2012-01-01

奇人怪人俳人(7) 恋多きカリスマ・原田喬 今井 聖

奇人怪人俳人(七)
恋多きカリスマ・原田喬(はらだ・たかし)

今井 聖


「街 no.86 」(2010.12)より転載


平成3年の年末、句会のあと、引き続いての年度総会の冒頭に主宰原田喬が壇上に立つ。喬が提唱する俳句の理念「土に近くあれ。質素・素朴であれ」の言葉どおり、地元浜松の質素な集会場での「椎」の集まりである。

喬は五年前の食道癌手術の折に声帯も取らざるを得なかったため声が出ない。それを何とか全身全霊でかすかな声を絞り出す。

満場静まり返る中、短躯痩身の喬が壇上に立って発声のために身構えると百人ほどの出席者の中で、すでに感激してハンカチを眼に当てる人が何人もいる。彼が立っただけで、そこをオーラが包んでいる。

「民子、いつまでもこんな句をつくっちゃだめだ。なんべん言ったらわかる」

掠れたかすかな声で呼び捨てで名指しされた民子さんは顔を覆う。叱られた悲しさではなく、名指しされたうれしさで泣いているように見える。招かれてその場に居合わせた僕にも、喬の俳句への厳しくも熱い思いが伝わってきて思わず胸を衝かれる。

人を感動させるということがどういうことなのか。叱咤と愛情を同時に瞬時に相手に浸透させるということがどういうことなのか。

その日、僕はほんもののカリスマを目撃したのだった。



昭和20年満州で応召した喬は終戦とともにソ連軍の捕虜となる。

シベリア中部、エニセー川河畔の町クラスノヤルクスの捕虜収容所で、氏は数千人の捕虜の代表としてソ連軍との折衝に当たった。捕虜側からの待遇改善要求や、ソ連側から依頼される秩序の維持と労働の効率化の要求のはざまに立って、日常的に全員の前で演説をしたとのこと。

配給されたパンを一グラムたりとも不公平のないように秤で計って分配している鬼気迫る記録画を、舞鶴のシベリア資料館で見た。極寒の地での捕虜生活は毎日毎日が死と隣り合わせである。そんな状況での数千人を統率する立場が喬さんのカリスマ性を培った要因に違いない。



原田喬・大正2年生まれ。父親は大正13年に「ホトトギス」第一回同人に推された原田濱人(ひんじん)である。

明治17年浜松に生まれた濱人は、広島高等師範を出て教師となり、まず松山に赴任する。ここで結婚し俳句を始める。子規の郷里松山がもたらした俳句との縁である。

その後、旧制小倉中学で教鞭と執っていたとき喬をもうける。ここでの同僚に杉田宇内がいた。

 足袋つぐやノラともなれず教師妻  久女

と才女久女に言わしめたあの「平凡で退屈な夫」、美術教師の宇内である。

久女との夫婦の相性はともかく、濱人によると宇内は常識に富んだ好人物だったらしい。まあ、宇内像には久女の演出も入っているのだろう。しかしこんな出会いも虚子、濱人、喬とつながってゆく運命の不思議な糸を思わせる。

同僚の妻としての久女との親交も始まり、その影響もあって濱人は「ホトトギス」に投句を始める。

大正3年、奈良の郡山中学に転任。このころ京都を訪れた虚子一行の句会に濱人は参加している。このときの印象が良かったのか、虚子は大正6年秋、大阪に旅行をした前後(正確な日時は不明である)に大和郡山の濱人居を訪れることになる。

濱人にとっては生涯の記念すべき日であった。

この日は雨。虚子の来訪を喜んで、四歳の子、喬は家の柱を攀じ登ってみせた。虚子はそれを句に詠んだ。

 客を喜びて柱に登る子秋の雨
  虚子(句集『五百句』所収) 
 
特筆すべきは、実はこの場に居合わせたもうひとりの俳人がいたこと。阿波野青畝である。青畝はこのときまだ旧制畝傍中学の学生。

青畝はこのときのことを書いている。

「忘れもしない。柿畑の中の濱人居を。その日先生(濱人のこと・注記今井)はいとも慇懃に虚子師を接待してをられ、私は身を固くして見守ってゐると、喬ちやんといふ先生の坊ちやんが出てきて取合の柱にとりついてよぢ登った。どんなものだといふ顔をして威張るのを虚子師が笑つて見てをられるのに、濱人先生は恐縮して喬ちやんを叱られた。けれども一座の空気はこれでぐつと和やかなものになった。

