小川春休
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朝から肩に力を入れると良くないので、あんまり硬くならない気をつけて鑑賞していたけれど、一週間分まとめると思ったより硬いな。何回「写生」って言うんだよ自分…。どうりで肩こりがひどい。
引き続き第一句集『鋪道の花』、今回は昭和16年から18年の句。
砂日傘ちよつと間違へ立ち戻る 『鋪道の花』(以下同)
強い日差しの下、立ち並ぶ砂日傘。砂日傘の下の連れや荷物は十分見えるので、見間違うことはなさそうにも思えるが、場面は海水浴。心は既に海へ、戻るべき砂日傘を、日差しの中で見失ってしまう。「立ち戻る」まで描いた所が、写生でありユーモアであり。
籾殻の山より縄の出てをりぬ
出ている縄が、籾殻に隠れている縄までも、読み手に思い描かせる(もし籾殻の山に縄がすっぽり入ってたら、そもそも縄の存在自体に気づかない)。写生は、視覚的要素と想像力とを組み合わせることで、視線の届かぬ内部構造まで、描き出すことのできる技法。
稲妻や南瓜は草にひろがれる
物としての南瓜は眼前に静止し続けているが、稲妻の光を受け、それまでとはまた別の様相を見せる。強い光と濃い影、南瓜と草とがまるで、荒れ狂う浮世絵の大蛸のように読み手の脳裏に映し出される。光の生み出す静止物の躍動感に、はっとさせられる句だ。
百日紅坂がそのまま門内へ
特に時間帯は示されていないが、明るい日差しを感じさせるのは、季語である百日紅の働きだろう。坂道は、歩みを進めるごとに景を変化させ、気付けばもうそこは誰かの邸内。複雑な地理的要素をさらっと詠んでいるようでいて、奥に桃源郷的な存在を感じさせる句。
向うから来る人ばかり息白く
朝の通勤風景であろう。理屈で考えると息が白くなるのと歩く方向は関係ないように思えるが、行き違う通勤者の中の一人を句の中心に据えて読むと、向かってくる人々の白息の方がより印象強く感じられるのも頷ける。朝日の射す方向も、関係あるかも知れない。
繭玉のよく揺るるものを見てゐたり
正月には、寄せては返す波のように、全く何もなすべきことのない時間が訪れる。高みから垂れ連なる繭玉の中に、ひときわよく揺れるものを見つけるのは、そんな時間。ここで写生されているのは、繭玉という物だけではなくて、時間とか、意識だったりする。
蘆刈りしあとひろびろと蘆の中
蘆の刈り跡の広々とした広がり。しかし下五で、それが大蘆原の中の限られたエリアに過ぎないことが明らかになる。蘆原全体は、刈り跡を内包して、さらに広く大きいのである。爽波の知的さが表れており、大景の句でありながら、クリアさを兼ね備えている。
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2012-01-29
朝の爽波 2 小川春休
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