2012-02-05

千代田区麹町六丁目七番地……金原まさ子

千代田区麹町六丁目七番地

金原まさ子

「街」no.81(2010/2)号より転載


一九三十一年──私──二十一歳
「街」 のおおかたの方々が、 まだこの世に生を得ていらっしゃらない頃です。

私達は銀座松坂屋裏の、 ブランスィックのボックスで珈琲を飲んでいる。 映子夫人──二九歳麗人──、 私と同年の光子さん、学校出たての若い男性三人組という顔ぶれ。

映子さんがのむ長くて細い外国煙草から匂いの良い煙が流れる。前に座った三人組がやたらにドイツ語を会話に混ぜながら盛り上がり、 光子さんと私は本当は蜜豆が食べたいのに我慢しながら (ここには置いていない) にがくて黒い珈琲を啜っている。

おそい春の昼下がり。
 
十幾年か後、このブランスイックが三島由紀夫の根城となり、 小説家や芸能人が足しげく出入り、 且フリル付き、白サテンのブラウスを着た美少年が、 銀盆を持って行き来する「あのブランスィック」に変貌するのだ。

私達が椅った高い木の背もたれは更に高くなり、 椅子は緋のビロードに変り、ボックスはより深く…。

細身の白パンツの三島由紀夫が、堂本正樹の掌に、
「君、綺麗な掌してるね」
と言いながら、生ハムのサンドイッチの一片を載せるのだ。堂本正樹は毎朝、熱い湯に掌を浸すことをする。

平日の銀座通りの、程々の雑踏の間をやわらかい風が流れる。京橋の日米ダンスホールへ歩いて十分──昼間のホールの白々しい灯。フロアの半分程が埋まっている。勿論ダンサーはいない。パートナーを連れていない女性客の為に男性ダンス教師が控えている。バンドなしレコードのみ。そうです。昼間のダンスホールは本格の社交ダンスを習ったり、練習したりする教習所でもあるのです。タンゴ、ワルツ、ブルース、クイックステップに限り、ジルバなど踊りたい人はフロアの端に遠慮しなければならない。我々は、常にこの上昇志向のベクトルを保ちつつ、ときに、チークなど試みるカップルに軽蔑のまなざしを投げ、難しいバリエーションステップの学習に励むのだ。

ホールにシャンデリアが輝きはじめ、光子さんと私に帰宅時間が迫ろうとしている。

実を言うと我々は、その時通っていた飯田橋料理学校へ行く為、 朝八時に家を出ているのである。学校は午前中で早退、しかじかの午後を過ごしたワケだが、六時半の枠内に帰宅し、「今日は学校の帰り、三越へ寄ってそれから資生堂パーラーでフルーツボンチを食べて来ました」と言えば「寄り道は、度々はいけませんよ」で済むのだ。

銀ブラ人種と言う族がいて、 銀座四丁目から新橋へかけての右側の通りを十回以上往復しないと眠れないと言い、連日のように夜の銀座へ繰り出す。左側は夜店が出るからダサイと言い見向きもしない。往っては戻り往っては戻り一体何だったのだろう。でもたまにそういう仲間に加わるときがあると、その夜は全く眠れず、森茉莉がイギリスの見知らぬ名門の老人から「茉莉へ」と言って宝石が贈られてくるのを夢見るように、 あしたは何か素敵な運命が待っているのではないか──と夜っぴいて読み耽るのは夢野久作ではなかったか。

何もかも遠い。

記憶が編年体でよみがえることをせず、 あちらこちら固まりとなって現われる。 人はアンラーンすることで生きてゆけると聞くが、 私の長生きは並はずれたアンラーンの仕業かもしれない。

東京に六十年、横浜に移り住んで三八年、長い間都会に住む人は、焚火の火や、ランプの灯をなつかしむと言うが、私は九八歳の今でも都会の灯が好きだ。胸がしめつけられるほどに。

ちょっと戻って、銀座で私達と別れた映子夫人たちはローマイヤで食事をとり、東京一ゴージャスな赤坂溜池の、 ──ああ名前が出て来ない──「・・・ダンスホール」へ行ってラスト迄踊るのである。ちなみに、あの三人組の一人が光子さん(別の名まさ子さん)の二年後のご夫君であった。

麹町六丁目の家は五月一五日の空襲で焼け失せた。

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