連想遊戯:阿部完市坪内稔典三段階論板倉聖宣脚気論森鴎外大逆事件
野口 裕
あることを調べると、興味がどんどん他へ移って行き、とんでもないところに行き着く。昨日の調べ物はまさにそんな感じだった。
阿部完市『にもつは絵馬』を読む。
雨あがるあのみちこのみち花むことおるなど、坪内稔典の句への展開を連想させる。しかし、阿部完市の句論は難解であり、坪内稔典の句論は一見平易である。句は似たところがあるが、書くところはかなり違う。
ゆつくりつくる大きな紙で大きな青葉
絵本もやしてどんどここちら明るくする
そこで武谷三男が科学史の分野で提唱した三段階論を思い出した。おおざっぱに言うと、科学理論の発展は、現象論、実体論、本質論の段階を踏んで発達するというものだ。
現象論は闇雲にデータを集めて経験的な理論を積み重ねる時期、実体論は現象論を踏まえて現象の奥に潜む構造をつかみ出す段階、本質論はその構造を支配する運動理論を明らかにして本質を捕まえる段階とするものだ。
天文学でいうと、ティコ・ブラーエが行った膨大な観測記録が現象論的段階にあたり、ケプラーの法則が実体論的段階、ニュートン力学が本質論的段階にあたる。この論では、本質論的段階は行き止まりではなく、新たな現象論的段階に向かう次のステップを用意するものと考えられる。
阿部完市の句論が、本質論的段階を想起させる難解さをたたえているのに対し、坪内稔典の句論が現象論的段階のようなわかりやすさを見せるのは、逆戻りではなくて、新たなステップのための先祖返りではないか。
そんなふうに思い、三段階論を調べようと検索したら、「武谷三段階論と脚気の歴史」という板倉聖宣の講演記録が出てきた。
以前に『鴎外最大の悲劇』(坂内正、新潮選書)を読んでおり、参考資料に板倉聖宣の名があったので、彼の本職である科学教育の分野ばかりでなく、明治期の脚気研究の歴史も調査していたのは承知していたが、この講演記録を読むと、その調査は徹底しており、またひとつの目的意識を持って行われたことが分かる。それは、脚気研究の歴史を振り返るにあたって彼が述べる、
まず最初に現象論的段階をキチンとしておかなくちゃあいけない。現象論的段階をきちんとさせるということの重要性というもの。こういうものが,日本では後から勉強して自分達自ら創造したことのない人は、現象論的段階を馬鹿にする。という言葉に凝縮されている(講演記録の5.の最後の辺)。一気に本質論的段階に到達したいのは山々だが、そうは問屋が卸さない。まず足下を固めてからでないと、次の段階へは進むことができない。その一例を、脚気の研究史に彼は見て取る。
脚気は、日本人の多くがビタミンB1を含む米糠を剥ぎ取った白米を常食とするようになってから、多数の人が発病するようになった病気で、明治期に流行した。最後は心臓に来る。日露戦争時に陸軍で大量発生し、戦闘による死者よりも脚気による死者の方が多かった。この辺のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でも触れられている。
主食を白米にせず、麦飯にするか、海軍のように和食ではなく洋食を取り入れれば脚気は防げたのだが、麦飯や洋食でなぜ脚気が防げるのかについての理論が薄弱であった。そこを突いたのが、東大閥の陸軍軍医部であった。論争すれば、理論の薄弱な方は負ける。この論争に陸軍軍医として首を突っ込んでいたのが、森鴎外だった。
坂内正の本でも同じような扱いで、こうした文章を読む限り、森鴎外の役割は悪者だが、ウィキペディアの「森鴎外」や「日本の脚気史」)の項を読むとそうでもない。要するに、最高責任者を差し置いて、陸軍の惨状の責任を彼に押しつけるわけにはいかないというような話だろう。
それらを読み比べているうちに、組織外の他者に多少の配慮をするが、上官の信じる学説には逆らわない、というような森鴎外に対する人物像が浮かび上がってくる。
そこで、森鴎外の大逆事件における彼の立場も微妙なものだったなと、私の連想は止めどがなくなってきた。高校時代にとある先生から、たとえば事件の黒幕と噂される山県有朋と親交のあったこと、弁護人となった平出修に無政府主義および社会主義について講義をおこなったことなど聞かされ、複雑な人物であることは承知していたが、鴎外の書いた「沈黙の塔」などを後日読み、はたしてどれほどの覚悟のもとに書いたのかと、想像を逞しくした記憶などを思い起こしてしまった。そして、そうだ今日は大逆事件の被告、幸徳秋水や大石誠之助が処刑された日だったと気づいた。そしてこれを書いている今日、一月二十五日は、管野スガの処刑された日になる。
0 comments:
コメントを投稿