藤田哲史の俳論はすぐれて作家的である
「傘karakasa」第3号を読む
四ッ谷龍
藤田哲史による個人誌「傘karakasa」第3号(2011年12月23日発行)は、飯田蛇笏特集を組んでいる。さまざまな寄稿があって充実しているが、今回取り上げたいのは、藤田自身による飯田蛇笏論「若者のすべて」である。今日の俳論として出色の内容であり、多くの人に読まれることを期待する。
一般には、飯田蛇笏は作品の格調が高く、「立て句」性をそなえた完成度のすぐれた作家だと思われている。ところが藤田哲史は、おもに若い時期の作品を対象として、蛇笏を未完成な作家であると考えるのである。山本健吉の「俳句の持つ格調の高さ、正しさにおいて、ついに彼の右に出るものは見当たらぬ」(『現代俳句』)というような蛇笏観は一面的であるとして、むしろ
彼の初期の作品には、詰屈した文体をもち、晦渋な印象を与えるものが多いことに着目する。例として挙げるのは
大空に富士澄む罌粟の真夏かななどであり、これらの句に見られる緊密に単語を繰り出していく洗練されていない文体は
雷やみし合歓の日南の旅人かな
山晴れをふるへる斧や落葉降る
ある夜月に富士大形の寒さかな
書き留めようとする気持ちに言葉が慌ててついていくような、作り手の性急さが作品に表れているものだとする。そして藤田は
をりとりてはらりとおもきすすきかななどの後年の完成された俳句と比べて、これら未完成の作品のほうにより多くの興味を抱くのである。
くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
気をつけたいのは、藤田が言う「未完成」は、「不完全」という意味ではないということである。若い時代の晦渋な句も、それはそれとして自立した「完全な」作品なのである。藤田が言う「未完成」とは、思いがことばに定着するまでのプロセスが読者に読みとれるように露出していて、そこに読者の参加を不可欠なものとして要請するかたちになっているということなのだ。「はらりとおもきすすき」や「くろがねの秋の風鈴」は表現の洗練においてはすぐれているが、これらの句が創作される途中での作者の心のたゆたいは必ずしも受け取りやすいものとはいえない。それに比べて「大空に富士澄む罌粟」や「合歓の日南の旅人」には、どうしてもこのようにくどく強く言わなければ気がすまないという、作者の情念の動きが明瞭に出て、読者に伝わるのである。
このような指摘によって、藤田は「俳句をつくるとはどういうことか、俳句を読むとは何を意味するのか」に関する彼の考えをあざやかに示している。俳句は結果のできばえがすべてなのではない。すぐれた俳句とは、自分に巻き起こった鼓動をことばの形にのせて、世界にその波動をひろく伝えることができる作品のことだ。すぐれた読みとは、作品から心の震動を読みとって、共感することにより、作者の制作のプロセスを実感する行為のことだ。いかに美しく磨かれた作品であっても、それが読者の参加を拒否するような冷たくこわばったものであったとしたら、そこには人間的価値はない。読んだ人の心を躍らせ、「よし、自分も創作してみよう」という、連鎖の感情を喚起する力をもつものが、真にすぐれた俳句なのである。
制作プロセスを読者に体験させる蛇笏の作品の例として、藤田は次のような句を挙げる。
山峰の月に帰るや夜学人「山峰」「連山」「大嶺」と言っているが、要するにこれらは「山」のことにすぎないのである。だが、単に「山」と言うだけでは蛇笏は気がすまず、それらは「山峰」「連山」「大嶺」へと変貌していく。この変貌のプロセスこそが「詩の核心」であり、それらをわれわれは追体験できる。いや、追体験という言いかたは不正確であろう、われわれは蛇笏と同じ位置に立ち、蛇笏と同時に感情を体験しているのだ。この場合、読むという行為はすでに享受の範囲を超え、創作そのものになっていると言わなければならない。われわれは蛇笏とともにこれらの句を創造するのだ。
炉によつて連山あかし橇の酔
臼音も大嶺こたふ弥生かな
この論考を、藤田は次のように美しく締めくくっている。蛇笏俳句を読むことは静的な受容ではなく、読んだ瞬間に自分の内に壮大な城が立ち上がるダイナミックな体験であるという、作家的な信条を告げた、すばらしい文章である。
そして、もっと興味深いことは、その<未完成>が<未完成>であるために宿るものがあった、ということだ。洗練されていないものにも、何かは宿る。言葉はつねに何かを描き出すのだ。俳句で表現できることは、案外少なくない。蛇足ながら付け加えるならば、「俳句で表現できることは、案外少なくない」というのは、「俳句はあれもこれも表現できます」ということを主張しているのではない。俳句が引き起こす(それは元々まで極めれば言葉そのものが引き起こす)感情の連鎖は、時間空間を超えて無限につながっていくべきものだということを言っているのである。その連鎖に信頼をもつ者のみが、俳句創作に関わりつづける力をさずかることができるのであろう。
≫傘〔karakasa〕 ウェブサイト
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