2012-02-05

「俳句」2012年2月号を読む 生駒大祐

[俳句総合誌を読む]
「俳句」2012年2月号を読む

生駒大祐

俳句2月号の特集は「俳句は瞬間を切り取る」。櫂未知子氏の総論に加え10人によるテーマ別の100句選が取り上げられている。

瞬間を切り取る、というのはかなり手垢が付いた表現で、一句の中の時間軸の幅は当然句によって異なる。そこをどう料理するのかが論者の腕であると、この特集名を見たときに思った。

その点で櫂氏の評論は明快で、瞬間を詠むというのを、まず「一瞬を長くするもの」と「瞬間のずれを詠む」に分けて論じている。これは僕の解釈では「事象にとっての瞬間」と「感覚にとっての瞬間」に分けていることに当たる。それはすなわち観察者の客体と主体のどちらにとっての「瞬間」なのかを言っていることに当たる。また、長い時間を詠んでいるような句に関しても「季語の役割」として項立てし、「季語は、その時、自分がそこに間違いなくいた証明になるからだ」と述べている。これはなかなか面白い論ではないかと思った。

一方で、やはり、テーマごとの10句選×10名の句を読んでいると、すべての句はなんらかの意味で「瞬間」を切り取っていることになるのではないかと思ってしまった。実作者にとって重要なのは、自身がどういう時間軸で句を読もうとしているのかを把握し、読者にとっての時間感覚を制御する意識を持って句を作ることではないだろうか。

小特集である「採る一句、採れない一句」については、柏原眠雨氏の論が基本的なところを押さえていて良かった。全体として、やはり感性は人によって違うので、師事していない人間が主宰の選の基準を聞いてもあまり響かないように思った次第。

個人的に非常に興味深い連載である「往復書簡 相互批評の試み 岸本尚毅×宇井十間」は「第2回 俳句の即物性について」。

岸本氏は「客観写生は韜晦である」という自説について話を展開している。ざっと記すと、岸本氏は客観写生を蠅というものの描写において、
「客観写生の態度は『蠅はたんなる蠅』ということではないでしょうか。そこには、俳句による殊更な言挙げを嫌う『韜晦』があると思います」と述べる。

一方宇井氏はまず「「社会状況」なり「内面」なりのあえて言うまでものあいことを、やや図式的に言葉に出してしまうことが、俳句の表現として冗長ではないか、というのが今回の考察の御趣旨と理解します。」と述べたうえで、その反論として、岸本氏が例に挙げた「老の眼にゝとにじみたる蠅を打つ 虚子」と「戦争にたかる無数の蠅しづか 敏雄」の句に対して、「虚子の句も敏雄の句も蠅に何らかの意味を読みこんでいます。結局両者の違いは相対的なものでしかないのですが、その違いを厳密につきつめていうと、それは「不快さ」という意味と「利益を得る人々」という意味のなじみ深さの違いになります。どちらの意味が、われわれの日常性に照らしてよりしっくりくるかの違いです。つまり、われわれは日常、蠅を虚子の句のように見ていて、敏雄の句のように見ることはあまりないという習慣上の違いにすぎなくなります。」と述べ、さらに「俳句における「韜晦」という美学とは、そのようななじみ深さを肯定する美学である、と言ってはあるいは言いすぎでしょうか。」と述べる。

今回に関しては、岸本氏と宇井氏の意見はあまりかみ合っていないのではないかということを思った。ひとつには岸本氏は必ずしも客観写生以外の態度を批判しているわけではないし、宇井氏の述べる「なじみ深さの違い」という指摘は鋭くはあるものの、「俳句における「韜晦」という美学とは、そのようななじみ深さを肯定する美学である、と言ってはあるいは言いすぎでしょうか。」という指摘は飛躍があるように思われた。

僕は「戦争にたかる無数の蠅しづか」はメタファのぎりぎりのところに立っていながら、言葉が言葉そのものの意味で留まっているところに魅力があると考えていたので、メタファとして解釈してしまうと句の力が弱まると感じた。そもそも、岸本氏はどちらかというと作者論を述べ、宇井氏は読者論を述べているところにそもそもの擦れ違いの原因があるようにも思われる。

実は岸本氏と宇井氏は同じことを指摘していて、「なじみ深さの違い」でしかないものを「客観写生だ」と言うことで、比喩性の無いものだと「韜晦」するのが客観写生の態度であるというのが岸本氏の指摘ではないか。すなわち、客観写生は「なじみ深さ」を肯定するのではなく、その逆のことをしているのではないかと素朴に思った。

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