決し得ないものを行動で解決する。或いは宗教的救済を行動で実践する。
そう考えて日々生きている彼に何が言えようか。権力と闘いながら民衆の中に入る。いわば純粋なキリスト者として多架志は山谷解放の闘争以降に関ったに違いない。
彼は七三年に大学を卒業。入学して卒業するまでに七年かかっている。当時の学生活動家の典型がここにある。
卒業後、上京して外資系香料会社に勤務。すぐ組合を立ち上げて会社と対立。仲間への首切りなどを糾弾する裁判は没年まで続いた。
しかも、この間、裁判に資するためか中央大学法学部の通信教育を受講して死の前年に終了。卒論は「労務管理の合法性」。管理の矛盾を法的に攻めようとしたのだろう。会社側との闘争の合間に書いたこの卒論の完成直前に体に変調を来たし癌が見つかっている。
こんなふうに、大学を経て社会に入っていく彼の動向をみていくと間断なく「闘争」の繰り返し。
あのもの静かな風貌のどこにそんな激しさが隠されていたのかと思うほどの筋金入りの闘士のそれである。経営者側に妥協せず徹底抗戦、裁判をも辞さない。実際のところ、こういうことが果たして大きな組織の後ろ立てなくして可能なのだろうか。共産党にも、社会党にも、また、反日共系の党派にも属さず、彼は労働法の知識を磨き交渉し歩いて、一人で集団の核となって闘ったのだった。
常人にはとてもできないことである。本来なら党派が動いてくれるところを自分で何もかもやらなければならない。
だからというべきか、巨大なストレスが彼を蝕んだのだろう。
彼には傍目に見てもほんとうに仲むつまじい恋人がいた。休暇中のヨーロッパへの旅、シベリア鉄道で出会ったよこたみみえさんである。みみえさんは髪の長い日本的な美人で、入院中も寝泊りし最後の日までいつも彼のそばにいた。
多架志は歌人でもある。
俳句より短歌の方が世評を得ていたと言ってもいい。その中にみみえさんは多く登場する。
セーターのみづいろ淋し寄りそへる君も無口な性格をもつ
キスしてもいいか氷雨の降り続く街は淋しい息絶えんほど
ことのほか脆き女体と知りしとき夜霧は雨に変りいたらむ
雨に咲く紫陽花よりも泣きやすき汝ゆゑにこそ癒えて生きたし
俳句の中には最期の作品群の中に彼女が出てくる。
われの鬱はまた汝の鬱チューリップ
遠からず近からずゐて毛絲編む
冬めくや君の犬歯をわが愛す
僕ら周囲にいたものはみな二人で病と闘う姿に胸をうたれていた。
癌告知の時点で手術不能と言われた彼は、民間療法の本を買い込みベッドの脇に積んで可能な限りそれらを試した。あるとき、僕は書店で「癌は治る」という見出しにひかれて本を手にした。
特別に調合されたハーブ茶の話が出ており、それを飲むと癌が治った(人もいる)という内容だった。本の末尾には横浜でそれを売っている販売店の住所も出ている。
多架志に話すとやってみるというので、僕はそれを買いにいった。
野毛の坂の途中にある民家のようなところにその店はあった。小さな茶筒のような缶が一万円だった。
病室に届けると、その茶筒を手にして、多架志はみみえさんに「メディスン、メディスン」と英語で言った。
薬と言わずメディスンと言ったその言葉に僕は驚いてその英語の違和感がいつまでも残った。
多架志はずっと多くの薬について知識を張り巡らしていたのだろう。そういう日常の積み重ねからの専門用語ではなかったか。
その奇跡のハーブ茶の説明書には、一日、一ガロン飲めと書いてあった。
多架志は読んで、
「あかんわ。とても一ガロンは飲めん」
と苦笑した。
「少しでも利尿効果はあるよ」
みみえさんが慰めた。
多架志の足にはすでにむくみが来ていた。
同じ頃、多架志にレバーの焼き鳥を頼まれたことがある。
「なるべくレアの奴でたのむよ」
病院近くの焼き鳥屋で買ってきた血の色のレバーを、多架志は義務のように喰らいつき呑み込んだ。
癌との闘いは最期の最期まで続いた。
八十三年の末には、フィリピンのバギオに指先で体を切開して素手で患部から癌を取り出すHEALER(ヒーラー)がいるという情報で、そこを訪れて治療を受けている。
魔術だろうと祈祷だろうと何でもやってみようと決意したのだろう。権力に立ち向かう勇気と同じ気力をもって。
そこからのクリスマスカードが今も手元にある。
「いつも心配して戴き、とてもうれしく思っております。BAGUIOは今クリスマスシーズンですが、春の陽気でいろんな花が咲き乱れてゐます。蝶々も飛んでゐます。帰国は新年になりさうですが、帰ったら是非、御会ひしたいと思ってゐます。
