2011-12-11

川柳という対岸 『バックストローク』最終号を読む 西原天気

川柳という対岸
『バックストローク』最終号を読む
西原天気


『バックストローク』第36号(2011年11月25日)。発行人・石部明、編集人・畑美樹、協力・石田柊馬、樋口由紀子、小池正博。総ページ数・72頁。

巻頭に、石部明による「終刊のあいさつ」。2003年創刊のこの川柳誌はこの号を以て終わるとのことですが、他の記事はこれまでどおり、川柳作品と句評、大会レポートが並び、とりたてて終刊が誌面前面に押し出されているわけではありません。この粛々としたページの運びは「美しい終わり方」のひとつのかたちだと言えましょう。



「バックストローク in 名古屋 シンポジウム」は歌人・荻原裕幸迎え、「川柳が文芸になるとき」がテーマ(司会・小池正博、パネラー・樋口由紀子、畑美樹、湊圭史)。

畑 (…)俳句や短歌はフィールドの大きさからも人口の大きさからいっても中心というものを意識したうえではみ出したり周辺を行ったりすると思っています。自由律俳句や無季・超季なども、中心にあるそのジャンルのアイデンティティを強く意識したところから始まっていると思います。確固たる中心地をとらえているから、どんなに表現がはみ出していっても、ぶれない安定感があり、読み手も、表現としてはみ出していても、その中心を感じながら読みます。
 それに対して川柳は中心を意識しないというか、中心を意識しないから川柳ではないかと考えています。うがちや諧謔など典型的な「川柳らしさ」と呼ばれるものはありますが、中心を意識しないがゆえの自由度があります。だから、はみ出しすぎると、戻って来られなくなったり、そこに自由さゆえの不自由さがあり、「作る」おもしろさがあると感じています。
どうしても俳句と関連するところを引いてしまいます。そのあたりの偏重はご海容いただくとして、俳句が中心を意識する、という部分、とても興味深いです。

「中心」を「規範(カノン)」と解すると、より表現というテーマに近づくかもしれません。「中心」だと水平的に捉えられがちになり、歴史的な側面を忘れそうですから。ただし、俳句の規範を、定型、有季など、狭義にとどめる必要はありません。規範はあえて茫漠と捉え、作者個別の問題としておくほうがいいと思います。

このほか、シンポジウムでは、マイナー文芸という現状を俳句以上に意識せざるを得ない川柳の事情、また川柳アンソロジーが待たれることなど、たいへん興味深い話題が展開されています。



同人雑詠欄から御一人様につき一句ずつ引かせていただきます。川柳に不案内な俳句愛好者がどんな句をおもしろがるのか、くらいに受け取ってください。

立ち位置を少しずらしてラッパ吹く  樋口由紀子

となる日のコネティカットの焼き魚  小池正博

最近の虎のうんこはセシウム臭い  渡辺隆夫

アメリカンコーヒーに浮く青い鳥
  湊圭史

心眼を磨くえびせんあと2ミリ  山田ゆみ葉

ホラー映画と完済という単語
  筒井祥文

天空の井戸で足裏を洗う  富山悠

極太の矢を投げ返す洗面所  兵頭全郎

やがて海市逆さ睫を売っている  清水かおり

てのひらを映すと濁ってくる鏡  前田一石

アル中の三歩手前でパンツ穿く  丸山進

煌めいて一個師団の舌届く  きゅういち

葬いと便座のぬくみご自由に  松原典子

近頃は眼には見えない桃の傷  津田暹

時計からほろほろ落ちる渡し舟
  くんじろう

1+1はおナスですよという母だ  井上しのぶ

ポケットの地雷が温い海行き電車
  田中峰代

念仏をあつめた佃煮が出来た  高橋蘭

水底の無数のあぶく 好きにせい  一戸涼子

どんぐりころころ産道を遡る  追越靖政

実篤の絵のよう鯖の水煮缶
  井上せい子

辻褄を合わせる鳩の絵の中で  重森恒雄

絹ごし豆腐の出口陣痛室の前  田中博造

長い長い長い無蓋車 渚にて  石田柊馬

鋳型から次々産まれる海月  前田ひろえ

うすむらさきを抱えて走る嵐山  畑美樹

左手に性具右手に十三夜  石部明


さらに、会員雑詠より、気ままに。

くるぶしがふわふわしてるから水菜  吉松澄子

錦蛇の感触でした虹の橋  平賀胤壽

正しくはキリンと象のたたみ方  榊陽子

象の抜け殻午後もアコーディオン  環

「る」の音を探しに スエットの上下  井上せい子

これは僕これはあなたでそれは傘  徳永政二

目のまわりだけ飛んでいる戦闘機  森茂俊

土けむり一筆箋の四行目  東おさむ

日本の進路を塞ぐ鮫海豚  関本久子

少女には鯨屋のおにいちゃんがいた  草地豊子

星屑を散らして馬をつりあげる  井上しのぶ


さて、このように句を挙げていく際、私自身の「好み」というあやふやで浅薄な要素が大きく作用するわけですが、傾向は見えてきます。

というか、宣言してしまえば、句の感触・口吻・調べが、句が描出しようとする事柄に優先する。言い換えれば、意味されるもの(シニフィエ)の規定・拘束から自由であること、表現と表現されたものが因習的に直結しないこと、いわゆる「シニフィアンの戯れ」(このあたり筆の滑りと思ってください)、さらに言い換えれば、どれだけ実用的でないかが、好みの基準であるようです。

(その一方で、ウラハイ「金曜日の川柳」で紹介された須崎豆秋のこんな句もまた「おもしろい」と思ってしまうわけですが)

こうした事情は、意味了解性の高低とはさしあたって無関係です。上に引いた句はいずれも意味了解性は低い。けれども、例えば、いわゆる難解な俳句が必ずしもこの脈絡での「自由」を獲得するわけではありません(逆も同じ。つまり意味のよく伝わる句にが不自由なわけでもない)。

このあたり、舌足らずですので、もうやめましょう。



最後に、石田柊馬による同人雑詠の句評、石部明による会員雑詠の句評が、それぞれ驚くべき丹念さであることを記してきます。これはしかし『バックストローク』誌だけでなく、私が目にする川柳誌数誌に共通です。川柳全般ではないのかもしれませんが、私のような所属のない俳句愛好者からすると、この句評の重厚さが、(現代)川柳の大きな特徴のように思えてきます。

その意味も含めて、『バックストローク』誌の8年間に敬意を表し、お疲れさまでした、今後を楽しみにいたします、と、やや儀礼的ではあっても、申し上げたい気持ちです。

俳句という立脚点から見た川柳誌『バックストローク』という、手前勝手な扱いに終始しましたが、ご海容ください。


バックストローク・ウェブサイト

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