 客を喜びて柱に登る子秋の雨 虚子

私は記念に右の短冊を頂くことができた」『定本濱人句集』(昭和38年)あとがき

虚子はこのときのことを長く覚えていて、後年濱人に「あの柱に登る子は、もういくつになられましたか」という葉書を出したりしている。

この「ハプニング」の七年後、大正13年、濱人は「ホトトギス」同人となり、飯田蛇笏、原石鼎、村上鬼城、前田普羅らと並んで虚子の「進むべき俳句の道」にも採録される。まさに名実ともにホトトギスの俊英として認められたわけである。

ところが好事魔多し。順風満帆の俳人としての人生に落し穴が待っていた。

もともと作品に主観的傾向が強かった濱人は、当時、虚子が「客観写生」への志向を強めてきたことに反発し、「ホトトギス」誌上に「純客観写生に低徊する勿れ」という客観写生批判、主観肯定の一文を書いて虚子の志向に異を唱え虚子自身に論駁批判されて「ホトトギス」を去る。

この一連の経緯には別の見方もできる。

濱人が「ホトトギス」に客観写生を非難する文章を載せることができたのは、虚子の許可つまり虚子の計らいがあってのこと。つまり、虚子は当時勢いのあった蛇笏、石鼎、普羅らの主観傾向を牽制しようとして濱人に主観大切の文章を書かせ自らこれを叩いてみせた。虚子の真情を知れば蛇笏らも自制するであろうと目論んだのだ。巷間言われる虚子の策士としての一面を考えるとやりそうなことではある。

濱人は「ホトトギス」の路線修正のため虚子によってスケープゴートにされたのかもしれない。

「ホトトギス」を追われた濱人は浜松転任を機に、かねてから関わっていた「すその」を経て、昭和14年地元に俳誌「みづうみ」を創刊主宰し生涯これに携わることになる。



柱に登った子に話を戻そう。

喬は父濱人の転任について各地をまわったあと、この年に沼津中学に入学。その後、横浜高商(現横浜国大)に進学する。横浜高商は進取の経済学の砦。

このときの息子を詠んだ濱人の句に
  
 秋風や汝がトランクの露語辞典  濱人

二十年ほど前だろうか、僕は喬主宰以下「椎」の一行を迎えて横浜を案内したことがある。車が関内の馬車道を過ぎ、古いレンガ造りの警察署の建物の前に来たとき喬が呟いた。

「昔、ここにずいぶんお世話になった」

喬は経済学徒としてマルクスを学びかなり深く政治運動に関わったようである。逮捕され収監された彼を引き取りに濱人が浜松から出てきたこともあると聞いた。

 固く封じてレーニン全集曝書せず  喬

という句が後年にある。レーニンへの思いと傷痕の深さがうかがわれる作品である。

そんないきさつもあって、日本が嫌になったのだろう。

喬は16年に渡満して商社で働き始める。

濱人はこの破天荒な息子にほとほと手を焼いたに違いないが、「ホトトギス」離脱の経緯などを思うと直情径行は濱人にも共通するところ。まさにこの親にしてこの子ありと言えなくもない。

このマルクス主義への学びと商社で培った語学の知識は後年の抑留の時期に捕虜の代表としてソ連側からも認められる彼の処遇につながっていく。過酷な環境で生き残れたのは実はこの両者のおかげかもしれぬ。

昭和23年シベリアから復員。その後の動向を見ると三年間の抑留生活が彼の志向をはっきりと定めたようである。

地元浜松で教師をし、夜は地元の青年学級を指導しながら、俳句を加藤楸邨に師事する。

俳句は14年頃から父に教わって始めてはいた。しかし、ここで父の主宰する「みづうみ」には拠らず「寒雷」に投句した理由を、楸邨の「あづまみちのく的精神」に惹かれたと喬は言う。

楸邨の中にある野太いもの、反中央的、反骨、素朴の精神が喬の志向と一致したのだ。

喬は華美なもの、洗練されたもの、都会的なものを嫌悪した。

 枸杞の実を噛み東京を憎みをり

 
この志向の動機には、マルクスもシベリアも深く関わっていよう。

濱人は喬の選択を認め、息子を頼むという手紙を楸邨に送っている。楸邨はこの俳壇の大先達から頼まれて恐縮したことだろう。しかし、そんな経緯があっても、いやあるからこそなおさらに楸邨は喬を特別扱いしない。