HEALERの屋根に蝶舞ふ冬の朝 多架志」
歴史的仮名遣いが彼の美意識の一端を表している。
しかし、ハーブも血の滴るレバーも効を奏さず、ついに切迫した状況が訪れた。
「ここ数日かも知れません。会ってやってください」
みみえさんから連絡が入り病院に駆けつけると多架志はすでにほとんど目が見えない。頭蓋骨に皮一枚を貼ったような顔はすでに死相のようなものが感じられた。足は普段の三倍くらいに膨れ上がり象の足のようだ。
僕は極力明るく言った。
「二人で句会やろう。題は入道雲でどう」
五階の病室の窓からは正面に大きな入道雲が見えていた。
「今日はちょっとシンドイなあ」
彼は消え入るような声で返した。
それでもというと彼は僕に口述筆記を頼んだ。
彼の句、
おほいなる入道雲の下に病む
僕の句、
自転車を立ち漕ぎ入道雲に消ゆ
こんな状態なのに、彼の句の力強さはどうだ。とても数日後に他界する人の作品とは思えない。彼の中で病魔に対する闘いの気力はまだ燃えていたのだ。
僕は自分の句をつくったあとで、「消ゆ」は彼に対して失礼かなとちょっと気にした。
彼の句は結局この句が最後の句になった。
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安土多架志は投稿マニアだった。俳句と短歌を多くの雑誌に投稿し入選した。
俳句、短歌、それぞれの総合誌数誌の投稿欄の他に、朝日、毎日、読売、サンケイ、日経、東京タイムズの各新聞。「小説新潮」、「オール読物」、「小説宝石」等々。
それらの俳句欄の選者で多架志の句を採ったのは、加藤楸邨、飯田龍太、金子兜太、加藤知世子、能村登四郎、鷲谷七菜子、清崎敏郎、中村汀女、後藤比奈夫、福田甲子雄、鷹羽狩行の各氏。
短歌の方では宮柊二、塚本邦雄、島田修二、上田三四二、中村純一、近藤芳美、佐々木幸綱、木俣修の各氏。
このほかに詩も書いていて、「抒情文芸」、「詩人会議」、「詩芸術」、「千葉日報」、「思想の科学」などに発表している。みみえさんによると多架志には五冊の詩集があるとのことだったが、彼女の所在も不明な今、詳細はわからない。
没後に彼女がまとめた五篇だけの「掌詩集」の中から一篇を紹介しよう。
或る夜
百萬の兵があれば きつと
包囲していたであらうあたりを
或る夜 わたしは歩いてゐた
中樞といふ言葉を思った
中樞……神経 おほ
わたしは自律神経を
病んでいたのだった苦い珈琲をのませる廛で
わたしは
暗い記憶を逆撫でしてゐた
古いノオトブックを
裏からめくつて行くやうに
用心深く ときをり
少女のやうに胸をときめかせて
あり得なかった筈の
過去を呼び戻しては 空に
帰してやる そんな
遊びを繰り返してゐたら
ふいに わたしの記憶の中に
鋭利な刃物で
切り抜かれた頁があるのを
見つけた その箇処は
裏からみても
表からみても何もないから
窓のやうにして ああ
青空をのぞくことができた
(一九八三・千葉日報)
暗い詩である。これも闘病中の作。
安土多架志は、どうしてこんなに投稿マニアだったのだろう。
投稿をし、当然ながら入選を強く願うとその選者の癖(傾向)に合わせるようになる。さまざまの主要作家の癖を熟知し、そこを踏まえて作るようになると、技術は向上するが、かけがえのない「自分」を失いかねない。また、作品の中に一貫する「理念」というべきものも立てにくくなる。投稿マニアのこころすべきところはこのあたりである。
キスしてもいいか氷雨の降り續く街は淋しい息絶えんほど
多架志のこの短歌を、雑誌の投稿欄で選んだ選者塚本邦雄が「この作者はエンターテインメントのひとである」と書いた。多架志の技術を称えつつ、選者を喜ばせるコツを知っているという「皮肉」も感じられる。
多架志は自らの俳句も短歌も「習作」と呼んだ。彼が単なる謙遜でその言葉を言ったとは思えない。投稿を通じてさまざまに「習作」を試して、いわば「本格」の入り口を探していたというように捉えたい。
第一歌集『壮年』と第一句集『未来』が八十四年七月に相次いで刊行された。僕も含めて多架志の友人たちは彼のエネルギーが乗り移ったかのように二冊の制作に連携して奔走した。彼の存命なうちに二冊とも刊行されたのは奇跡といってもいい。
多架志の病室の壁にはマッターホルンの写真が貼られていた。みみえさんと出会った場所だ。
