2012-02-05

朝の爽波 3 小川春休


小川春休







3



もし、本稿で爽波に興味を持たれた方がいたら、とっても嬉しい。しかし、興味を持っても、お手頃価格で爽波の作品に触れられる本が存在しないという事実…。十数年前に購入した花神社の「花神コレクション〈俳句〉波多野爽波」は、抄出ながら爽波の作品がある程度まとめて読めるし何よりコンパクトで持ち歩きしやすくてお気に入りの本なのですが、もう書店には並んでないだろうなぁ。

ぱぱっと調べてみたところ、調査結果はこんな感じでした。

【 Amazon調べ 】
○ 花神コレクション〈俳句〉波多野爽波  \9,999~(中古品、2点のみ)
 ※ 発売当時の定価は1,500円。おんなじ花神コレクションでも、こんなプレミア価格(定価の6倍以上!)になってるのは爽波だけと言って良く、他の作家の大部分は定価と同等か、それより安く買える。それにしても、足元見るなぁ…。

【 サイト「日本の古本屋」調べ 】
○ 句集『鋪道の花』 \2,500
○ 句集『骰子』 \3,150
 ※ 花神コレクション、『湯呑』、『一筆』は該当なし。


さて、引き続き第一句集『鋪道の花』、今回は昭和18年から20年の句。思いっきり戦時中の句なんですね、一句ずつ鑑賞してるときは気にしてませんでしたが…。


鴨の陣はつきり雪の山ぼうと  『鋪道の花』(以下同)

鴨の陣とは、鴨が大群を成して泳ぐ様。細やかな描写ではないが、手際良く必要な言葉だけをぽんぽんと並べて描き出された、バリエーションに富んだ大景は、読む快感を与えてくれる。こういう文体、辻桃子経由で現在の「童子」にも受け継がれているような。


クローバの中にも水の溜まりをり

三枚葉や四枚葉のクローバー、その「中」とは、葉と葉の作り出すくぼみ。何の「水」とは明示されてないが、通り雨でも降ったのだろうか。地のクローバーの中に水を見つける視線の低さに、あたたかなものを感じる。素十を写生の極北とした爽波の写生句だ。


瀧茶屋の鏡に岩の映りをる

瀧茶屋の鏡に、外の大きな岩がどーんと映っている。瀧茶屋の戸や窓は大きく開かれており、鏡自体もかなりの大きさ。建築物の中にまで自然が入り込んできており、茶屋や鏡という人工のものとそれを取り巻く自然とが混ざり合った状態でそこに在り続けている。


欄干にいたく身反らせ涼みをり

涼む人の姿を描いているが、活き活きと、というのとはまた別の不思議な存在感がある。欄干に寄りかかってか、身を反らしているのだが、反らし方がどうも尋常でない。あり得ない角度に身体を曲げられた人形のようでもある。ほんの少し、不穏な感じの漂う句。


芒枯れ少しまじれる蘆も枯れ

芒が、枯れている。その景を一言で言ってのける「枯芒」という季語も、あるにはある。しかし掲句では、蘆の少し混じる芒原という景のバリエーションと、連用形で言い流す形による茫漠とした広がりとによって、「枯芒」という季語が豊かに肉付けされている。


窓掛の春暁を覆ひ得ず

窓掛けとはカーテンのこと。きっちり閉じていても、みなぎる朝の光はカーテンを透過してくる。「覆ひ得ず」という否定が力強く、若々しい表現。ちなみに〈カーテンも引くべきは引き春の宵〉はこれより後年の作。日々の生活の周辺をしっかりと句に詠み込んでいる。


草に寝て雲雀の空へ目をつむり

地に生え出でた草と、綺麗に晴れた空。青春詠と言っても良いかも知れない。目をつむっても雲雀の声が、その位置と、空の広さを知らせてくれる。句の中の主体は、背中に草の柔らかさを、耳に空の広がりを感じることで、その二つをつなげる働きをしている。

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