喬は昭和39年に「寒雷」同人になるまで七年を要するのである。
 
昭和38年には門下の人たちによって『定本濱人句集』が刊行される。

装丁武者小路実篤、「あとがき」が阿波野青畝と加藤楸邨である。
句集刊行会の幹事は、楸邨には喬経由で序文を、と依頼したらしい。喬は、自分の父のためにとは言い出しにくかったがしぶしぶこれを承知した。

楸邨は「大先輩の句集に対し序文など書けないが、あとがきくらいならお役に立ちたい」と返事。

この「あとがき」、何度読んでも僕は読むたびに胸が詰まる。「秋晴や半日歩く只の道」という濱人のなんでもない平凡な句のように思える一句の真髄が鑑賞によっていかに引き出されるかを実感するのである。

少し長いがそのさわりの部分をあげておく。
  
 秋晴や半日歩く只の道

昭和四年改造社から出た現代日本文学全集の中に現代短歌集と共に現代俳句が収められてをり、私が俳句に関係したのはその両三年後のことだから、この本は私の接した最も早い俳句の本といふことになる。

私がまづ師事したのが村上鬼城先生、やや後に水原秋桜子先生だつた。私が師事した頃は、秋桜子先生が「ホトトギス」を離脱する前後で、私も先生の熱気に打たれたのであるが、その目に映つたのが原田濱人先生の作だつた。自分の師事してゐる先生が今離脱した「ホトトギス」を、はるか以前に離脱したといふことが、私の関心を誘つたのである。そしてその頃惹かれた作品の一つがここに書いた「秋晴」の句である。

ひとりの友人はこの句を、秋晴なので只の平凡な道をつい半日歩きつづけてしまつたのだと解してゐた。さう解するのかも知れない。しかし、私にはどうもさうでないやうな感じ方がして仕方なかつた。

先生は写真で見ると、やさしいが一途な目をしてをられる。人に譲りたくても、妥協したくてもできさうもない人の目である。秋晴の快さにつり出されたというやうな感じ方がどうしてもふさはしくないのである。

「只の道」だと知ってゐても、いくら歩いていつてもこれだけの道だと知つてゐても、どうしても歩いてゆかずにはゐられないやうな、歩くことだけが自分のよりどころのやうな、私の内にかくされてゐるそんな気持がこの句から誘ひだされたのだ。これは自分にひきつけた解釈かも知れない。しかし、この句を思ひだす度に奇妙に私はそんな気持にされるのだ。

「ホトトギス」から「すその」を経て今日まで、句集からいへば、「第一濱人句集」から「厳滴」及び「厳滴以後」を経て現在に至る先生のながい歩みは、「只の道」だと感ずるとすぐ止めてしまふやうな、計算づくの道ではなく、その果からの定かならぬ呼声に惹かれつづけた歩みなのだと思ふ。(後略)


「ホトトギス」にあらずんば俳人にあらずと言われた時代の、しかも俊英と自他ともに認める座を師虚子に追われた傷痕の深さは想像を超える。

楸邨の鑑賞は濱人のその悲しみと地元での俳誌創刊の新しい決意、この両方を一句に見ている。またそこには楸邨自身が師である秋桜子から「馬酔木」を追われた経緯を思い起こし、自分の悲しみと決意を重ねて見ているようにも思われるのである。

喬は父のもとを離れ生涯の師楸邨を得るが、父を否定したわけではない。父の「只の道」を理解しながら、自分の可能性を楸邨の中から引き出す。そして、同時に父の原点でもある虚子への敬愛も技術的方法として句の中に生かそうとしている。喬作品の中にあるおおらかさは楸邨の傾向にはないものである。

虚子、濱人、楸邨が喬俳句の骨格を形成している。

 鬼やんま虚子がのこしし眼はも
 父の鬼はわが鬼なりき桜咲く
 陽炎を千里歩まば虚子に会はむ
 そこはいつも父との時間冬の川
 楸邨を探しに出れば天の川


喬は戦後地元の中学校や高校の教師を勤め昭和46年に退職。その四年後、中学、高校、青年学級の教え子を中心にして俳誌「椎」を創刊する。

喬は平成11年に亡くなるが「椎」は現在も彼の遺志をついで地元で活動をしている。

と、ここまでが俳人原田喬の表の姿。俳句史の中での位置である。



ここからが喬の側面となる。

側面は往々にして表の面を支え、人間喬を炙り出す。そこがこの連載のモチーフであることは言わずもがな。

僕は喬の第二句集『灘』の跋文と現代俳句文庫『原田喬句集』の解説を書いている。

ふたつとも喬自身から頼まれたのであるが、その二度の機会とも、実は喬に真顔で念を押された事柄がある。

「聖さん、何を書いてもいいよ。女のこと以外はね」

僕は頷いてその約束を守ったが、ここではその約束を破ろうと思う。とはいっても喬は女性を巧言を弄して欺いたわけではない。それどころか自分の気持ちに正直であり続けただけなのだ。