彼女は多架志の死後、骨をその山の麓に埋めてくれという彼の言葉に従い、骨の一部を持ってマッターホルンに向かった。
それ以降、みみえさんの消息は杳として知れない。
歌集『壮年』の後記に書かれた、死まで二ヶ月を切った時点での多架志の言葉を最後に記して彼の無念を思い、その不屈の闘志を継ぎたいと思う。
書きとめておきたいことは山ほどあるのだが、現在の自分には手早くまとめることはできない。一先づ筆を置く。
グリューネヴァルド磔刑の基督を見をり末期癌(ステージフォー)われも磔刑
―――何、負けるものか。きつとよくなる。
一九八四年七月一日 安土多架志
(了)
写真は『虹あるごとくー夭逝俳人列伝』(村上護著 本阿弥書店刊)より。
安土多架志俳句作品・十句撰
(文中にあげた作品を除く・2011/10/03一句入れ替え)
陽炎へばわれに未来のあるごとし
ひこばゆる遠き昔のアナキスト
囀りを聴きつつ醒めてまた眠る
風船を放てば空の青さかな
しづかなるゆふべのいのりいととんぼ
つづまりはひとりの痛み天の川
あたたかき冬芽にふれて旅心
剖(ひら)かるる身に如月の夜の深さ
雁風呂や海の向ふのポーランド
日日遠き革命烏瓜ゆるる
短歌作品十句撰
いつのまに無援となるや耳といふ淋しきものを持ちて隔たる
一本の刃であれば垂直に日の暮れまでも立ち盡すべし
わが知らぬ朝におぐらき海深く魚群探知機おろされてゐむ
力あらぬことより湧きし或る憤怒力あらぬこと知りて冷えゐつ
失ふは鉄鎖のみされど今まさに朝顔の蔓虚空へと伸ぶ
急行はホームいつぱいに止まりその全とびらより悲哀あふるる
亡びゆく愛掌上の空蟬を背伸びして枝に返しおきたり
QuoVadis?花と応へて断崖(きりぎし)を歩む逢魔が刻と思へり
神も悪魔も死したるのちのそよ風の如き会話とすれ違ひたり
くれなゐの郵便車午後の街を来て小雨にけぶるわたしのポスト
●
「街」俳句の会 (主宰・今井聖)サイト ≫見る
3 comments:
奇人変人が好きなので毎回楽しみに読んでいますが、今回の十句選中の、
春の星ひとつ潤みてみな潤む
は、表記の違いを除けば、
春の星一つ潤みて皆うるむ 青山丈
と同じです。この句は、
春の星ひとつ潤めばみなうるむ 柴田白葉女
という先行句があるので類想句ではないかと話題になりましたが、その経緯はウラハイの「猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕」に書いたことがあります。
白葉女も「自分の句自体が特別変わった内容でもないから類似句があっても不思議ではない」と言っているし、単なる暗合だと思いますが、ここまで青山丈の句と同じだと、十句撰から外して、別の句に差し替えた方が良いと思います。
猫も歩けば類句に当たる 第3回〔下〕は、こちら▼です。
http://hw02.blogspot.com/2009/01/3_17.html
猫髭さま
ご指摘ありがとうございます。
実に納得のいくところでして、多架志の十句撰の中のこの句を他の句に差し替えさせていだきます。
読者の皆様にも僕の不明をお詫び申し上げます。
春の星の句は、
囀りを聴きつつ醒めてまた眠る
風船を放てば空の青さかな
しづかなるゆふべのいのりいととんぼ
つづまりはひとりの痛み天の川
あたたかき冬芽にふれて旅心
遠からず近からずゐて毛絲編む
などの句とともに最晩年の病床での句で、多架志の思い出の句として僕の中にありました。
しかし、そういう個人の思いとは別に作品の類型性という観点からみるとこれら他の句についても類似句の可能性なしとしません。
そのことにあらためて気づきました。
もし多架志が生きていてこの話ができたら、彼は即座に自作を取り下げたことでしょう。「あかんなあ」と自分の頭をこづいたかもしれません。
小文中、塚本邦雄が指摘した彼のエンターテンインメント性というのはこんなところにもあらわれているのだと思います。
もうすこし彼の生の時間があったらこの平明さや類型性から抜けた境地に到ったことと思います。
新しい
ひこばゆる遠き昔のアナキスト
は
あたたかき冬芽にふれて旅心
と一対の関係に読めます。
冬芽に触れて遠い旅に出たアナキスト多架志が、いつか蘗となって姿をあらわす。そんな句です。
以上、お詫びやら御礼やら。
今井聖
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