小川春休
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波多野爽波論をまとめようと思ったけれど、爽波の存在はあまりにも大きくて、どこから手を付けたら良いのか、まるで見当が付かない。仕方がないので、改めて、一句ずつ鑑賞していってみることに。「朝の爽波」とは、鑑賞をするのがいつも、朝の通勤バス車内であることから付けた本稿の題。深い意味のある命名ではないけれど、何となく、私の持っている爽波のイメージに似つかわしい。
まずは第一句集『鋪道の花』、虚子の序文に採り上げられた句から。
裏庭に冬空の立ちはだかれる 『鋪道の花』(以下同)
爽波の冬空の句というと〈冬空や猫塀づたひどこへもゆける〉の方が高名だが、掲句なども併せて味わうと、冬空というものの存在感、広がりだけでなく、厳しさ、閉塞感なども同時に感じられて不思議な読後感をもたらしてくれる。
凧上る西陣景気よしとかや
何ともめでたい句。爽波句に時折現れる経済や金銭、とても印象に残る句が多い。掲句では、下五の語りのトーンから、めでたいけれどどこか他人事といった気分も伝わる。他人事の方が呑気に純粋にめでたさを喜べる、そういう事って、ある。
冬空へくぐり戸の鈴鳴り終る
冬空という大きなものに、鈴の音が旅立っていくような。まさしく静寂へと移り変わる「鳴り終る」瞬間に焦点を合わせることで、冬空の持つ広がりとかすかな緊迫感を感じさせる。句集序文にて冬空の句を数多く採り上げた虚子は、やはり慧眼と言うべきだろう。
カーテンも引くべきは引き春の宵
春宵の風情を楽しむため、開かれているカーテンがある。それ以外のカーテンが閉じていると述べることで、逆説的にその住居全体の佇まい、暮らす人も含めた気分のようなものまで描き出す。少し浮き浮き、でも浮かれるほどではない。そんな気分。
灯虫落つ卓布は白を惜しまざる
卓布に落ちてきた蛾、卓布との対比で言えば、それは一点の「汚れ」と言える。しかし、「汚れ」というマイナスイメージを強調するより、それを跳ね返すほどの卓布の白の力強さの方に主眼を置く。爽波の句には、こうした健康的な魅力を持つものが数多くある。
ひとまず、虚子序文からはここまで。
羽子とりに入つてきしは見知らぬ子
句集『鋪道の花』冒頭の句。上田信治さんの「成分表48」にもありましたが、新年は一年の中でも特別な時期。その異質な雰囲気に現れる見知らぬ子には、どこかこの世ならざるものが感じられる。この不可思議さとめでたさとの響き合いを爽波の感覚が捉えた。
籐椅子の人みな本を得てしづか
ぽつぽつと離れて、いくつもの籐椅子。たとえば避暑地の、かなり良い別荘などであろうか。「得て」が描写の肝で、必ずしも全員が、それぞれの本を読んでいる訳でもない。読むのに疲れて、膝に乗せているだけの人もいるかもしれない。そんな、穏やかな景。
春昼の干物に風来てさまざま
春ののどかな日差しの中に、きっちりと干し並べられた洗濯物。それはある種、統制の取れた景だ。そこに風が吹いて、一時、その統制を崩す。吹き過ぎたのは同じ風なのに、それぞれが思い思いのはためき方をする洗濯物、その様に鋭敏な爽波の心も弾んでいる。
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
この句ほど良さを説明するのが難しい句も中々ない。味読のポイントは下五、鳥の挙動をからっぽの頭で無心に見ていればこその「ゆくところ」であり、仮に「ゆきにけり」と置くとつまらない句となってしまう。そうした作中主体の心の在り様も併せて味わいたい。
白靴の中なる金の文字が見ゆ
玄関に脱ぎ揃えられた白靴。靴という物の構造上、その中に光は届きにくいが、薄暗い靴の内部から、自ら光を発するかのように、金色の文字が自己主張している。真っ白な靴というだけでも十分存在感があるが、金の文字の光がそれを一層独特なものにしている。
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2012-01-22
朝の爽波 1 小川春休
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