喬はとにかく女性にもてた。

最初の結婚は昭和13年、喬二十五歳のとき。一男、二女をもうけるが、単身渡満。応召、抑留を経て復員と同時に離婚。喬は長男、長女を引き取る。

二年後、再婚するがその人を籍に入れたまま二十歳以上歳の離れた中学校での教え子と同棲。

この教え子は二年後、普通の結婚を望むと言い残して喬から離れる。そのとき喬は「娘を嫁に出すような気持で彼女を解放する」という趣旨の挨拶状を友人知人に配る。

常識では計りがたいが浜松という狭い地域でのことである。近くに濱人句碑もあってその子、喬の存在は知られていただろうし、喬自身が青年学級も指導する有能な熱血教師。職場も自宅もないほど密接に教え子たちと関わってきたから、当然一緒に暮している女性も表面に出る。喬のプライベートは望むと望まざるとに関わらず、人の口の端に上るところとなる。だからこその行動であろう。喬はその折に句も詠んでいる。

 妻放たんかうかうと夜の唐辛子  喬

その後、県内の高校在職中に、新任教師として入ってきた女性と噂になり定年前の46年に高校を退職。

昭和50年に「椎」を創刊。
 
その後、五人ほどの女性と絶えず入れ替わり立替わり噂になる。

喬は決して一度に複数の女性を愛したわけではない。

そのとき、そのときはただ一人を一途に求め突っ走る。遊びではなく真剣そのもの。しかし、だからこそというべきか長くは続かない。

喬は昭和63年の食道癌手術後、交際のつづいていた「女性教師」と同棲。そして法的には二度目の結婚相手との籍を抜いたあと、この女性と死の三ヶ月前に入籍している。

僕は喬とは昭和50年頃からの付き合い。「寒雷」の中での僕の句の即物傾向を評価してくれてお付き合いが始まった。喬自身が虚子と濱人と楸邨の三者の止揚を意図していたせいもあるだろう。「もの」や「土」が喬にとっては第一で「観念」はその次だった。

「寒雷」という観念派の中での即物志向が僕と喬を結んだ。爾来何度か浜松に招かれたが、とにかく喬の周りはいつも女性たちが取り囲み、艶っぽい噂が絶えることはなかった。

いつか浜松の自宅にうかがったとき、一緒にテレビを観ていたら番組が偶然アメリカ大統領クリントンの不倫を報じた。
「けしからん」
喬が怒っている。てっきりクリントンの不倫を怒ったのかと思ったらそうではなかった。
「政治家が政治をきちんとやったらどんな女性と交際しようとかまわん。そんなことで政治家を非難するのがおかしい」

喬の言動には裏表がない。世間的、倫理的にどうあろうとすべては信念のもとでの行動なんだなあとつくづく思った次第である。

手術後の晩年でも誰それと手をつないで歩いていたという噂も聞いた。もちろん同棲している人とは別の女性である。

「椎」の句会に招かれたとき、その噂の女性がワンピースを着て会場にいた。ワンピースがややふくらんで見える。誰かが笑いながら、その女性に向って「それマタニティみたい」というと、別のもうひとりが、「誰の子だ。先生のか」と言って笑った。

聞いていてギクリとしたが、言われた当人も笑っている。このあけすけさは浜松という開放的な土地柄のせいなのかなと思ったものだ。

その女性は、喬の死後「椎」を去っている。

喬は女性ばかりにもてたわけではない。

青年学級で育てた農業従事者や地元の青年僧、教師時代の若い同僚、教え子の青年たちが創刊以来忠実にかつ熱烈に「椎」を支え「素朴であれ、土にちかくあれ」を俳句の上で実践してきた。

才能の高揚を感じるその時々の誰かに着目し、目をかけて厳しく鍛えあげるという主宰としての喬のやり方は男女問わず一貫していたが、こと女性になるとその目のかけ方が過熱して師弟の一線を超える。

カリスマの一典型というべきか。

平成11年3月26日、原田喬は八十六歳で世を去った。危篤の報を聞いて国立浜松病院に駆けつけたらすでに長逝されていて、ご遺体は自宅に戻られたあとであった。

浜松市和合町の自宅。「住所も和合ですね」といつか冗談を言った僕に呵呵と笑った喬。喬の死顔は生ききった爽やかさのような男の気品が漂っていた。

最後の句集『長流』の中の

 蝉はみなからりと死んでしまひけり

の「からり」のごとし。ひょいとかんたんに生を飛び越えたようなそんな顔だった。



喬が亡くなってしばらくして僕は彼の夢を見た。

川の流れを見下ろしながら土手に沿って二人で歩いていたのだった。喬は白い着物。死装束だったのかもしれない。

川は三途の川というような雰囲気ではなくて、僕が子供の頃居た鳥取市の袋川という市内を流れる川に似ていた。僕はその土手でひとりで鮒釣をするのが小学校の放課後の日課だった。

以前僕が鳥取に長く居たと話すと喬が
「僕は鳥取まで別れた女に逢いにいったことがある」
と懐かしそうに言ったのを思い出す。

夢の中の僕らはこの袋川の土手を歩いたのかもしれない。

歩きながら、ずいぶん長い間僕らは話した。何を話したのかはまるで覚えていない。ひょっとしたら野球の話をしたのかもしれない。

喬は熱狂的な阪神ファンで横浜高校出身の中田良弘という投手を褒めていたことがあった。
「いいピッチャーだが、あれはハンサムすぎていかん。女にもてすぎるにきまっとる。もてすぎると大成せん」
喬は自分を棚に上げて言ったものだ。
今は野球解説者をしている中田は、現役時は和製トラボルタと呼ばれていたのだった。

日当たりのいい土手の上を僕らはどこまでも歩いた。

歩きつかれたので、僕が、
「先生、じゃあまた」
と言うと、喬は両手で僕の両肩をぽんと叩いて
「みんな、ようやっとる」
とにこやかに僕を送った。

すべてに辛口でいつも聞くものを鼓舞したアジテーターは、別れるときに実に優しかった。

                     (了)

参考文献 
原田喬著
句集『落葉松』『伏流』『灘』『長流』『現代俳句文庫―原田喬句集』
随筆『笛』『曳馬野雑記』『続曳馬野雑記』
  
『浜人随筆』原田濱人著
『原田濱人―俳句とその生涯』藤田黄雲著


原田喬五十句撰 今井聖

(前書・シベリアにて 二句)
凍死体運ぶ力もなくなりぬ
雀烏われらみな生き解氷期
密閉されておのれの復る貨車西日
デモ終へし息深くして冬木の前

(以上『落葉松』(昭和45年)より)
十月の頭小さく水馬
伊賀甲賀梅天隙間なかりけり
枸杞の実を噛み東京を憎みをり
末黒野の一本の川夜がくる
まぐはひの空を流るる合歓の花
鬼やんま虚子がのこしし眼はも
固く封じてレーニン全集曝書せず
もきよらかに喪に加はりぬ
馬は老いてお降りに魔羅濡らすなり
父の鬼はわが鬼なりき桜咲く

新しき俎があり春の寺
角々に満潮の海七五三
十二月八日の日差がんもどき
(以上『伏流』(昭和56年)より)
海人の子に真紅の破魔矢にぎらしむ
初釜に座して少年まばたける
干棹の先端が見え冬の寺
ユーカリをずたずたにして冬銀河
根まで見ゆ春の岬のほんだはら
空濠にぶつかつてゆく油蝉
ごそごそと袋の煮干天の川
フォッサ・マグナの南端を秋の蛇
荷車を垂直に立て神の留守
陽炎を千里歩まば虚子に会はむ
国府跡真白な凧ひきずれる
松過ぎのまつさをな湾肋骨
くらやみに木は木と立てり盆踊
鶏をつれて人ゆく露の中
一月の海まつさをに陸に着く
筍の押しよせてくる火宅かな
(以上『灘』(平成1年)より)
無限憧憬泰山木は父の花
米はいつも暗く冷たく天の川

億年のなかにわれあり曼珠沙華

台秤滴れり年歩みをり

鰯雲レーニンの国なくなりぬ
霧の奥からわつしよわつしよと鉈仏

初釜の百姓のただにこにこと

うらやましきまでにぼろぼろ葱坊主

ふと死んでとはに死んだる春の星

蟬はみなからりと死んでしまひけり

田を刈つてから墓は墓空は空
全重量を見せてとぶ
手を置けば新米ひたと手を圧す

皆死んで天気つづきや小豆干す

天山のこと聞かせてよ渡り鳥

鬼やんまと行きたき所一つあり

流氷やわが音楽はその中より

(以上『長流』(平成10年)より)



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